

目覚めてみたら熱は下がっているようすなので、少し陽を浴びようと思って外に出たら雨が降っていました。秋雨に肩を濡らしながら少しだけ散歩、そのまま映画館に行って『阿修羅のごとく』を観ました。とても良い映画で、はああと幸せのため息をひとつ。良い映画を観た後は、幸せのため息がもれるのです。
特に良かったのは、三女(深津絵里)のお昼休みのシーンで、公園のベンチで持参の麦茶を横に置いてお弁当を食べている深津絵里の姿はあまりにも素敵すぎて、以前からこの人はもしかしたら世界で一番かわいいのではないかと思っていたのですが、その思いは確信に変わりました。
映画の舞台となっているのは、昭和五十年代で、ぼくの記憶にかすかに残っている時代です。帰り道に、ぼくの幼年時代はもはや郷愁を感じるような遠い時代になってしまったのかあとしみじみ。変化の多い現代だから、ほんの二三十年で時代は移り変わり、幼年の頃に郷愁を感じたりもするけれども、時の変化の少なかった江戸時代の人たちは、自分の幼年期に時代の郷愁を感じたりすることはあったのかしら、でも郷愁というものは、時の変化ではなく気持ちの変化に感じるものなのかもなあなどと考えながら、薄暗い夕方の雨の中を歩いていたら、靴がびりりと破けました。
先月はあまりにも出不精が過ぎました。今月は少し活発にあちらこちらへ見聞を広げるために遊びに行こうと思います。思います。思うだけかも。
昨日から歯が痛んでいたので嫌な予感はしていたのですが、発熱してしまいました。月に一度は病に臥しております、やはり日頃の不摂生。
思えば本日は鉄割の本番の日、ああやつらは今ごろ舞台で意気軒昂としていることでしょう、今回の公演に参加しなかったことは正しかったと思いながらも、天井を見つめているとなぜか寂しく。
夜に冷たい蒲団に身を包み、漫然とテレビを眺めていたら、壇一男の最後の数ヶ月のドキュメンタリーが放送していて、体が弱ると精神も弱るのでしょうか、なぜか涙がとまりません。
そうだ、今からこのホテルを折り畳んで、パリマで直行すれば、今年の暮から正月の「ポナネ」の熱狂と寂寞に紛れこめるではないか、そのままそのパリの雑踏の中から、素早くインスブルックあたりまで、逃げ出して行ってしまいたいものだ。
私は、ゴキブリの
這い廻る部屋の中で
もう一息ウイスキーを乾して
酔い痴れて、酔い痴れの妄想を広げている「火宅の人」
病気の時だけ人が恋しいというのは、都合が良過ぎます。いずれ人知れぬ山奥に隠居する身であれば、こういうときこそ孤独に慣れるに絶好の機会、兼好法師曰く、まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。

数年前に古本屋さんで100円で購入して、そのまま本棚の奥に埋もれていたジョナサン・キャロルのファンタジーホラー『死者の書』を偶然に発見、読んでみたらすごく面白かった。ラストの二行がすべての伏線の到達点となっている小説なんて、初めて読んだかも。ゴシックホラーってこんなに面白いものだったのね。保坂和志が『書きあぐねている人のための小説入門
』で、小説とストーリーの違いについて「ストーリー・テラーは、結末をまず決めて、それに向かって話を作っていく」というふうに説明していたけれど、まさしく結末に向けての伏線が至る所に張り巡らされていて、読み終えて感嘆。いやあ面白かった。
ところで、主人公であるトーマス・アビイが高校のアメリカ文学の先生であることもあって、物語の至るところに文学的な引用や参照が登場するのですが、そのなかのひとつ、ジェームズ・サーバーの一角獣の話がとても気になって調べてみたところ、全文をWebで読むことができました。短いし、とても面白い(少なくともぼくはこのような話が大好き)ので、ぜひご一読。
『死者の書』はジョナサン・キャロルの処女作で、現在までに彼女の作品は翻訳されているだけでも十冊が出版されているようです。他の作品も読んでみようっと。
本を読むってことは、少なくともぼくにとっては、誰か別の人間の世界に旅をすることなんです。いい本なら居心地はいいし、それでいてその世界で自分に何が起きるのか、角を曲がったところに何が待っているのか、知りたくてたまらなくなる。ひどい本ならニュー・ジャージーのセコーカスを通り抜けてるようなものです—臭いし、どこかよそに行きたいと思うんだけど、旅を始めてしまった以上は、窓を閉めて口で息して通り抜けるしかない『死者の書』より