
02年09月20日(金)
■龍安寺の石庭 見ていると自ずと人は快く- 京大研究員ら 認知科学で仕掛け解明
なんなんでしょうね、こういう研究結果を最近よく目にしますけれど、人がなにかを見て心地よさを感じたり、感動したりする原因を認知科学で説明するというのは、どうも抵抗がありまして。
誰かが、映画を観たり絵画を観たりして感動したことを、「理由」を中心に説明しているのを聞くときに感じる違和感に似た感覚というか、恋愛なんかでもそうですけど、その人を愛している「理由」を説明できるうちはまだまだ本当の恋愛ではないのではないか、などと勝手に思っていまして、「〜だから面白い」とか、「〜だから好き」とか、それは好きであったり感動したりした要素のひとつではあっても絶対ではなくて、何かに感動したり愛したりするのは、ちょっと気取らせていただきますと、「魂が魅かれる」ような感覚で、「理由」なんて言葉では表現できるものではないのではないか、と。
ですから、認知科学の重要性は認識しつつも、現代では脳のどの部分をいじれば悲しくなるかとか、怒りだすとか、そんなことまで解明されているということを考えると、逆にそれを越えた感覚の世界の存在を強く夢想してしまいます。脳という檻の中で生きている僕たちは、結局は生物的な物理的法則に則って世界を生きているのかとか悲しくなったりもしますけど、そんな当たり前のことはどうでもよくて、問題なのは認知科学のような「心の原因」の科学の精神が間違って巷間に流布したときのことで、ぼくが何かに感動したり、誰かを愛したりしたときに、その「理由」を得意げに説明するような輩がいたら、指浣腸をしてやります。
けど、このような話は結構好きです。