
音楽とは無縁の生活に終わりを告げるために、友人宅にて月一で開催されている片瀬那奈を聞く会に参加してきました。初めての体験なので、どきどきです。
部屋に入るとそこには男が三人、ワインを飲みながら静かに片瀬那奈の新しいアルバムを聞いておりました。こんにちはと挨拶をすると、三人同時に「しっ!」と口の前に人さし指を立てました。
CDを聞き終えると次はDVD観賞です。片瀬那奈の足が映るたびに三人は大はしゃぎ。仕舞には踊り始める始末。それまでの静けさが嘘のよう。
「もうまじ最高、那奈っち」と思わず窓から飛び出しそうになる男。
「いやほんと一発はめたいっす、こうやってくわえて」と興奮する男。
「なんつーかもう足なめられたら社長になっちゃうって感じ?」とふんまんやるかたない男。
この会に参加したことにより、ぼくの人生は価値を得ました。
デカルト曰く、我々は夢に見る幻影を実在のものとして夢に見る。ならば実在としてのこの世界の実体が、夢に見る幻影と異なるものであると、どうして断言できようか。
荘周曰く、我夢の中で胡蝶となりて百年の空を遊舞す、目覚めて問う、我夢で胡蝶なるか、胡蝶夢で我なるか。
江戸川乱歩曰く、現実(うつしよ)は夢、夜の夢こそ真実。
特技というものをほとんど持たないぼくではありますが、唯一自慢できる特技は、「どこでも眠ることができる」ということで、三秒で寝てしまうのび太君にはかないませんが、それでも五分あればどんな所でも眠ることができます。踏まれないという保証があれば、渋谷のスクランブル交差点でも眠る自信があります。
一年を通して日がな暁を覚えず、仕事の昼休みに寝て、電車の中で寝て、喫茶店で寝て、ベンチで寝て、あらゆる場所で、一日に何度も眠ります。五分しか寝ないこともあれば、一時間以上寝ることもあります。そしてその時間の長短に関わらず、必ず夢を見ます。夢の時間軸と現実のそれは同期していないのか、五分しか寝ていないときでも、二時間ぐらいの夢を見ることがあります。
そして、五回に一度ぐらいの割合で明晰夢(夢であることを自覚する夢)をみます。夢の中で、これは夢であるとはっきりと気付くのです。
夢の中でそれが夢だと気付いたら、皆さんはどうするでしょう。ぼくはまず最初に、おっぱいを揉んでやろうと思いました。しかし不思議なことに、いざ揉もうとしても、揉むべきおっぱいが出てこないのです。中島君とか、奥村君とかばかりがうじゃうじゃ出てきて、女性が全く出てこないのです。ぼくの夢の中なのですから、思い通りになっても良さそうなものですが、いくら念じても女性が出てこないのです。やっと出来てきたかと思うと、すげーぶっさいくだったり。一度、遠くを裸の女性が走っていたことがあるのですが、追っかけていったら突然ぼくの目の前に柵が現れて、前に進むことが出来なくなりました。明晰夢を見ても、何も自由にできないのです。
ぼくが書きたいのはそんなことではなくて、デカルトも荘子も、夢の中で現実と思っていたものが実は夢であった、それならばこの現実が夢であってもおかしくないと説いたということで、彼らにとっては夢もうつつも共に区別のない現実であったのかもしれませんが、その理屈は夢の中でこれは夢だと気付いてしまうぼくには通用しないのです。
デカルトは、夢と現実の区別をつけることはできないが、いずれの世界もそれを思惟しているのは自分という意識であるという理念から、絶対的に考えるわたし、つまり「我思う、故に我あり」という哲学原理を生み出しました。しかしそれとは逆に、ぼくはこの現実の世界の美しさの実在を信じることはできても、自分自身が世界に生きているという実感を持つことができません。ルソーの言葉を借りて言えば、「この美しい自然の全てが、かりそめにでも、『存在しない』などと考えることは私には到底できない」のです。そしてその美しい世界に生きていながら、生の実感をもつことができないぼくは、時折まるで夢の中をさまよっているような錯覚に陥ることがあるのです。そして、その錯覚はとても気持ち良いのです。
恋人の胡蝶の木の下に立ち、
八月の新月が家の裏手からのぼるとき、
もし神々が微笑んでくれるなら、
きみは他人の見た夢を
夢に見ることができるだろう。
(中国古謡より)

今の街に住むようになってはや数年が経ちましたが、出不精の故にいつまで経っても土地に不慣れで、いまだに適当に歩くと訪れたことのない場所にたどりつきます。本日も夕刻過ぎに適当に歩いていたところ、見たことのない小さな商店街に出ました。
夕日を浴びた商店街は、まるでどこかの片田舎のような様相を呈し、我が家から歩いて三十分であるにも関わらず、それなりの旅情を味わうことができ、目に付いた小さな小料理屋に足を踏み入れたところ、こじんまりとした店内に女性がひとり座り、本を読んでおりました。
これは失礼とそそくさと店を出て、今の女性はお客なのか店番なのかと気になりはしたものの、それよりも気になったのは彼女がいったいなんの本を読んでいたのかということで、それだけを確かめにもう一度店に戻ろうかと思いましたが、それよりも、心の中で彼女の読んでいた本を空想して楽しむことにしました。
ぼーとしている女性の姿と、本を読んでいる女性の姿が大好きです。一番好きなのはぼーっとしながら読書をしている女性の姿で、そのような姿をみるとすぐに惚れてしまいます。大好きな『恋人までのディスタンス』という映画の中で、特に好きなのは冒頭の、イーサン・ホークが電車の中で本を読んでいるジュリー・デルピーと出会うシーン。イーサン・ホークはジュリー・デルピーの美しさそのものに魅かれていたけれど、ぼくは「本を読んでいるジュリー・デルピー」の美しさに魅かれました。
帰り道、珍しくビールを買って歩きながら飲みました。夕と夜の狭間、ビールを片手に、先程の女性が読んでいた本のタイトルを想像しながら。