
アメリカではもう『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』の公開が始まっているのですねえ。うらやましい。
以前にもちょいと書きましたが、ロード・オブ・ザ・リングの字幕のことで、いろいろと騒動が起きております。簡単に経緯を説明すると・・・
『ロード・オブ・ザ・リング』が日本で公開されると、一部『指輪物語』のファンやある程度英語のヒアリングが出来る人々の間から、実際のセリフと字幕スーパーのセリフが違いすぎるという指摘が頻発しました。有志による抗議サイトがいくつか立ち上げられ、実際に問題のある字幕などを提示し、一般の人々に訴えかけるとともに書名を集め、日本ヘラルドへも公開質問状を送るなどの抗議行動が行われました。
日本ヘラルドは、公開質問状に対して以下のように返答しました。劇場公開版では字数に制限があるため、あのような字幕になった、DVD版の『ロード・オブ・ザ・リング』に関しては、字数制限が緩和されるため、字幕を修正する。さらに、第二部以降に関しては、引き続き戸田奈津子氏に字幕を依頼するが、原作訳者の田中氏と、原作出版社の評論社にも協力をお願いする、と。
その後、発売されたDVDの字幕は実際に修正されていたようですが、公開となった第二部『二つの塔』の予告編の字幕に、再び誤訳があるという指摘がされました。このことが、『指輪物語』のファンに再び不安の念を抱かせ、ピーター・ジャクソン監督に直接書名を運動が開始されました。
12月12日、なんとピーター・ジャクソン監督本人の口から、「日本の翻訳者を交代させた」という発言があったというニュースがThe One Ring Netに掲載されました。この知らせに、これまで字幕改善運動を行ってきた有志を始めとしたファンは歓喜しましたが、しかし・・
現在、『ロード・オブ・ザ・リング』の日本版公式サイトでは、「全訳を田中明子氏(原作本の共同翻訳者)にお願いし、全訳から日本語字幕版原稿の作成を戸田奈津子氏」が担当する旨が掲載されています。さらに、ピーター・ジャクソン監督の発言に関しては、「全く寝耳に水」であり、現在確認中とのことです。前回に引き続き戸田奈津子氏が字幕を担当することと、予告編『二つの塔』の字幕に対する不満から、有志の間では再び不安と懸念が抱かれています。
ぼくは字幕をひとつひとつ検証したわけでもないし、また検証してもそれがどれだけ誤訳であるかを判断することはできません。これらの経緯に関しても、ほとんど有志のサイトを経由してのみの情報しか知らないので、この問題に関心を持った方は、自分で詳しく調べてみることをお勧めします。

なんにしても、あー、早く『二つの塔』が観たい!
東中野で『チェ・ゲバラ -人々のために-』を観てきました。
今更改めて言うまでもありませんが、チェ・ゲバラ(本名エルネスト・ゲバラ・デラセルナ)はカストロとともにキューバ革命で活躍したアルゼンチン出身の革命家です。この作品は、生前のゲバラを知る人々の証言を集めて彼の実像、一般には知られていない彼の姿を探るという、言ってしまえば有り勝ちなドキュメンタリー映画なのですが、キューバ革命をゲバラと共に生き抜いた証言者たちはひとりひとりの発言はとても力強く、言葉に重みがあり、ゲバラの実像を探ると共に、革命家としての彼らひとりひとりの存在に強く魅かれました。すげーかっこいいんだもん、この人たち。
映画を観て再確認するのは、ゲバラがどれだけカリスマ性を持った人格者であったか、ということで、サルトルをして「20世紀で最も完璧な人間だった」と言わしめたキューバ革命の英雄は、1997年7月12日にその遺体がキューバに返還されると、国を挙げて迎え入れられました。その様子も映画に収められているのですが、如何に彼がキューバ国民に愛されているかが、映像を通しても伝わってきます。
映画の中で登場する証言者のひとり、確かオスカー・フェルナンデス・メルという方だったと思うのですが、その方がこんなことを言っていました。
私たち全員がカストロを勇敢だと認めていた。カストロにそのことを言うと、彼は『自分よりもゲバラの方が勇敢だ』と言った。私はチェに尋ねた。貴方は、恐怖を感じることはないのですか?ゲバラは答えた。『もちろんあるさ』
うろ覚えなので、ところどころ間違っているかも知れませんが、概ねこんな感じの事を言っていたと思います。そして、フェルナンデス・メルは「恐怖」についてこう語ります。
恐怖を克服するためには、より多くの恐怖を経験することです。そうすれば、恐怖の感情は徐々に薄れてくる。
「祖国を守るため」という大義のために戦ってきた革命家たちの、このような言葉を聞きながら、ぼくは恐怖という感情に対して、どれぐらい距離を置いて生きているのだろうか、と考えました。ぼくが最後に恐怖を感じたのは、一体いつのことだろう?
舞城王太郎氏の始めての短編集『熊の場所』に収められた表題作『熊の場所』という作品の中で、主人公である小学生の沢チンは、同級生のまー君がランドセルの中に切り取られた猫のしっぽを入れていることを知り、まー君の猫殺しに気がつきます。そのことを本人に聞こうとすると、まー君は「あっち行け阿呆、殺すぞ」と沢チンを恫喝し、沢チンは恐怖のあまり逃げ出してしまいます。逃げ出した後に、沢チンは父の話を思い出します。
沢チンの父が大学生の時の事です。「遠征」と称して訪れたユタの原生林で、父は熊に遭遇しました。恐怖のあまり、一緒にいたオーストラリア人を置いて逃げ出してしまった父は、国道に止めた車の所まで辿り着き、ドアの全てをロックし、前のめりになってハンドルに頭を乗せて、考えます。
「あーこのままやったら、俺もうこの林ん中には二度と入れんなあ。それどころか、下手したら、もうどの山にも林にも、独りでは怖うて絶対入れんようになるやろう」
そう考えた父は、ダッシュボードの中の銃をとりだし、弾が装填されていることを確かめ、予備の弾丸と、おそらく死んでいるであろうオーストラリア人を埋めるためのスコップを持って、熊の現れた場所へと舞い戻ります。
最終的に父は、熊をスコップで殴り殺し、自らの恐怖を克服するのですが、その父が沢チンに言った言葉が、「恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐに戻らねばならない」でした。沢チンは父の言葉を思いだし、夕方にちゃりをこいでまー君の家へと向かうことを決心しました。
と、こんな感じで物語は続くのですが、この小説を最初に読んだときに思ったのが、小学生の頃に感じた、「あの」恐怖心のことです。昔は同級生や先輩に対して時には本気で恐怖心を抱くこともあったのに、あの恐怖心は何処に消えてしまったのだろう?沢チンがまー君に対して感じたような、あの恐怖心は一体どこへ消えてしまったのだろう?人以外にも、夜の森林や、あるいは昼間の墓場など、恐怖を抱く要素は世界に満ちあふれていました。子供の頃は、恐怖を感じ、それを克服することによって、生きているという感触を直に味わっていた気がします。その「恐怖」が転じて「生」に変わるという感覚を忘れてから、どれくらい経つのだろう。そして、ぼくの中から正しい意味での「恐怖」の感情が無くなって、どれくらい経つのだろう。
この「恐怖」の感覚、小学生から高校生ぐらいにかけてぼくが身近な人間や物、場所に対して抱いていた「恐怖」の感覚を笑う人もいるだろうし、理解してくれない人もいると思います。薄ら笑いを浮かべて「そんなもの感じないでしょう」とかね。そう言う人に対しては、「自分の経験したことだけで世界を見ようとするその狭い視野を死ぬまで持ち続けて下さい」と心の中で願うしかないのですが、それでもぼくは当時の「恐怖」を感じたという記憶を克明に持っているし、その恐怖の感覚を、今でもどこかで感じたいと思っています。と言っても、やくざとかと関わるのは嫌ですけど。
友人や先輩などに抱いた恐怖の感情は、時には尊敬に転化することもありました。恐怖の感情が薄れている今のぼくには、そのような尊敬の感情すら存在していないようです。っていうか、感情が欠落しているのではないか、と思うことすらあります。なんつーか、生きてるって気がしません。

ともかく、『チェ・ゲバラ -人々のために-』は良い映画でした。ゲバラのことを知らない人にもお勧めの映画でございます。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくね。
1909年の本日、1月1日に、マルセル・プルーストは、紅茶にトーストを浸した瞬間に、頭の中に幼年期の記憶が甦るという体験をしました。
この体験から彼は、「現実は記憶のなかにのみ形づくられる」という命題を得て、14年をかけて『失われた時を求めて』全七巻を書きあげることになります。当初、第一巻『Swann's Way』はどの出版社からも刊行を拒否され、プルーストは後に二十世紀を代表する作品となるこの小説を、自費で出版をしました。
モンティ・パイソンの「the All-England Summarize Proust Competition」というコントでは、「全英プルースト要約選手権」に出場した三人の選手が、『失われた時を求めて』を15秒で要約することを競い合います。もちろんそんなこと出来るはずもなく、結局はおっぱいが一番でかい女性が優勝します。
ということが、文学史上の「今日」を紹介する「Today in Literature」というサイトで紹介されています。このサイト、ぼくもちょくちょくチェックしているのですが、とても面白いですよ。

『失われた時を求めて』はずーと読みたい読みたいと思いながら読んでいない作品です。入院したり、監禁されたり、無人島に遭難したりとか、とにかく時間が死ぬほど余る機会があったら是非とも読んでみたいのですが、なにかと慌ただしい日々を過ごしているため、なかなか読む機会がございません。余裕のない生活って嫌ね。