

今週末は鉄割電子映画の上映会です。みなさま、御来場お待ちしておりますので、是非ともお越しください。忘年会なども兼ねて。
先日、思うところあって、内村鑑三の『代表的日本人』を読んでいたのですが、西郷隆盛の最後が、次のように書かれておりました。
一八七七年九月二四日の朝、官軍の総攻撃が城山に向かって開始されました。西郷が同志とともに迎撃のために立ち上がったとき、一発の銃弾に腰を撃たれました。まもなく少数の味方は全滅、西郷の遺体は敵方の手におちました。
「無礼のないように」
敵将の一人が叫びました。
「なんと安らかなお顔のことか!」
別の一人が言いました。西郷を殺したものがこぞって悲しみにくれ、涙ながらに葬りました。今日も西郷の墓には、涙を浮かべて訪れる人の群れが絶えません。
もっとも偉大な人物が世を去りましたが、最後のサムライであったのではないかと思われます。内村鑑三の『代表的日本人』
そういえば映画『ラストサムライ』は西南戦争がモデルになっていると、どこかで読んだことを思い出し、早速観てきたのですが、いやはやびっくりしました、 もろ『ダンス・ウィズ・ウルブス』じゃん。西洋人がアジアの人々の生活に触れて開眼するパターンの映画、いい加減にやめてください。それに、『キルビル』でようやくアメリカ映画での日本の描き方がまともになってきた と思っていたのに、ぜーんぶぶち壊しです。こんなの見て「やっと日本が正しく描かれた」とか言って喜んでいるあほうは誰ですか。
とはいえ、個人的な感情を抜きにしたら、とても面白い映画でした。はは。心から愉しんでしまった自分がとても口惜しくて。役者さんもみなさんとても良かったし。
どなたか、『武士道』ではなくて、鈴木大拙の『日本的霊性』をもとに日本の映画を作ってください。

久しぶりに内倉君に会ったら、完全にM字はげになっていて、でこが光ってました。という夢をみました。
T.R.ピアソンの初めてのの翻訳『甘美なる来世へ』を購入しました。ずっと以前に「Esquire」でこの人のインタビューを読んで以来、楽しみにしていたのでめちゃ嬉しい。ページを開くと、始まりからいい感じ。「それは私たちが禿のジーターを失くした夏だったが禿のジーターはジーターといってももはや大半ジーターではなく大半スロックモートンにたぶんなっているというか少なくとも大半スロックモートンになっているとたぶん思われていてそう思われることが大半ジーターだと思われることより相当の向上ということになるのはジーターには対した人間がいたためしがないのに比べてスロックモートンたちはかつてはひとかどの人間だったからであるがただしそれも金がなくなり威信も消えてしまう前の話であって今となっては空威張りと汚名と漠たるスロックモートン的風格が残るばかりでありそんなものは全部合わせたところでおよそ騒ぎ立てるほどの遺産ではないのであるがそれでも空威張りにせようんぬんかんぬんうんぬん」。この種の文章は、一度はまるとたまらないのです。読むのが楽しみい。

『ブッダの夢』に続く河合隼雄氏と中沢新一氏の対談集『仏教が好き!
』をちょうど半分ほど読み終えたのですが、とても面白い。特に仏教における性に関する章がとても面白くて、もともとの原始仏教以前のブッダがいた頃の教団は、独身者のみの集団で、もちろんセックスは禁止されていたわけですが、ブッダの教えを破らないような形で、要するに教義の抜け道を探してどうにかして性的な欲求を満たそうとするものが続出したそうです。そこでそのような性的な欲望を禁止する戒律を規定して、「律蔵」というものを作ったのですが、これがほとんどギャグとしか思えないようなもので、おおまかに言うと次のようなものです。
人でも、動物でも、女でも男でも去勢者でも、三道、つまり大便道でも、小便道でも、口でも交われば教団追放である。たとえば、去勢した動物の大便道や口にペニスを入れても教団追放である。その相手が、眠っていても、酔っていても、狂っていても、死んでいても、死んで、鳥獣に喰われていても、その三道で交われば教団追放である
ここまで細かく規定しているのは、現にそのそのような行為をしているものがいたからで、これがもうめちゃくちゃなのです。その一部を引用します。
ある時、ひとりの修行僧が林のなかで食物で猿を誘い、獣姦した。その後、その猿は僧院に現れ、件の修行僧に食物を求め、彼がそれに応えると、他の修行僧の見守るなかで尻をあげてヴァギナをあらわにした。修行僧はその猿と交わる。他の修行僧から、それは釈尊の教えに反すると詰問されるが、彼は「しかし、釈尊は人間の女性との性交を禁じただけで、動物との性交は禁じていない」と答える。
みんなが見ている前で猿とセックスするやつがおかしいのは当然として、それを見たやつも「それは釈尊の教えに反する」って、つっこみが間違っています。ちなみに、鉄割の中にも初体験の相手が猫という人がいますが、彼もそうとうに気がおかしいです。
ある時、ペニスの長い修行僧があって、淋しさに自分を失い、つい自分のペニスを大便道に入れてしまった。釈尊は「彼、楽しみを覚えたのならば、教団追放である」と宣した
「淋しい」ということと、「自分の肛門にちんちんを入れてしまった」ということが普通に結びついているところが素晴らしい。それにしても、奥村君(ちんちんが肩にかかるほど長いのです)が紀元前のインドにいたとは驚きです。
ある時、ひとりの出家修行者が死体を見つけた。その死体のヴァギナのまわりに傷があった。「これなら罪を犯したことにならないだろう」と推察し、ペニスをヴァギナに入れて、傷より出した。傷より入れて、ヴァギナから出した。彼の後悔の告白を聞いて、釈尊は告げる。
「教団追放だ」
ある時、ひとりの出家修行者が墓所に行って、死体から切り落とされた頭部を見つけた。修行者はその開いた口の中にペニスをいれ、その口で楽しみを覚えた。彼の後悔の告白を聞いて、釈尊は告げる。
「教団追放だ」
いわゆる死姦です。ちんこをまんこに入れて傷から出して、傷から入れてまんこから出して。相当に倒錯しております。
ある時、ひとりの出家修行者が、バッデヤの林にて昼寝をしていた。彼のペニスは風に揺られて勃起していた。ひとりの女性がそれを見つけ、勝手にペニスにまたがり性交して去った。他の修行者がペニスが濡れているのを見て、釈尊に問うた。釈尊は答えた。
「(中略)かの修行者は欲望によりて勃起したのでもなければ、楽しみを覚えたわけでもない。彼は罪を犯していない」と。
風に揺られて勃起したペニスって、なんだか牧歌的で素敵です。歌とか聞こえてきそう。
他にも、女性の死体の骨をすりつぶして、それでまんこの形を作ってそこにちんこをいれるやつとか、肉親ならよいだろうと母親とか妹とやるやつとか、みなさん本当にどうにかしてセックスがしたかったようです。まあ、時代的には、動物とやったり死体とやったりすることがタブーではなかったのかもしれませんけれど、インドだし。ようするに、ブッダのいたころの教団も、現代の鉄割も、メンバーのやっていることはほとんどかわらないのですね。という結論。
さて、続きを読みましょう。