
ニューズウィーク2002年12月18日号に、「もう止まらない、グーグル革命」というコラムが掲載されました。ニューズウィークのサイトでメンバー登録をすれば、記事のバックナンバーを読むことが出来ます。
上の記事では、Googleを利用して刑事事件の調査を行う人、昔の恋人の近況を調べる人、「Googleなしでノンフィクションの本を書くなんて、とても考えられない」と断言する作家、危ないところで命を助けられた人など、ほんまかいなと突っ込みたくなるような人がたくさん紹介されています。まあ、一度Googleの便利さを知ってしまうと、他のロボット型検索エンジンを使う気にならないのは確かだけど。
雑誌『本とコンピュータ』2002年冬号には、『Googleに頼りすぎるな』という記事が掲載されています。これはまあ、さほど面白い記事でもなかったのですが、要約すると、ページランクによって検索結果の表示順が決定するGoogleを利用することによって、ユーザが「Googleをとおしたウェブ世界の見方」に閉じこめられてしまう、だからもっとメーリングリストなど人のつながりを大事にしなさい、という、ぼくの大嫌いな「あなたたちは馬鹿だから、もっと私のまねをしなさい」的な、いわゆる立花隆調記事です。
Googleを絶対視も神聖視もするつもりはさらさらありませんが、良くも悪くもGoogleのこの二年間の躍進ぶりは凄まじいものでして、ぼくもネットを使う日でGoogleを使用しない日はおそらく一日もありません。だって、なにか知りたいことがあったら検索すれば山ほどの情報が手に入るのですもの。その内の九割がうんこ情報だとしても。
例えば、昔見た映画で、ものすごく見たいのにどうしてもタイトルが思い出せない映画があったとします。ぼく、すげー昔に観た映画で、大竹まことが出ていて、ホテルで見知らぬ女性と相部屋になってしまい、大げんかをするけど次の日にその女性がチェロを弾いているという作品があるのですが、それがどうしても観たくなったので、Googleで「大竹まこと 映画 チェロ ホテル」で検索したら、一発で出てきました。『ボクが病気になった理由』です。思いつくキーワードを入力すれば、それが「情報」であるかぎりは、だいたいは知ることが出来るのよ。
ところで話は少しそれますが、2002年7月にネットレイティングス社によって発表された検索語ランキングを見ると、一位が「Yahoo」で、二位が「2ちゃんねる」、「アダルト」は五位にランキングされています。先日ある友人から、このランキングは、アダルト関係の検索語が排除されたものだ、と聞いたのですが、この五位の「アダルト」とは別に排除されているのかしら。ぼくはてっきり、インターネットで一番利用されているのはアダルトサイトだと思っていたので、このランキングを見たときはちょっと意外だったのですが、アダルト関連が排除されているとしたら、ランキングする意味はあまりないような気が。
スタンフォード大学の大学院生二人の研究から誕生したGoogleの今年の収益金は、株式を公開していないにも関わらず、推定で一億ドルだそうです。わずか二年足らずよ。一時期のYahooやNetscapeを思わせる成長ぶりです。
暇なときは散歩をしているか、カフェに行っています。
カフェでは出来るだけおいしいコーヒーを飲みたいと思ってはいるのですが、ぼくの場合、カフェに数時間居座ることが多いため、コーヒーの味よりも、居心地の良さに重点を置いてしまい、居心地さえよければ多少のコーヒーのまずさは我慢してしまいます。けれどもやはりおいしいコーヒーを飲みたい。
コーヒーに関する有名な言葉にこんなのがあります。
Coffee should be black like the devil, hot like hell, and sweet as a kiss.
ハンガリーの格言らしいのですが。悪魔のように黒く、地獄のように熱く、キスのように甘く、コーヒーとはかくあるべし。そんなふうに言われると、奥村君のちんちんを思い出してしまい、おいしいコーヒーもまずくなってしまいそうですが、いやはや、うまいことを言ったものです。やっぱコーヒーは甘くないとね!
そんでそんな食べ物や飲み物に関する古今東西の言い表しを集めたサイトがありまして、眺めていると人類がいかに食べ物を楽しんできたのか、愛してきたのかがわかります。
最近は、自宅ではコーヒーのかわりに中国茶を飲むことにしているのですが、やっぱコーヒーが好き。
柳田国男の『妖怪談義』を読んだのが今年の夏の始めぐらいで、それから民俗学としての妖怪の研究書のようなものを何冊か読んでみましたが、いやはや、民俗学がこんなに面白い学問だとは思いませんでした。といっても、民俗学を専門にされている方に言ったら怒られてしまいそうな阿呆な読み方しかしかしておりませんが。
以前にもちょいと触れましたが、現代の都市伝説などを丹念に研究している民族学者に宮田登さんという方がいます。この方、2000年に逝去されてしまったのですが、著書である『妖怪の民俗学』が今年の夏始め、偶然にもちょうどぼくが『妖怪談義』を読み終えた頃に文庫化されました。以前から読みたいとは思っていたものの、文庫が1000円とはちょいと高いよう、といまいち納得できず、購入を控えていたのですが、先日本屋でほんの少し立ち読みしたところ、やたらと面白くて思わず購入、速攻で読み終えました。
『妖怪の民俗学』は、柳田が説く「神の零落した存在としての妖怪」の概念に疑問を呈する小松和彦の主張の紹介から始まり、更に『妖怪談義』に書かれている「妖怪とお化けの違い」に言及します。詳しい内容は、ぼくが説明するよりも本書を読んでいただければ良いと思いますが、宮田氏はお化けと妖怪に抱く人間の畏怖の感情について、以下のように書いています。
妖怪と幽霊を現象面で完全に分けて説明することは柳田のいうように有る程度は可能である。しかし、この怖いという内容については、十分に区別がついているのかどうかは問題である。むしろ怖いと思っている内容を比較してみる必要があるのではなかろうか。そこで、妖怪の古くからの存在と、妖怪の新しい存在とを、もう少し細かく分けて検討してみる必要があると思われる。
宮田氏はこの本の中で、日本における「恐怖心」や、場所が人々に与える影響、さらにそのような現象に関わる「女性」の存在などを、さまざまな逸話や言い伝え、現代に起こった事件や現象などをとりあげ、分析します。柳田の著作と比べると、書き方に若干の超常主義的な匂いがしないでもないですが、それはまあ、各個人がフォークロアに接する際の態度の違いに過ぎませんね。
都市のなかを歩くときに、その点につねに注意していく必要がある。追いつめられていた霊力が、どういう場所に出現してくるのか、言い伝えを残している場所には、いったいどういう経緯があって、超自然的な力が発揮すると考えられていたのかというような観点で、フォークロアを探っていくと、そこには古来日本人の抱いているカミあるいは聖地、あるいはまた妖怪とか怨霊という表現が生きてくるのである。そしてそういうものを生み出してきた日本人の精神構造をとらえることも可能になってくるということだろう。
この本では、おばけのQ太郎から口裂け女まで、かなり広範囲にわたって多くの民俗を取り上げています。その中で、妖怪について語るときには必ず名前が出てくる井上円了という学者さんについても言及しています。
井上円了という人は、民俗学の世界ではお化けや超常現象を科学的に解明しようとした人ということで有名ですが、実はばりばりの哲学者で、仏教を西洋哲学を基盤とした再解釈を試みようとしたとても偉い学者さんなのです。ちなみに、中野にある哲学堂公園は、この円了さんが創ったほとんど冗談みたいな公園です。
円了さんは、日本が西欧の文明に追いつくためには、妖怪や超常現象等、迷信のたぐいをすべて客体化しなくてはならないという信念のもと、日本全国のお化け話を収集し、ひとつひとつその原因を解き明かそうとしました。『妖怪の民俗学』の中でも、円了さんが暴いた超常現象の実例がいくつか紹介されています。現代で言えば、ちょうど大槻教授がやっていることと同じようなことですね。
日本中のおばけ話を収集していたという点では柳田さんと共通するものの、円了さんはそれらの妖怪や幽霊、迷信の中に人間の精神を読み取ろうとはしませんでした。そのような迷信や妖怪は「民衆が自己の心鏡に照して知るべからざるもの」であり、それを解明することが学者の使命であると信じており、そこが柳田さんと相容れないところでした。しかし、円了さんが超常現象・怪奇現象のすべてを否定してかといえばそんなことはなくて、収集した怪奇現象を「偽怪」「誤怪」「仮怪」「真怪」の四つに分類し、どうしても説明できない現象を「真怪」とし、それは「人智をもって知るべからざること」であり、その領域に関しては解明が不可能であると定義しました。そこらへんが大槻教授とは違うところでしょうか。
円了さんが迷信を撲滅しようとしたのが明治二十年代。それから百年経った現在に置いて、日本から迷信が撲滅したかといえば、言うまでもありませんがそんなことはなくて、妖怪話は形を変えて存在しています。『妖怪の民俗学』の中でも取り上げていますが、いわゆる「都市伝説」がそれで、おそらく一般的には真実だと思われているような事でも、調べてみると都市伝説だったということは珍しくありません。けれども、都市伝説は真実ではないのだからそれを排せよ、と言う考え方は、人間の精神の面白さを完全に無視した意見であり、その都市伝説の下に人間の精神の面白さを見るほうが、よほど学問的にも有意義だし、あるいは都市伝説に惑わされるのも、なかなか楽しい生き方なのではないか、と。
先日読んだ唐沢俊一、唐沢なをきの『脳天気教養図鑑』の中に、都市伝説を扱った『噂の噂』という章がありました。これなんかを読むと、「北朝鮮は海辺の日本人を海底戦車でさらいスパイにしたてあげる」ということが都市伝説として取り上げられていて、まあ、海底戦車とか、スパイとかは誇張だとしても、今にして思うとあながち「伝説」でもないわけで、都市伝説と言われているものの中には、隠された事実も身を潜めているのではないか、などと思っちまいました。まあ、海外で発見されるだるまの日本人女性の話は、100%都市伝説だと思いますけど。
『妖怪の民俗学』のことを書こうとしてすっかり話がそれてしまいましたが、この本は妖怪好きの人にはいまいち物足りないかも知れませんが、とにかく取り上げる実例が広範囲かつ膨大であり、そのような実例の多くに女性が関わっていることや、場所の関連性、都市空間の持つ魔性などを「現代」の事例を元に論じているため、非常に読みやすくかつ興味深い内容になっていると思います。特に個人的には辻や橋、境など、人が異界へと足を踏み入れる「境界」、七不思議、怪音などに焦点を当てて論じた第三章『妖怪のトポロジー』が非常に興味深く読むことが出来ました。
しかし円了さん、鬼門にトイレを作ってはいけないという迷信を打破するために、わざと自分の学校の鬼門にトイレをつくったり、寝るときは必ず北まくらで寝たりして、小さいところからこつこつと、なかなかかわいらしいところもあるのです。ちなみに鬼門にトイレを作った学校は火事で全焼してしまいましたとさ。
妄雲を払て真月を見、偽怪を排して真怪を顕さんと欲す - 井上円了