

午後一時、起床。寝惚け眼で部屋を見回すと、清陽なるものは薄靡きて天になっていて、重濁れるものは淹滞ゐて地になっていて、精妙なのが合へるのは摶り易いし、重濁れるが凝りたるは竭り難いので、天先づ成りて地後に定っていてびっくりした。そういうわけで、カフェへ。
このお休み中に、少しは勉強もしようと思って、お仕事場から持ち帰った本を読む。三分読んだら眠気に襲われる。眠気覚ましに、ジョン・リドリーの『地獄じゃどいつもタバコを喫う』を読む。めちゃ面白い。あっという間に一時間経過。やばいやばい、勉強勉強。お仕事場から持ち帰った本を読む。三分で眠気。眠気覚ましにジョン・リドリー。あっというまに三十分経過。やばいやばい、勉強勉強。お仕事場から持ち帰った本を読む。三分で眠気。眠気覚ましにジョン・リドリー。あっというまに三十分経過。やばいやばい、勉強勉強。お仕事場から持ち帰った本を読む。三分で眠気。眠気覚ましにジョン・リドリー。あっというまに三十分経過。やばいやばい、勉強勉強。お仕事場から持ち帰った本を読む。三分で眠気。眠気覚ましにジョン・リドリー。あっというまに三十分経過。気付いたら、夕方です。新宿へ。
本日は、一年の締め括り、鉄割の忘年会です。めがね焼きをいただきながら、来年もよい年であると良いですね、と口々に。
久しぶりに朝方までお酒を飲んで、倒れるように帰宅。

午後二時、起床。寝惚け眼で部屋を見回すと、まるでいにしえの頃の天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき、渾沌れたること鶏子の如くして、ほのかにして牙を含めりときのように、ぐちゃぐちゃのカオス状態。お部屋を掃除しましょう。
むっしょーにリチャード・ブローティガンの小説が読みたくなって、古本屋さんで買おうかと思って調べたところ、翻訳の値段がプレミアがついてめちゃくちゃ高くなっている。仕方がないので、Amazonで「A Confederate General from Big Sur」と「Dreaming of Babylon」と「the Hawkline Monster」が一冊になっているぺーパバックと、「Revenge of the Lawn」と「the Abortion」と「So the Wind Won't Blow It All Away」が一冊になっているぺーパバックの二冊を注文。二冊で三千円ちょっとだけれど、実質的には六冊分なので、お買い得でしょ。
夜、ひまひまちんちんでたるんでいる精神に気合いを入れるために『フィアードットコム』と『The Eye』というこわい映画を連続で観る。どちらも全然こわくなかった。『The Eye』は、ラストにびっくり。

午前十時起床、新大久保へ。約三年ぶりの新大久保。会場に着くとぼく以外の全員がスーツ。そうだ、世間というものはこういうものだった。こころの中で中指立ててつば吐いて、気持ち的に颯爽と途中退場。
帰りに新大久保のお店に立ちよって、数冊の雑誌を購入。文藝別冊の『内田百けん』も一緒に購入。百けんさんの娘さんの伊藤美野さんの文章が嬉しい。百けんさんにも家庭があって、子供もいたということが、当たり前なのに何となく不思議な感じ。
古本屋さんで森島恒雄著『魔女狩り』を購入。途中のお茶屋さんで読書。読みながら、涙が止まりません。カール・セーガンは、『人はなぜエセ科学に騙されるのか
』の中で、魔女狩りに触れて次のように書いている。「人間とは何をどこまでやるものなのか—それを知らなければ、われわれは自分自身から自分を守る手だてを正しく見抜くことはできない。(中略)魔女狩りは、人間が自らを知るための窓なのだ」。
『魔女狩り』の中で衝撃的なのは、人々が受けた肉体的な拷問などの残酷な記録よりもむしろ、人々の行動の記録、あるいは書簡や著作の内容、つまり人間の精神面に関する記録で、その中には裁く側の記録だけではなく、裁かれる側、魔女として逮捕され、拷問を受け処刑される人々の数少ない書簡などもあります。何の根拠もなく逮捕され、拷問を受け、宗教が世界の秩序を成立させていた時代に、自らが魔女であることと認めさせられ、無理やりに知人の中から無実の共犯者を自白させられ、最後には火に焼かれる人々の悲痛な叫び。思わず目を閉じてためいき。
ニコラ・レミーに関する以下の文章を読んだときには、思わず本を閉じてしまいました。
裁判官であるニコラ・レミーが晩年に痛切に後悔したことは、彼が幼い子供に「寛大でありすぎた」こと、そのために、その子供たちを「焼かずにすました」ことであった。魔女を撲滅するためには、悪魔の血を受けた子供を生かしておいてはならなかったからである。
でも読まなくちゃ。最後まで。生涯において、自分と、自分のまわりの人が、ニコラ・レミーにならないためにも。
本文中で何度か引用されているパスカルの言葉を、ここでも引用しておきます。ここでパスカルが述べる「宗教的信念」という言葉は、そのまま「科学的信念」という言葉にも、あるいは単なる「信念」という言葉にも置き換えることができると思います。ばかとはさみは使いようによっては切れますが、使い方を間違えれば大けがをします。宗教と科学も、同じようなものですから。
人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行うことはない(『パンセ』)
信念を持つことはとても良いことですが、柔軟に、柔軟に。ちょっとぶつかったらすぐに割れてしまう程度の信念が、ちょうど良いのかもしれません。