04年02月26日(木)
「山中無暦日」という言葉を初めて聞いたときに、漠然と想像したのは、人間がどれだけ穢土に世界を作り上げようとも、瑣末な注意を意味あり気に述べ立てて哲学を生み出そうとも、時間を規定してありもしない記憶に意味を付与しようとも、それらを語る人間のいない山中は、そのままの状態でただあるがまま、世界も哲学も時間もそこには存在しない、つまり今こうしてぼくがパソコンの前でキーボードを叩いていても、それとは全く関係せずに「山の中」は在るわけで、そこに人はいないのに、物は動くし音も鳴っている、年月などという区切りはなくとも、山の中はただあるがままに在る、とそのようなことなのかしらと勝手に思い込んでいたのですが、いざその言葉の語源を調べてみると
偶々松樹の下に来たり
枕を高くして石頭に眠る
山中暦日無し
寒尽くるも年を知らず
つまり、たまたま山の中を歩いていて松の木の下に来た人が、こりゃいい気持ちと石を枕にして眠り、山の中には暦もくそもありはしねえ、冬が終わって暖かくなっても、今がいつなのかなんてわかりゃしない、ということのようです。たとえ暦日が無い山中であっても、それを語る人間という存在がそこに入った時点で暦日が誕生してしまうわけで、ましてや「山の中では暦日は関係ないね」などとほざく輩がいるような山の中はそれだけで魅力半減、確かこれはこれでとても良い詩なのでしょうが、最初にこの言葉を聞いて想像した山中と、実際の詩で語られる山中のイメージがあまりにも乖離していて、がっかりしました。
このようなことを、興醒めと言います。