

床に就いて本を広げるとき、間違って面白い長編小説なんかを読み始めると、さあ大変です、読みが止まらないのでいつまでたっても眠ることができません。明日が早いときや用事があるときは、できるだけつまらない本か、あるいは短編小説を読むようにしているのですが、先日読んだロアルド・ダールの『あなたに似た人』という短編集は、最初の一編を読んだら面白くて読みが止まらずに、もう一編もう一編と結局、明け方まで読み耽ってしまいました。
解説から、作家都筑道夫氏によるロアルド・ダール氏の紹介文を引用しておきます。
アフリカの土語スワヒリ語とノルウェイ語を、英語と同じように話し、《ニューヨーカー》誌に、賭に熱中する男たちの物語を書き、飛行機のことならなんでも知っている、ノッポのイギリス人—これぞ、ロアルド・ダール
確かにこの短編集の中にも賭に関する作品が多く、そのいずれもがわくわくさせてくれてとても面白いのですが、賭が登場しない作品も相当に面白くて、例えば『韋駄天のフォックスリイ』という作品は、主人公である男性の満ち足りた通勤生活の独白から始まります。この主人公は、この三十六年間の週に五日、八時十二分の汽車でロンドンに通っています。何年間も同じ道のりを毎朝のように行き来していれば、普通に考えれば飽き飽きしそうなものですが、この男性は毎日のこの通勤生活を心から愉しんでいます。「この小旅行の、あらゆる面が、私を愉しませてくれる」。
しばらくはこんな感じに、男性の通勤生活がいかに愉しいかという記述が続きます。ところがある日、その快適な通勤生活に「いささか尋常とはいえないようなこと」が起こります。いつもであれば駅のプラットホームには、見慣れた通勤者仲間しかいないはずなのに、見知らぬ人が立っているではありませんか。次の日も、その次の日もその見知らぬ人は現れます。そしてある日、主人公の男性はこの見知らぬ人が、子供の頃にこの男性をひどい目に遭わせた学校の先輩「韋駄天のフォックスリイ」であることに気付きます。
このあと、主人公の男性がこの「韋駄天のフォックスリイ」からどれだけひどい目にあわされたか、その思い出の記述が続きます。最初は愉快な通勤生活、次は見知らぬ他人が自分の通勤生活に割り込んできたことへの戸惑い、そして子供の頃の苦い思い出、男性の独白は次々と変化していくのですが、これが最高に面白いくて、ロアルド・ダールの短編のすべてに関して言えることですが、登場人物はみな必死なのに、読んでいる側からするとそれがとても滑稽で、ユーモラスなのです。それはもしかしたら、短編集の表題でもある『あなたに似た人』、つまり登場人物の滑稽な様子が、どこか自分や自分のまわりの人を思わせるからかもしれません。
それから、短編の要であるラストのすばらしさも忘れてはいけません。『韋駄天のフォックスリイ』に関して言えば、ぼくは本当に声を出して笑ってしまいました。どの短編も2,30ページ程度なのですが、ラストが最高に素晴らしくて、期待を裏切りません。
このロアルド・ダールの『あなたに似た人』は、何年か前に戌井さんに借りたままずっと本棚の奥に眠っていたのですが、この感じだと、ぼくの本棚にはまだまだ面白い小説がたくさん埋もれているようです。困った、いつまでもたっても夜が眠れませんよう。

目覚めてみたら熱は下がっているようすなので、少し陽を浴びようと思って外に出たら雨が降っていました。秋雨に肩を濡らしながら少しだけ散歩、そのまま映画館に行って『阿修羅のごとく』を観ました。とても良い映画で、はああと幸せのため息をひとつ。良い映画を観た後は、幸せのため息がもれるのです。
特に良かったのは、三女(深津絵里)のお昼休みのシーンで、公園のベンチで持参の麦茶を横に置いてお弁当を食べている深津絵里の姿はあまりにも素敵すぎて、以前からこの人はもしかしたら世界で一番かわいいのではないかと思っていたのですが、その思いは確信に変わりました。
映画の舞台となっているのは、昭和五十年代で、ぼくの記憶にかすかに残っている時代です。帰り道に、ぼくの幼年時代はもはや郷愁を感じるような遠い時代になってしまったのかあとしみじみ。変化の多い現代だから、ほんの二三十年で時代は移り変わり、幼年の頃に郷愁を感じたりもするけれども、時の変化の少なかった江戸時代の人たちは、自分の幼年期に時代の郷愁を感じたりすることはあったのかしら、でも郷愁というものは、時の変化ではなく気持ちの変化に感じるものなのかもなあなどと考えながら、薄暗い夕方の雨の中を歩いていたら、靴がびりりと破けました。
先月はあまりにも出不精が過ぎました。今月は少し活発にあちらこちらへ見聞を広げるために遊びに行こうと思います。思います。思うだけかも。
昨日から歯が痛んでいたので嫌な予感はしていたのですが、発熱してしまいました。月に一度は病に臥しております、やはり日頃の不摂生。
思えば本日は鉄割の本番の日、ああやつらは今ごろ舞台で意気軒昂としていることでしょう、今回の公演に参加しなかったことは正しかったと思いながらも、天井を見つめているとなぜか寂しく。
夜に冷たい蒲団に身を包み、漫然とテレビを眺めていたら、壇一男の最後の数ヶ月のドキュメンタリーが放送していて、体が弱ると精神も弱るのでしょうか、なぜか涙がとまりません。
そうだ、今からこのホテルを折り畳んで、パリマで直行すれば、今年の暮から正月の「ポナネ」の熱狂と寂寞に紛れこめるではないか、そのままそのパリの雑踏の中から、素早くインスブルックあたりまで、逃げ出して行ってしまいたいものだ。
私は、ゴキブリの
這い廻る部屋の中で
もう一息ウイスキーを乾して
酔い痴れて、酔い痴れの妄想を広げている「火宅の人」
病気の時だけ人が恋しいというのは、都合が良過ぎます。いずれ人知れぬ山奥に隠居する身であれば、こういうときこそ孤独に慣れるに絶好の機会、兼好法師曰く、まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。