03年04月20日(日)

 そんで養老孟司さんの『身体の文学史』です。

 日本では多くの場合、文学は精神の面から語られてきました。退屈な学校の国語の勉強でも「この時のKの気持ちを説明せよ」などといううんこみたいな問題がたくさんでてきたでしょう。脳医学の権威が書いた文芸批評というだけでも異色なのに、この本がそれ以上に面白いのは、そのような日本文学の「精神性」ではなく、これまであまり論じられることのなかった「身体性」という観点から近代の文学を論じているところで、養老さんはその前書きで「文学のなかで身体がどう扱われてきたか、それを解析するつもりである」と書いています。

 たとえば、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』に身体は存在していません。夏目漱石は『こころ』は書いていても『からだ』は書いていません。それは一体どうしてなのでしょうか?意識的なものとして、初めて身体の役割を文学に登場させる芥川龍之介は、『鼻』『好色』で身体に主人公を引きまわさせ、『羅生門』においては、死者の毛を抜く老婆に対して、現代人としての感情を下人に抱かせています。そんな芥川の作品を、田山花袋はまったく理解できませんでした。自然主義の田山花袋が、芥川の作品の面白さをまったく理解できなかったのは、一体どうしてなのでしょうか。

 養老さんは書きます。「見なしとしての身体は、この国ではほとんど常識と化している。江戸以降の世界では、身体は統御されるべきものであり、それ自身としては根本的には存在しない」。

 中世的世界では、人はまず身体的イメージで描かれました。しかし江戸、すなわち近世社会では、乱世を導くという理由から、身体の自然性は徹底的に排除され、人は心で描かれることになりました。さらにそこに明治維新、すなわち欧化による社会制度の変革が起こり、そこから明治以降の文学に通底する「我」の問題が生じるのです。

 大正時代の作家である芥川はこの「我」の問題について、どのように取り組んでいたのでしょうか。夏目漱石は、文学は心理主義が当然であるとし、それを好みました。芥川はそのような「漱石の内政的な心理主義をさらに拡張し、身体そのものを、心理主義で規定される近代文学の領域に取り込んだ」のです。養老さんはこのことを、「中世を近世に変換したといってもいい」と書いています。ようするに芥川は、漱石たちが心理で語ったことを、身体という形式を使って語ったのです。

 養老さんは、芥川が『今昔物語』の話の組立を改変していることについて、次のように書きます。

 芥川はこの改変によって、「死体の髪の毛を抜く」行為は、盗みという反社会的行為を誘発する、より根源的な反倫理的行為に、いわば「昇格する」。これを私は、江戸的感情の発露と呼んだのである。臓器移植に対するなにものともつかない「おそれ」、芥川はそれを、自分すなわち下人の感情として、みごとに描き出したことになる。現在のわれわれもまた、この感情から、一歩も踏み出していない。

 「現在のわれわれもまた、この感情から、一歩も踏み出していない」どころか、ぼくたちの感情は、より複雑なものになっています。科学が現代のように発達する以前は、「私」とは「神」の関係で語られるものでした。しかし科学の時代を生きるぼくたちが「私」について考えるとき、それはとても複雑なものなります。「私」とは、「身体」のことなのか。あるいは、「こころ」のことなのか。「こころ」は脳から生まれるものなのか、あるいは、「身体」から生まれるものなのか。「こころ」が「私」だとしたら、脳死は死ということになるのか。あるいは「身体」が「私」だとしたら、臓器移植の問題はどのように解決したら良いのだろう。「こころ」と「身体」を統合したものが「私」であるとした場合、そのいずれかを失った場合、あるいは分離した場合、「私」はいったいどこへ行くのだろうか?またあるいは、「私」のクローンは、「私」なのか、あるいは「あなた」なのか。

身体の文学史』はこんな感じで、明治から昭和にかけての文学史を、身体という観点から論じていきます。うーんスリリング。

 ところで、養老さんは『身体の文学史』の前書きで「歴史一般がなぜ可能なのか」という疑問を投げかけています。「シーラカンスから人に至るまでにも、すでに五億年が経過している。なぜそれが、一時間で読める『物語』になるのか」。この一文を読んだとき、どきっとしちゃいました。

 養老さんはさらに続けて、「歴史」は「脳」の機能であるとして、次のように書きます。

 歴史は、(・・)脳が持つことができる、時空系の処理形式の一つである。その形式を、昔から「物語」と呼ぶのであろう。だから、歴史は神話からはじまる。

 先日の雑記でも書きましたが、ぼくは今、「どうして動物には歴史がないのか」という、まことに阿呆臭いことを考えておりまして、そのようなことを考えるときに「記憶」というものは非常に重要なファクターとなります。「記憶」は明らかに脳の機能のひとつであり、同様に脳の機能である「歴史」と、その形式である「物語」の関係。それがとても気になるのです。

 とても気になるのよう。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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