
"The world of the quark has everything to do with a jaguar circling in the night."
(闇夜を彷徨うジャガーのすべてに、クォークの世界が存在する)--"The Leaves of a Dream Are the Leaves of an Onion,"
by Arthur Sze, from River, River
物理学などに造詣の深い方はご存知かもしれませんが、マレイ・ゲルマンという方は、原子核を構成する最小の粒子であるクォークの発見者であり、ノーベル物理学賞の受賞者でもあります。彼は、友人である中国系アメリカ人の詩人、アーサー・シー氏の書いた詩に触発されてこの本を書きました。驚くべきことに、この本が氏の初めての著作になります。
物理学者による複雑系を扱った本というと、難解な印象を与えるかもしれませんが、この本は難解である以上に刺激的かつ文学的(複雑系そのものが文学だしね)であり、ある一定の知的好奇心さえ持っていれば、読み通すことは簡単ではありませんが不可能ではないと思います。もちろん、量子力学や数学的知識が必要な場所も多々ありますが、ゲルマンも言っているとおり、そんなところは読み飛ばせば良いのです。ぼくも読み始めたところなので、偉そうなことは言えませんが。
マレイ・ゲルマン氏は著書の中で、物理学はもちろんのこと、その他あらゆる知識を駆使し、「単純なもの」と「複雑なもの」の関係について考えていきます。彼は、本書を書くに至った動機的な疑問を、以下のように書いています。
クォークはすべての物質を作っている基本的構成要素である。私たちが目にするあらゆるものは、クォークと電子で構成されている。古来、力と獰猛さのシンボルであるジャガーでさえ、クォークと電子の固まりである。しかし、何という固まりであろうか!それは、何十億年という生物の進化の果てにたどりついた、途方もない複雑さを表している。しかし、ここでいう複雑さとはいったい何を意味しており、それはどこから生じたのだろうか?
暗闇のジャングルを徘徊するジャガー。そのジャガーのあらゆる運動に、クォークの世界が存在している。そこに彼は感動したのです。マレイ・ゲルマン氏がインスパイアされたアーサー・シー氏の詩の原文は、一番最初にも引用していますが、訳書には以下のように訳されています。「クォークの世界は、夜に徘徊するジャガーと、あらゆる点でかかわりをもっている」。これ、あまり良い訳とは思えないので、上の引用はぼくが訳してみました。ぼくの訳の方がかっこいいし、正確やイメージを伝えませんか。調子に乗りすぎかしら。
一時期あほのように見かけた「複雑系」という言葉も、最近ではめっきり見かけなくなりました。いまだ進化を続け、日々おもしろくなっている複雑系という分野が、一時のブームで終わってしまうのは極めて寂しいことだと思います。複雑系については後ほどもっともっと書きたいと思っていますが、今はとにかく、『クォークとジャガー』を熟読し、理解を深めましょう。コーヒーなんかを飲みながら。

ちなみに、ゲルマンさんは二年ほど前にお亡くなりになっているそうです。
今週末から映画『ぼくんち』が公開になりますね。
西原理恵子ファンとしては期待半分不安半分の気持ちでして、予告編は何度も観ているのですが、果たしてどんな感じなんでしょうねえ。映画と原作は、異なる作品として考えなさいとはよく言われることでありますが、どんなに頑張っても鉄割の人を役者としては評価できないように、原作と映画をわけて考えるのって、けっこう難しいのよねえ。
ぼくの一番すきなお話は、第三巻第二十二話。ねえちゃんが二太に、死んだはずのおばあちゃんがやってきたと言います。おばあちゃんがやってきたので、うどんを作ってあげたら、どこかへ行ってしまったと言います。二太は、ねえちゃんが大好きなので、そのうそっぽい話につきあいます。その後、裏庭に草むしりに行ったねえちゃんのところに、再びおばあちゃんが現れます。
「おばあちゃん、おうどん何で食べてってくれへんのよ。せっかく作ったのに、もう。」
「おばあちゃん死んでるもん。うどん食われへん。」
「あははは。そうゆうたらそうやなあ。」
ねえちゃんとおばあちゃんは、一緒に草むしりをします。
「なあ、おばあちゃん。人は生きててな、どこまでがしんどくて、どこまでがしあわせなんやろか。」
「そらカンタンや。食わせてもろてるうちがシアワセで、くわせなならんなったらしんどい。
そのうちええ天気で空が高うて、
風がように通る、
死ぬのにちょうどええ日がくる。それまでしんどい。」
ねえちゃんは草むらにねっころがります。そんなねえちゃんを見て、二太は思います。
「『今ばあちゃんが空にのぼっていった』
ねえちゃんがまたウソをつく。
草むらにねっころがったねえちゃんは、ぼくが昔読んだ絵本のおやゆび姫みたいにちいさく見えた。」
何度読んでも、涙があふれてとまりましぇん。うぐぐ。西原さんの漫画は全部好きだけど、やっぱり『ぼくんち』は特別です。
『ぼくんち』に出てくる家族は、みんなろくでなしばかりです。けれども、先に生まれた者は、後に生まれてきた者たちを、必死で育てようとします。ねえちゃんは一太と二太を育てようとするし、一太は二太を育てようとするし、こういちくんは二太を育てようとするし、こういちくんのねえちゃんはこういちくんを育てようとします。先に生まれたものは、後に生まれた者に、シアワセになるための生き方を教えようとします。たとえその生き方が、結果的にシアワセになれない生き方だとしても。

最近よく考えるのですが、そこそこの年齢になってしまったぼくは、後から生まれてきた彼ら彼女らに、一体なにを教えてあげることができるのだろう。教えてもらうことはたくさんあるけど、「何かを」教えてあげることなんて出来るのかしらね、ぼく。
最近気がついてびっくりしたことがいくつかありまして、ひとつは人生が思ったよりも長いということで、もう随分と生きてきたような気がするのですが、人生八十年の点から見れば、おそらくまだ人生の半分も生きていないわけでして、そう考えると焦眉の急と思っていた所用の類も、それほど焦る必要もなく、ゆっくりと頑張ればよいのですなと安心の気付き。
もうひとつは、随分と長いことデートをしていないということで、これは相当切実な事態であります。ぼくは接する人々の精を吸収させて頂くことにより日々を生きているので、たまには女性と一緒に遊園地行ったりお寺巡りとかしないと、心身ともに老け込んでしまいます。野郎どもは臭いし、汚いし、うんことかするでしょ、だから嫌い。デートをするならやはり女性がよろしい。これは焦りの気づき。
最後は、プレステ2はテレビがないとなんの役にも立たないということで、今年に入ってからのこの三ヶ月、ほとんど何の思い出もないのはプレステ2のせいではないだろうかなどといつものごとく自らの非を他へ転嫁して安心し、ならばテレビもないことだし売り払ってしまおうと思い立ち様、近所のファミコンショップへ持ち込んだところ、20000円で売れました。24800円で購入して、ビックポイントも2480円ついたので、2000円ちょいで三ヶ月間遊びまくったことになります。お得!そんでその金をもとに、テレビとDVDプレイヤーを買いました。
もっと気づかなくてはいけないことが他にあるような気もしますが、気づかないほうが幸せなことも。あったりなかったり。