
02年11月01日(金)
言うまでもなく、人類は太初より現在に至るまで、継続して「時間」という概念に取り組んできました。多くの哲学者が「時間」について考え、多くの文学者が「時間」について書き、あらゆる分野の学問が、あらゆる分野の研究者が「時間」について答えを見いだそうと取り組んできました。それでもなお「時間」について明確な答えはいまだ得ることができていません。
「時間」に関するエッセイというものも相当数存在します。この雑記で何度も取り上げている吉田健一氏の『時間』などもそのうちのひとつです。相当に美しい文章に出会ったときの衝撃というものは大層なものでして、初めて『時間』を読んだときは、すごい勢いでぶっ倒れました。最初の一行がまた素晴らしくて。
冬の朝が晴れてゐれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日といふ水のやうに流れるものに洗はれてゐるのをみてゐるうちに時間がたつて行く。どの位の時間がたつかといふのではなくてただ確実にたつて行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間といふものなのである。
エッセイは吉田健一特有の澱みのない文体で、「時間」についてただ滔々と書かれています。一行一行を、さらに一文字一文字を味わうようにこのエッセイを読んでいる時間、それこそがまさしくぼくにとっての理想の「時間」なのです。
時間が凡てのものを運ぶのでなくて凡てのものを通して流れて行くものであることをこのことは示している。それは一冊の本も静止の状態に置かなくてそれはその本にも時間があるからであり、これをその本の形を取つた時間、或は時間をその本が取り得る一つの形と見るならば動くと考へられるものにも静止してゐる印象を與へるものにも時間は偏在してそのことを感じることが出来なければ眼も動かない。
この地上における二人の暴君、それは勉蔵と時間だ。
ヨハネス・ヘルダー(ドイツ文学者・哲学者)