
夕方、気分を落ち着けるために公園をお散歩。梅雨もようやく終わり、これからは夕方に散歩を楽しむことが出来そう。ぼくの前を女性が歩いていて、とてもよいおしりをしている。歩くたびにぷりんぷりんと左右に揺れて、その揺れ方がとんでもなく素敵で、色気とかそんなのではなくて、ほとんど妖怪みたいでかわいらしい。ぼくもぷりけつには自信があるけれど、このおしりのぷりぷり感にはとてもじゃないけれどかなわない。是非とも写真に撮ってこのぷりぷりを他の人にも伝えたいと思ったけれど、ここで写真を撮ったらこれは盗撮になるのかしら、逮捕されたら恥ずかしいな、ぷりぷりとか言っても警察の人は分かってくれないだろうな、などと思い躊躇。素敵なものを友人につたえることさえできないなんて、なんと世知辛い世の中だろう。
途中、古本屋さんで雑誌太陽を三冊購入。一冊100円。特集はそれぞれ『石仏の里』『円空ー放浪の仏師』『西行ー漂泊の生涯』。すべて70年代に出たものなので、広告なんかもいい感じ。三冊の中では『石仏の里』が特におもしろい。「人が老いてゆくように、歳月は神々の顔も消していく」。言葉も通じないような田舎の町を歩きながら、道の端々に道祖神を見つけて嬉しいような、そんな気持ちを最近はすっかり忘れております。やっぱりiPod買うのやめて旅行に行こうかしら。
七月最後の日。
HotWiredで『安楽死をめぐる議論』というニュースを読む。「死」がほとんどの人間にとって最も重要な事柄であり、かつその態度が人それぞれ異なる以上、安楽死という問題に結論が出ることはないだろう。たとえこの先、安楽死が何らかの形に法制化されたとしても、中絶と同様に人類が続く限り議論を呼び続ける問題になることは間違いない。驚くべきことに、「死」は完全なる悪であると信じて疑わない人がいる。生きてさえいれば幸せだと信じて疑わない人がいる。小泉義之氏は『弔いの哲学』の中で、<生きることはよい>というモラルは、最低限且つ最高の原則であり、「自己の生存、自己の保存を肯定するホッブズ的スピノザ的モラル」であると述べている。このことについてはまた後日触れたいと思う。
ここ何ヶ月にかけて、ネットで集った仲間と共に集団自殺をするケースが増えている。先日あるテレビを観ていると、ひとりのコメンテーターが「どうしてそんなにも簡単に命を捨ててしまえるのか」と嘆き、「命がヴァーチャルな感覚になり、生命は尊いという意識が薄れてきている」と言っていた。自殺者に対するこのような発言は、特に珍しいものではないし、ぼくの周りの友人も同様のことを言っているのをよく耳にする。そのたびに、どうしてこの人は会ったこともない他者に対してそのような浅はかな断定を下すことができるのか、不思議に思う。どうして自殺した彼らが「簡単に」自らの命を断ったと思えるのだろう。もしも自殺がそれほどまでに簡単なものであれば、わざわざネットで一緒に死ぬためのパートナーを探したりするだろうか。この人は、生に絶望したことはないのだろうか。死という最後の手段を考えてしまうほどの孤独を感じたことはないのだろうか。全ての友人や肉親を捨てざるを得ないような絶望を味わったことはないのだろうか。生きていることが、そのまま苦であるというような悲しみを感じたことはないのだろうか。
ぼくが嫌な気持ちになるのは、その発言の背後に、生の優越感、生が絶対的な正義であり、死が絶対的な悪であるという無前提の倫理が見え隠れする時である。自殺という行為を擁護しようなどという気はさらさらない。けれども、死を選ばざるを得なかった彼らの絶望を無視することはできない。「簡単」に自殺をするのは「生」を軽んじているからだ、などという浅はかなことを言っているうちは、彼らがどうして自殺を選んだのか、彼らにとって死がどういうものであったのかを知ることはできないだろう。
何年か前、ちょうど十四歳の少年による連続殺人が問題になっていた頃、「どうして人を殺してはいけないのか」という議論が活発だった時期があった。そのような疑問に対して、大人は子供たちにどのように説明をするべきか、いろいろな評論家や教育者が、彼らなりの答えを見つけてはテレビで発言し、雑誌に発表していた。理屈で説明する人もいれば、「人間だからだ」と理屈ぬきの説明をする人もいた。しかし、彼らの答えは凡そ納得のいくものではなかったように思う。そもそも、「どうして人を殺してはいけないのか」という疑問は、殺人は悪であるという最低限のモラルを持っているものには考えつかない疑問である。そのような疑問を思いついたり、あるいはそれに答えを求めるような者は、本来であれば共有すべき倫理が異なると考えるべきである。根底にある倫理が異なるものに、こちら側の倫理の道理を言い聞かせても通じるわけがない。他人と会話する前に、他人の自分の価値観を伝える前に、その相手が自分とおなじ倫理を共有しているかを先ず始めに考えてみるべきである。ポール・ボウルズの短編のタイトルを使わせてもらえば、「あなたはわたしじゃない」。
もちろん、だからと言ってすべてを黙認、あるいは容認しようなんて思ってはいない。「死」という問題が、当事者だけではなく他人をも傷つける以上、ぼくは自分の倫理に従って行動する。先程とあえて矛盾することを書くようだが、倫理の通じない相手に対しても、あくまでも自分の倫理を基準として主張し、発言する。結局のところ、自分の大切な人を守るためにはそうするしかないのだから。そして、人の倫理がいかに自己中心的なものであるかを、強く実感しなくてはならない。
結論。あなた(わたし)は自分が思っているほど何かを分かっているわけじゃない。
夜、中島君と弟君とWさんと戌井さんで飲んでいるというので、ちょいと顔を出しに行く。とても珍しいメンバーで、楽しかった。
起床。奈良へ行く夢を見た。ああ、奈良へ行きたい。
奈良をゆっくりと歩きたい。お寺を巡って仏像に拝し、時代の余韻に浸りたい。散歩をしながら、道の端に横たわっている石仏に挨拶をしたい。通りがけの蕎麦屋によって、そばがきを注文して粋ですねとか言われたい。それは江戸か。夕方に、浄瑠璃寺の境内に寝ころんで考え事をしたい。好きな人に手紙を書いてしまったり。適当に宿を決めて、無愛想な女将にむかつきたい。夜は夕涼みに散歩して、いい感じの居酒屋に入って日本酒を注文して、退屈に酔っぱらいたい。ほろ酔い加減で店をでて、夜の風に吹かれながら空を見上げたい。石につまずいて転んだり。途中で入ったストリップ劇場で、つげの気分を味わいたい。床について、小難しい本を読んでいつの間にか眠りたい。次の日もお寺巡りをするのです。
『ムーミン谷の仲間たち』がすばらしく面白い。中でも『世界でいちばんさいごのりゅう』と『ニョロニョロのひみつ』が特に良かった。翻訳家である山室静さん、ムーミンの翻訳はとてもよろしいのに、作品に対する評価がぼくとは正反対で、『ムーミン谷の彗星』がいまいちとか、この短編集で言えば『ニョロニョロのひみつ』が失敗作とか言っている。『ニョロニョロのひみつ』は、ある岬で見たニョロニョロの姿が忘れられず、「ぼくはもうベランダでお茶なんかをのんではいられないぞ」と決意して家を飛び出したムーミンパパのお話。ニョロニョロはただ自分たちの思うままに動いているだけなのに、それに対するムーミンパパの戸惑ったり気付いたり悲しくなったり懐かしくなったりする心の動きがとても面白い。物語中にたびたび登場するムーミンママもとても素敵。ムーミンパパのシルクハットには、「ムーミンママからムーミンパパへ」ってペンキで書いてあるんですって。だからムーミンパパは、自分自身が信用できなくなってもぼうしだけは信じることができるんですって。
最近、走っていないなあ。走ろう。明日から走ろう。