
この雑記でも何度か触れておりますが、鉄割の本を作ろうという計画がありまして、話ばかりはどんどんと膨らむものの、有言不実行のぼくたちでありますから、計画はなかなか先に進まず二年ほどが過ぎていたのですが、知り合いのエディターの方が編集をやってくださるということになりまして、ようやく具体的な計画を練り始めました。
本を作ると申しましても、またいつものように悪ふざけになってちんちんとかの本になってしまっては意味がありませんから、内容に関しては真剣に話し合いまして、20ページにわたる勉蔵レポートをはじめとして、コンテンツに関してはなかなか面白いものになるのではないかと思っております。詳細は秘密ですけど。
それにしても話し合いをした居酒屋さん、会計をしてみたら一人六千円はちょっと高いと思います。つぼ八気分で呑みまくったのがいけなかったようで。
日本では多くの場合、文学は精神の面から語られてきました。退屈な学校の国語の勉強でも「この時のKの気持ちを説明せよ」などといううんこみたいな問題がたくさんでてきたでしょう。脳医学の権威が書いた文芸批評というだけでも異色なのに、この本がそれ以上に面白いのは、そのような日本文学の「精神性」ではなく、これまであまり論じられることのなかった「身体性」という観点から近代の文学を論じているところで、養老さんはその前書きで「文学のなかで身体がどう扱われてきたか、それを解析するつもりである」と書いています。
たとえば、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』に身体は存在していません。夏目漱石は『こころ』は書いていても『からだ』は書いていません。それは一体どうしてなのでしょうか?意識的なものとして、初めて身体の役割を文学に登場させる芥川龍之介は、『鼻』『好色』で身体に主人公を引きまわさせ、『羅生門』においては、死者の毛を抜く老婆に対して、現代人としての感情を下人に抱かせています。そんな芥川の作品を、田山花袋はまったく理解できませんでした。自然主義の田山花袋が、芥川の作品の面白さをまったく理解できなかったのは、一体どうしてなのでしょうか。
養老さんは書きます。「見なしとしての身体は、この国ではほとんど常識と化している。江戸以降の世界では、身体は統御されるべきものであり、それ自身としては根本的には存在しない」。
中世的世界では、人はまず身体的イメージで描かれました。しかし江戸、すなわち近世社会では、乱世を導くという理由から、身体の自然性は徹底的に排除され、人は心で描かれることになりました。さらにそこに明治維新、すなわち欧化による社会制度の変革が起こり、そこから明治以降の文学に通底する「我」の問題が生じるのです。
大正時代の作家である芥川はこの「我」の問題について、どのように取り組んでいたのでしょうか。夏目漱石は、文学は心理主義が当然であるとし、それを好みました。芥川はそのような「漱石の内政的な心理主義をさらに拡張し、身体そのものを、心理主義で規定される近代文学の領域に取り込んだ」のです。養老さんはこのことを、「中世を近世に変換したといってもいい」と書いています。ようするに芥川は、漱石たちが心理で語ったことを、身体という形式を使って語ったのです。
養老さんは、芥川が『今昔物語』の話の組立を改変していることについて、次のように書きます。
芥川はこの改変によって、「死体の髪の毛を抜く」行為は、盗みという反社会的行為を誘発する、より根源的な反倫理的行為に、いわば「昇格する」。これを私は、江戸的感情の発露と呼んだのである。臓器移植に対するなにものともつかない「おそれ」、芥川はそれを、自分すなわち下人の感情として、みごとに描き出したことになる。現在のわれわれもまた、この感情から、一歩も踏み出していない。
「現在のわれわれもまた、この感情から、一歩も踏み出していない」どころか、ぼくたちの感情は、より複雑なものになっています。科学が現代のように発達する以前は、「私」とは「神」の関係で語られるものでした。しかし科学の時代を生きるぼくたちが「私」について考えるとき、それはとても複雑なものなります。「私」とは、「身体」のことなのか。あるいは、「こころ」のことなのか。「こころ」は脳から生まれるものなのか、あるいは、「身体」から生まれるものなのか。「こころ」が「私」だとしたら、脳死は死ということになるのか。あるいは「身体」が「私」だとしたら、臓器移植の問題はどのように解決したら良いのだろう。「こころ」と「身体」を統合したものが「私」であるとした場合、そのいずれかを失った場合、あるいは分離した場合、「私」はいったいどこへ行くのだろうか?またあるいは、「私」のクローンは、「私」なのか、あるいは「あなた」なのか。
『身体の文学史』はこんな感じで、明治から昭和にかけての文学史を、身体という観点から論じていきます。うーんスリリング。
ところで、養老さんは『身体の文学史』の前書きで「歴史一般がなぜ可能なのか」という疑問を投げかけています。「シーラカンスから人に至るまでにも、すでに五億年が経過している。なぜそれが、一時間で読める『物語』になるのか」。この一文を読んだとき、どきっとしちゃいました。
養老さんはさらに続けて、「歴史」は「脳」の機能であるとして、次のように書きます。
歴史は、(・・)脳が持つことができる、時空系の処理形式の一つである。その形式を、昔から「物語」と呼ぶのであろう。だから、歴史は神話からはじまる。
先日の雑記でも書きましたが、ぼくは今、「どうして動物には歴史がないのか」という、まことに阿呆臭いことを考えておりまして、そのようなことを考えるときに「記憶」というものは非常に重要なファクターとなります。「記憶」は明らかに脳の機能のひとつであり、同様に脳の機能である「歴史」と、その形式である「物語」の関係。それがとても気になるのです。

とても気になるのよう。
久しぶりにお会いしたお友達が、舞城王太郎氏の作品を全部読んでいるということを聞いてびっくり。初めてです、ぼくのまわりで舞城氏の作品を読んでいるという人。
お話をしていてぼくが一番聞きたかったのは、『熊の場所』に収録された『ピコーン』のことで、あのフェラチオの描写は素晴らしいよねー、と言いたかったのですけど、下手なことをいうとセクハラになってしまうのかしらと危惧して聞くことが出来ませんでした。言いたいこともまともに言えない、世知辛い世の中です。
それでその方とお話をしてたら、今読んでいる本の話になって、ぼくが舞城王太郎氏の最新作『九十九十九』を出したところ、その方は池谷裕二氏と糸井重里氏の『海馬』という本を教えてくれました。この池谷裕二というお方、どこかで聞いたことがある名前だと思っていたのですが、先日紀伊国屋で本を購入したときに、レジの横にこの方の著書が並べてあったのがこの方の別の著書でした。『海馬』の中身をちょこっと見せてもらったところ、なかなか面白そうな内容で、記憶力が人百倍悪いぼくには興味深いことがたくさん書かれていました。
早速次の日に本屋に行って『海馬』と同じ池谷氏の著書である『記憶力を強くする』の二冊を購入して読んでみたのですけど、うーん、なんか、生きる希望が湧いてきます。最初はよくあるHow-To本かと思っていたのですがそんなことは全然なくて(HowToなんて全然書かれてないし)、脳というものは使えば使うほど鍛えられるものであり、年齢を重ねるごとに記憶力が悪くなるというのは、努力を怠っている人の言い訳に過ぎないとかいうことが科学的に書かれていて、脳という構造に興味はあるけど知識は全然ないぼくのような人間には、なかなか勉強になる本でした。ごめんなさい、まだ半分ぐらいしか読み終えていないので、あまり具体的なことは書けないのです。とにかく、脳は三十才を越えてからがいい感じらしいよ。
この本を読んで初めて知ったのですが、「海馬」という大脳皮質は、記憶を貯蔵する場所ではなく、すべき記憶を取捨選択する場所なのだそうです。記憶は、一ヶ月ほどは海馬に留まりはするものの、その後は「側頭葉」に移動して貯蔵されるということです。ふへー、そうなんだ。てっきり、記憶はすべて海馬に貯蔵されているのだと思っていました。
また、海馬を失った場合、エピソード記憶(個人の思い出など、出来事に関する記憶)に影響が出るけれど、手続き記憶(身体で覚える記憶)には影響しないとのことです。海馬を失ったある被験者に、鏡を見ながら文字や図形を書いてもらうテストを行ったところ、テストを行ったという記憶は失われるものの、文字や図形を書く技術は日々上がっていったというのです。「身体で覚える」記憶は、海馬を失っても正常に貯蓄されているのです。はー、すげー。
とくに興味深かったのは、「海馬」と「感情」の関係で、これは個人的なことなのですが、何か出来事があったり、あるいは何かを思い出したりして、悲しくなったり嬉しくなったりしたあとに、その感情の原因である出来事や思い出が何であったのかを忘れてしまい、感情だけが残る場合があります。あれ、なんでぼく今嬉しいの?とか、なんで悲しいんだっけ?とか。でも感情だけは残っているから、妙にやきもきするの。おかしいでしょう。この話を人にすると、大抵おかしいと思われます。これに関連することが『海馬』の中に書かれていて、それによると、「感情」は「扁桃体」という皮質から生まれ、海馬はその「感情」の記憶とは関係がないらしいのです。ようするに、「エピソード記憶」と「感情」は別々に処理されているわけですね。そう考えると、何で嬉しいのかとか、なんで悲しいのかとか、その原因を忘れることがあっておかしくないわけです。まあそれでも、現在進行の感情に関する記憶を忘れてしまうというのは、ぼくはそうとう馬鹿ということになるのでしょうけど。えへへ。
数年前にテレビで、病気で海馬を失った人を観たことがあります。(『記憶力を強くする』で少しだけ触れているRBという人がもしかしたらそうなのかもしれません)その人は熱病から回復した後に、海馬の神経細胞がすべて死んでしまい、それ以来記憶するということが出来なくなっていました。朝食を食べたかどうか忘れてしまうために、朝食を食べたらメモをする。昼食を食べたかどうか忘れてしまうために、昼食を食べたらメモをする。とにかくすべてを忘れてしまうために、片っ端からメモをする。そして、メモをしたことを忘れてしまうからまたメモをするという具合で、側頭葉に貯蓄されるべき記憶を取捨選択する海馬を失ったその人は、一切の記憶をすることが出来なくなり、インタビュー中に、自分がなにをしているのか忘れてしまうこともしばしばありました。記憶を貯蔵している側頭葉はダメージを受けていないので、ある期間以前の記憶はすべて残っているのに、海馬を失った以降の記憶は一切ないのです。
脳に関するそのような症例は、たとえばオリヴァー・サックスの『妻を帽子と間違えた男』などで詳しく読むことが出来ます。「妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする男。日々青春のただなかに生きる90歳のおばあさん。記憶が25年まえにぴたりと止まった船乗り。頭がオルゴールになった女性」など、いろいろな脳障害の症例が紹介されています。
記憶というのは、個人のアイデンティティと強く関わってくると思います。映画『アイリス』を観たときにも感じたのですが、たとえばアルツハイマーで自分の記憶をすべて失ったとき、その人は、その人でいることができるのか。もしその人が記憶に関係なくその人であるとしたら、アイデンティティとは一体なんなのか。以前の雑記でも同じようなことを書いていますが、このことは脳死や臓器移植の問題にも深く関わってくるので、ここで短絡的なことを書くことは控えますが、今後も深く考えていきたいと思います。
去年ぐらいから考えていることがあって、脳という構造、とりわけそこから生まれる「記憶」というもののことを考えるとき、記憶と歴史の関係というか、どうして動物には歴史がないのかとか、どうして人間は伝達された記録を記憶として認識し、歴史として記述できるのかとか、記憶と物語のこととか、物語と現実のこととか、延いては言えば記憶と歴史と物語の関連性とか、動物にとっての言語とか世界とか、動物が木を見るときのこととか、まとめて動物についてとか、そのようなことに興味があります。どうしてそんなことに興味を持ったのかといえば、『脳』の大家である養老猛司さんの『身体の文学史』を読んだからなのですが、本日の雑記はずいぶんと長くなったので、この件に関してはまた後ほど。
それにしてもこのような脳に関する本を読むたびに感じるのは、たとえばぼくが今、脳の専門家に頭をぱかっと開けられて、ちょちょいといじくり回されたら、それだけで感情も記憶もこの世界も、すべてあっという間に消滅してしまうのかという恐怖心(殺されるよりもそちらのほうが怖い)と、結局のところ脳が生み出す世界以上を感じることは絶対にできないという複雑な感情で、とか書くと観念論的にものごとを考えているように思われるかもしれませんが、そんなことは全然なくて、とりあえず自分の中でも考えがまとまっていないのでこちらも後ほど。