
ダニー・ボイル監督の『28日後...』を観ました。同監督の『トレイン・スポッティング』はあまり好きではないのですが、この映画はとても面白かったです。特に前半部、昏睡状態から目覚めた主人公が、ゴミや新聞や紙幣が散乱する無人のイギリスの町を徘徊するところとか、途中で出会った三人と一緒にタクシーでマンチェスターに向かう道程とか、たまらんものがありました。この映画、基本的にはジョージ・A・ロメロのゾンビ映画へのオマージュ的に作られているのですが、この映画で人を襲うのはゾンビではなくてウイルスに感染した人間(ほとんどゾンビなんだけど)であり、さらに後半は、ウイルスに感染してない人間同士の戦いへと展開していきます。映画のテーマとしては後半に重点が置かれているような気もしますが、個人的には前半が展開が最高で、このようなホラーという形式を借りたロード・ムービーを観てみたいなあなどと思いました。そういう映画ってあるのかしら。
ところでこの映画(というかゾンビ映画一般に関して)、ウイルスに感染した人間の描写がいまいち曖昧で、血液一滴で感染、十秒後には発症、そんで目に付くすべての人間を殺したい衝動に襲われるらしいのですが、発症後の人間が最終的にどうなるのかはほとんど説明されていません。現実の人類にとってウイルスが脅威なのは、それが最終的に死をもたらすためですが、『28日後...』で人々がウイルスから逃れようとするのは、それが人間の(外見ではなく内面の)状態を変化させてしまうためです。しかし、ロメオの『ゾンビ』シリーズにも言えることですが、映画の中で、状態の変化した人間のその「状態」に言及することはほとんどありません。物語にとって、主人公は飽くまでも脅威から逃れようとして戦う人間であり、脅威としてのゾンビは脇役に過ぎないわけですから、そのような脇役の説明がほとんどされていないのは当然といえば当然かもしれませんが、作中、主人公たちはほぼ無条件的にウイルスに感染した人々(ゾンビ)を退治し、物語の視点はすべて状態の変化していない「こちら側」の倫理と論理と視点で描かれています。映画を観ていてふと思ったのですが、なぜ彼らは、自分たちの状態が変化することに対してそれほどまでに抵抗するのだろう。もちろん、ゾンビのような状態になりたい人などいるはずないということは頭では理解できるのですが、そもそも、現在のぼくたちの「状態」とは、一体どのような状態なのだろう。
それで思い出したのが、藤子不二雄Fの『流血鬼』という短編です。リチャード・マチスンの『地球最後の男』をもとにして描かれたこの物語、舞台は新種のウイルス(ちなみにこのウイルスはマチスンウイルスといいます)が蔓延して、人類が滅亡寸前の世界です。そのウイルスに感染すると、人間の状態が変化し、人の血を求めて彷徨う、いわゆる吸血鬼になってしまいます。両親や友達など、町中の人間が次々と吸血鬼になっていくなか、主人公である少年は吸血鬼を殺しながら必死に逃げようとします。
物語の中で、まだウイルスに感染していない少年(こちら側)と、吸血鬼になったしまったガールフレンド(向こう側)が対話をするシーンがあります。ウイルスに感染した人間を「吸血鬼」と呼ぶ少年に対し、ウイルスに感染した少女は、自分たちのことを「新人類」と呼びます。少女によれば、「新人類」は「旧人類」よりもあらゆる面において優れていて、彼のことを思うが故に「新人類」に、つまり彼にウイルスに感染してほしいと言うのです。もちろん少年は抵抗します。彼がこだわるのは、人間としての現在の自分の状態であり、それを変化させることに対しては無条件に拒否反応を示します。しかし最後には彼も、そのガールフレンドに首筋を噛まれてウイルスに感染してしまい、吸血鬼になってしまいます。
物語の最後、あれほどまでに抵抗していた新人類へと生まれ変わった彼は、世界が一変していることに気付きます。彼はガールフレンドと外を散歩しながら、次のように叫びます。「気がつかなかった。赤い目や青白い肌の美しさに!気がつかなかった!夜がこんなに明るく優しい光に満ちていたなんて!」
結局のところ、人間の状態なんてものは極めて相対的なもので、実際にその状態になってみないと分からないものだ、ということを言いたいのではなくて、別の状態に移行した人間は、その状態をどのように受け入れるのか、その時にどのようなことを感じるのか、それが知りたいわけでして。
以前からそのような「人間の状態」というものに興味があって、肉体・精神を問わず、どのような状況がひとりの個性としての人間の状態を変化させてしまうのか、あるいはまた、そもそも人間の状態とはいったいなんなのか、そのようなことを考えることがあります。大抵のゾンビ映画では、とってつけたような原因を想定して、人間の状態が変化するきっかけとすることが多いようですが、人間の状態が変化するのは、なにもそのような極端なものでなくても、例えば人格という精神面に関して言えば、人間の状態などというものはほんの些細なきっかけ(状況)によって一変してしまうものです。それでは、現在のぼくの個性という状態は、果たしてどのような状況のもとに誕生したものなのか。そしてこの状態は、今後どのような状況において変化するのだろうか。なんてことを考えたり。
ところで、話は少し飛躍しますが、ウィルスといえばついこの間まで世界中で大騒ぎとなっていたSARSがありますが、公式発表によると、8月7日までにSARSに感染した死亡した人の数は916人、一方、今年の八月にフランスの猛暑で亡くなった方の数は14000人を越えたと言われています。『28日後...』の続編では、ウィルスの脅威から開放された人類が、熱中症で滅亡するというお話はいかがでしょうか。
夜、久しぶりに中華料理を食べに。映画を観る前にちょちょいとファーストフードなんかを食べてしまったのが悔やまれます。
奥秩父の二子山へ行ってきました。
電車を乗り継いでバスに揺られて、三時間以上かけてようやく登山口に到着したと思ったら雨がふっておりまして、雨といっても小雨程度、霧雨に近いような状態だったので、とりあえず行けるところまで行って下山するつもりで登り始めました。登山客はぼくの他にはひとりもいません。それもそのはずです。業者が伐採作業をするために、通行止めで途中までしか行くことができないのです。うー、下調べを怠った罰です。仕方がないので、行ける所まで行きました。
上級者向けと言われる東岳は、雨で岩がつるんつるんだったこともあり、頂上まで登ることは出来ませんでしたが、途中の展望が広がるところまではどうにか辿りつきました。霧が深くて展望はほとんど楽しめませんでしたが、奥深い山の端にひとりで佇んでいる自分を想像したら、まるで天平の頃の名も持たぬ山に鷹を追い熊を射て、前に歩かれることもなく、先に歩かれることもないような山の道をたどってようやく霞食う仙人の寝床にたどり着いた行者のようなこころもちになってしまい、気持ちだけは聖でも雨を遮る場所はなく、食事を楽しむことも休憩を取ることも儘ならず山のあちらこちらを何度も往復して、午後三時ぐらいに下山いたしました。バスが来るのは四時半、全身びしょぬれのまま、一時間半ほどうたた寝をしたら少々風邪を引いたようで、再び三時間かけて帰宅して、おしまい。
山に対しての気持ちが少し緩んでおります。身を引き締めて、次回の登山へ。
昼過ぎに起床。ここのところ、休日の朝は怠惰な目覚めとなっております。夕方まで自宅で読書。夜、鉄割の方々が非難罵倒すること間違いない映画、北野武の新作『座頭市』を観に行きました。
ぼくには何人かの無条件の監督というものがいて、その人が撮った作品であれば、どのようなものであっても確実に感動してしまうのですが、北野武もそのような監督のひとりでして、今までの彼の作品で、感動しなかったものは一作もありません。前作『Dolls』のギャグと紙一重の過剰な演出と脚本ですら、無条件に感動してしまったほどですから。そういうわけで、『座頭市』に関しても観る前から感動することは分かっていたのですが、予想以上に面白かったです。エンターテイメント性が強いとは聞いておりましたが、まさかあそこまで徹底するとは思いませんでした。鉄割の方々がこの映画を非難罵倒することは想像に難くありませんが、というか確実なので出来れば誰にも観て欲しくないのですが誰が何といおうと絶対にもう一度観に行こう。
それにしても、惜しむらくは北野映画が年を追うごとに技術的に上手になっていることで、『ソナチネ』以前の作品に特徴的だった、ひとつひとつのシーンにおける空間の扱い方が、『Hanabi』以降急激に変化しているのがとても残念です。そのような意味で、ぼくにとっても北野作品のピークは『ソナチネ』であり、あの映画があるが故に北野武の作品が無条件になっているわけですが、それ以降の作品が『ソナチネ』よりもつまらないのかと言えばそんなことはなくて、また異なる意味で素晴らしい作品だと思っています。
この『座頭市』を観たからというわけではありませんが、最近「武士道」というものに興味があって、ぼくたちが「武士道」という道徳感を考えるとき、そこにどのような印象が発生するか、ぼくたちが「武士道」として認識している考え方は、果たして正しいものなのか、海外における「武士道」の捉えられ方(とくに映画や小説などにおける「武士道」の扱われ方)や、日本史上における「武士道」という概念の変遷過程、あるいは日本史上において、武士道という価値観・道徳観は、武士ではない民衆の間ではどのように考えられていたのか、そして一番知りたいのは、「武士道」という道徳観が、武士の間でどのように広まり、どのように実践されていたか、あるいはされていなかったのか、などなど。ぼくは武士道に関して蒙昧な知識しか持っておらず、現在の「武士道」の考え方が『葉隠』を基にしていること、海外での「武士道」は、新渡戸稲造の『武士道
』を基にして広まったために、日本国内の武士道と若干の相違というか齟齬がある、ということを何かで読んだ程度です。『葉隠』と『武士道』に何が書かれているのかも知らないし、その他にどのような書物があるのかも知りません。なので、一から調べて勉強をしなくてはならないのですが。とにかく、『武士道』がどのように人々の精神に影響を与え、人々の状態を変化させたか。それを考えたい。