
奥秩父の二子山へ行ってきました。
電車を乗り継いでバスに揺られて、三時間以上かけてようやく登山口に到着したと思ったら雨がふっておりまして、雨といっても小雨程度、霧雨に近いような状態だったので、とりあえず行けるところまで行って下山するつもりで登り始めました。登山客はぼくの他にはひとりもいません。それもそのはずです。業者が伐採作業をするために、通行止めで途中までしか行くことができないのです。うー、下調べを怠った罰です。仕方がないので、行ける所まで行きました。
上級者向けと言われる東岳は、雨で岩がつるんつるんだったこともあり、頂上まで登ることは出来ませんでしたが、途中の展望が広がるところまではどうにか辿りつきました。霧が深くて展望はほとんど楽しめませんでしたが、奥深い山の端にひとりで佇んでいる自分を想像したら、まるで天平の頃の名も持たぬ山に鷹を追い熊を射て、前に歩かれることもなく、先に歩かれることもないような山の道をたどってようやく霞食う仙人の寝床にたどり着いた行者のようなこころもちになってしまい、気持ちだけは聖でも雨を遮る場所はなく、食事を楽しむことも休憩を取ることも儘ならず山のあちらこちらを何度も往復して、午後三時ぐらいに下山いたしました。バスが来るのは四時半、全身びしょぬれのまま、一時間半ほどうたた寝をしたら少々風邪を引いたようで、再び三時間かけて帰宅して、おしまい。
山に対しての気持ちが少し緩んでおります。身を引き締めて、次回の登山へ。
昼過ぎに起床。ここのところ、休日の朝は怠惰な目覚めとなっております。夕方まで自宅で読書。夜、鉄割の方々が非難罵倒すること間違いない映画、北野武の新作『座頭市』を観に行きました。
ぼくには何人かの無条件の監督というものがいて、その人が撮った作品であれば、どのようなものであっても確実に感動してしまうのですが、北野武もそのような監督のひとりでして、今までの彼の作品で、感動しなかったものは一作もありません。前作『Dolls』のギャグと紙一重の過剰な演出と脚本ですら、無条件に感動してしまったほどですから。そういうわけで、『座頭市』に関しても観る前から感動することは分かっていたのですが、予想以上に面白かったです。エンターテイメント性が強いとは聞いておりましたが、まさかあそこまで徹底するとは思いませんでした。鉄割の方々がこの映画を非難罵倒することは想像に難くありませんが、というか確実なので出来れば誰にも観て欲しくないのですが誰が何といおうと絶対にもう一度観に行こう。
それにしても、惜しむらくは北野映画が年を追うごとに技術的に上手になっていることで、『ソナチネ』以前の作品に特徴的だった、ひとつひとつのシーンにおける空間の扱い方が、『Hanabi』以降急激に変化しているのがとても残念です。そのような意味で、ぼくにとっても北野作品のピークは『ソナチネ』であり、あの映画があるが故に北野武の作品が無条件になっているわけですが、それ以降の作品が『ソナチネ』よりもつまらないのかと言えばそんなことはなくて、また異なる意味で素晴らしい作品だと思っています。
この『座頭市』を観たからというわけではありませんが、最近「武士道」というものに興味があって、ぼくたちが「武士道」という道徳感を考えるとき、そこにどのような印象が発生するか、ぼくたちが「武士道」として認識している考え方は、果たして正しいものなのか、海外における「武士道」の捉えられ方(とくに映画や小説などにおける「武士道」の扱われ方)や、日本史上における「武士道」という概念の変遷過程、あるいは日本史上において、武士道という価値観・道徳観は、武士ではない民衆の間ではどのように考えられていたのか、そして一番知りたいのは、「武士道」という道徳観が、武士の間でどのように広まり、どのように実践されていたか、あるいはされていなかったのか、などなど。ぼくは武士道に関して蒙昧な知識しか持っておらず、現在の「武士道」の考え方が『葉隠』を基にしていること、海外での「武士道」は、新渡戸稲造の『武士道
』を基にして広まったために、日本国内の武士道と若干の相違というか齟齬がある、ということを何かで読んだ程度です。『葉隠』と『武士道』に何が書かれているのかも知らないし、その他にどのような書物があるのかも知りません。なので、一から調べて勉強をしなくてはならないのですが。とにかく、『武士道』がどのように人々の精神に影響を与え、人々の状態を変化させたか。それを考えたい。
一年ぶりに携帯電話を機種変更しました。新しい機種は、カシオのメガピクセルA5401CA。とはいえ、以前に使っていた携帯もカシオ製なので、基本的な機能はあまりかわらないというか、細かい機能の追加はありましたが、最新技術すげーという感動はそれほど味わえませんでした。まあ、携帯に100万画素強のデジカメがついているだけでも、すごいことなんですけどね。
マイデスクトップを撮影。
ぼくの撮り方が悪いのかしら。あまりきれいではないような。。
それから、古本屋さんで『泉鏡花集成』全十四巻を購入。八千円。それなりにお得な値段だと思います。ああ、嬉しいよう。と思っていたら、これは「集成」であって全集ではないので、読みたかったものが抜け落ちていて、とくに紀行文や雑記などがほとんど収録されていないので、雑記や談話が収録されている岩波版『鏡花全集』の第二十八巻も一緒に購入。紀行文等が収められている二十七巻はどこに行っても売っていませんでした。残念。まあ、気長に探しましょう。
そんでもってこの『泉鏡花集成』、ひと月に一冊ぐらいのペースで読んでいけたら良いなと思いながら、早速第一巻を開いて読み始めたのですが、この巻に収められている作品のすべてが、鏡花の二十歳から二十二歳の間に書かれていたものでして、有名な『外科室』も彼が二十二歳の時に書かれた作品であることを知ってびっくりです。
『外科室』の有名なこの科白。
私はね、心に一つ秘密がある。麻酔剤は譫言を謂うと申すから、それが恐くってなりません。
ああ、いいなあ、この科白。死ぬまでに一度で良いから言ってみたいです、「僕はね、心に一つ秘密がある、うふふ」なんてことを。我が人生、秘密を持つにはあまりにも軽佻浮薄であります。
さて、全てのやんごとなき雑事を無事に終え、本日より晴れて自由の身、これからの人生、一体なにに身を尽くせばよいのやら、しばし途方に暮れつつ、ヒンズースクワット未到の600回に挑戦。