
HotWiredから気になる記事をふたつ。
■『究極の延命』会議報告:不死への科学的アプローチ
■永遠の命を求める人々の心理を探る
自分は自分であり他人ではない以上、個性が別の個性を尊重することは当然のことであり、社会というものは(飽くまでも)その前提の上で成り立っていると思うのですが、それでもやはり他人というものは不思議な存在でして、ある程度までの理解は可能であっても、どうしても理解できない人というものは存在します。例えば卑近な友達の例で言えば
- 好きな人に好きと言わずにファンという人
- 家以外でうんこをするぐらいであれば、野ぐそをする人
- いまだに演技に松田優作の影響を受けている人
- 部屋のインテリアを無印良品で統一している人
- CMで家を建てた人
- スーツを無印良品で揃える人
- 中島
- 帰ると行って出ていって、ポン酢を買って戻ってくる人
などなど。
そんな中でも理解できないトップワンは、この「不老不死を願う人」でして、どうしてそこまで死ぬのが嫌なのか。いくら考えても理解できません。僕なんか毎日毎日、早く往生してーなー、あと50年はかかるなー、つーかよ、人生長くない?などと指折り数えているというのに。だって、死後の世界が本当にあるかとか興味あるじゃーん。くれぐれも言っておきますが、生を軽んじているわけでも、自殺したいとか言っているわけではないですよ。あくまでも、人生を生きられる限りきちんと生きて、その上でさっさと往生したい、と。こう申している次第でございます。
それで思うのは、不老不死を願う方というのは人生が楽しくて楽しくて仕方がないのではないか、と。もう、毎日がパラダイスで、一秒でも長く生きてー!という人たちなのではないか、と。あれ?でも僕も毎日が楽しくてパラダイスだな。でも死にたくないとは思わないし。うーん、わかんねー。
だってさー、例えば小学生の頃にうんこもらしたら、普通の人は80年ぐらいで死んで終わるけど、不老不死、あるいは驚異的な長寿の世界では、五億年とか経っても、あの人五億年前にうんこもらしたのよ、とか言われるわけでしょう。五億年もえんがちょだなんて、そんなの耐えられないわ。
その昔、中国を始めて統一した秦の始皇帝は、死の恐怖に駆られ、国を挙げて不老不死の研究に取り掛かりました。徐福伝説なんかもその一端です。始皇帝の場合、中国を統一してしまったり、妾が5000人いたりとかして、現世に欲が出たとしてもおかしくはないとは思いますが、ヒットラー並に被害妄想が強かったらしく、生きていて楽しー!と思っていたとはとても思えません。むしろ晩年にかけては、自分以外の人間のすべてが信じられずに、半分気が狂っていたとも言います。そんな彼でも死ぬのは嫌だった。不老不死を願っていたのです。
人が不老不死を願う気持ち、あるいは死を願う気持ちというものは、現世の状況が影響するような問題ではないのかもしれません。現世の状態がどうであれ、不老不死を願う人は不老不死を願うし、死を願う人は死を願う。そこに理由を求めれば、おそらく何らかの言葉による説明は得られると思いますが、それはあくまで言葉の理由に過ぎず、その奥にはもっと根源的な原因があるのではないか、などと。簡単に言えば、わたくしの持論である「原因は必ずしも結果を生むわけではない」ということです。
いずれにしても、もし自殺が罪なのであれば、不老不死も罪なのではないかと。そう思うわけであります。
私は永遠に生きたいとは思わない。永遠に生きるべきではないからだ。われわれが永遠に生きるべき存在だとしたら、永遠に生きることができるはずだ。だが、われわれは永遠には生きられない。だから、私は永遠に生きたいとは思わない。
(1994年のミス・アラバマの言葉)