02年12月09日(月)

 雑誌『東京人』の今月号の特集は、「文士の食べ歩き」です。

 殿山泰司から伊丹十三まで、いろいろな文士様のちょっとしたエピソードを交えながら、行きつけのお店などを紹介しております。ぼくは食には疎いほうなのですが、文士様にまつわる食べ物のお話がとても好きで、そのようなものを読んでいると味も良く判らないくせに文士様と同じものを食べたくなってしまいます。そんなに美味いものがあるのなら、食わねば損だわな、などと。

 つい先日、内田百間先生の『御馳走帖』を購入しました。まだ半分程度しか読み終えていませんが、これがまたとても素敵な随筆で、戦争のためにまともに美味いものを食べることができなかった内田さんが、過去を振り返りながらしたためた、食べ物に関する文章を集めたものです。

 どの文章もとても楽しく食指をそそるのですが、その中に『油揚』という段があります。『油揚』は、こんな感じに書き始まります。

志保屋の若様が、近所の子供と一緒に買ひ食ひをしてはいけないと、よく云われた。しかし古京の曲りの八百屋で、砂糖木を買ってかじつたり、後にその店に据ゑつけた硝子張りの箱の中に、砂糖醤油で煮つめた鯣がうまさうに濡れてゐるのを見て、我慢が出来ないから、内証で買つて食つた。

 志保屋の裏には、三畳敷の部屋ひとつに三人で暮らす親子がおり、そこの子供と仲良しだった内田さん、ある日その家に遊びの誘いに行きます。すると、家の中から美味そうな匂いがして、「かかん、これん、一番うまいなう」というその子の声が聞えます。
 内田さんが家の中を覗くと、その子は油揚げの焼いたのを食っていました。
 内田さんは走って家に帰り、晩飯に油揚げを焼いてもらいます。

じゆん、じゆん、じゆんと焼けて、まだ煙の出てゐるのをお皿に移して、すぐに醤油をかけると、ばりばりと跳ねる。その味を、名前も顔も忘れた友達に教はつて、今でも私の御馳走の一つである。

 ああ、美味そう。まじで油揚食いたい。頬張りたい。
 その他にも、物心がついた頃からたばこを吸っていた内田さんが語る煙草遍歴『菊世界』とか、何も食べるものがなくなった戦時中に、自分の食いたいものをただ書き上げただけの『餓鬼道肴蔬目録』、教師をやめた後の生活を書いた『百鬼園日暦』など、本当にすべての文章がとても良くて、ぼくも今日からは、朝食は牛乳とABCクッキーと林檎、昼はもりざる蕎麦、夜は山海の珍味を肴に酒を飲むことにします。

 最近、お酒は出来るだけ日本酒を飲むようにしているのですが、それは尊敬する吉田健一さんの『酒肴酒』を読んだ影響でして、とにかく酒のうまさを延々と語るこのエッセイ、日本酒をまったくおいしいと思わないぼくは、これを読んで以来、人生の半分を損しているような気がしてなりません。吉田さんは、日本酒を飲み始めると肴のことを忘れてしまうことに言及して、以下のように書いています。

 日本酒にはまた、飲めば飲むほど、それだけでますますうまくなって行く性質があって、北条時頼が小皿に入れた味噌を肴に飲んだという話はその倹約をもの語るよりは、北条家にいい酒があったことを示すもののように思われる。つまり、日本酒に関する限り、肴のことをどうのこうのいうのは通振ることになるきらいがあって、その通人振っているのが飲む酒の質まで疑わしくする。

 しかし、実はぼくは非常に日本酒下戸でありまして、本日も気が置けない友人たちと五合ばかり飲んできたのですが、もうまずくてまずくて何度吐き出してやろうかと思ったことか、おまけに頼んだ焼き魚の骨の多いこと、一口食ってやめてしまいました。ぼくの食通酒通への道のりは遠いようです。

 鉄割のみなさんは、特に男性の方々は食通の方が多くて、日頃みなさんの手作りの料理などをよく食べさせていただいております。また、舌の方も下の方も大変こえているので、いろいろとおいしいものを教えていただいたりもするのですが、いかんせんぼくは食に疎いため、いまいち話題についていけておりません。残りの人生、存分に食を楽しめるようになりたいと、心より願う次第でございます。

さけ

 今年のクリスマスは食通のお友達の家ですき焼きです。今から楽しみ。

02年12月08日(日)

 せっかくのお休みですから、お友達を強引に連れ出して『アイリス』を観てきました。

 はー、良い映画でした。不覚にも泣いてしまいましたよ。この映画は、マードック・アイリスという実在の小説家がアルツハイマーに侵されていく姿を描いた作品で、観る前に想像していたのは、「言葉」をもって世界を描く小説家が、武器である「言葉」をどんどん失っていくという苦悩を描いた映画だったのですが、いざ観てみるとそうではなくて、アルツハイマーの妻と彼女を愛する夫の、愛と苦悩の物語でした。身につまされる思いで映画に見入ってしまいまして。

 マードック・アイリスという作家は、日本ではそれほど有名ではないので、その名前を初めて聞いた方も多いと思います。ぼくもこの映画で初めてその存在を知りました。文学だけではなく、哲学や戯曲にも優れた作品を多く残している方で、映画の中のほんの少しの発言からでも、彼女の造詣の深さを窺い知ることができます。

■Iris Murdoch Internet Resources

 青山南さんがすばる文学カフェで連載している「ロスト・オン・ザ・ネット」の中で、彼女と映画のことが詳しく書いてあります。

■すうっと消えた作家の肖像(ロスト・オン・ザ・ネット)

 このエッセイを読むと、光り輝いていた若い時代と、アルツハイマーに苦しむ年老いた時代にのみ焦点をあててアイリスを描いたこの映画に対して、文学者としての彼女のファンが戸惑っていることがわかります。先にも書いた通り、この映画は「マードック・アイリス」という一人の偉大な女性の生涯を描いた映画ではなく、あくまでも生涯を共に過ごしてきたある老夫婦の物語とみるべきなのでしょう。

 自身もアルツハイマー病の母親を持つ監督のリチャード・エアは、「アルツハイマーの最も辛いところは、その人から本人自身や性格を奪い去ってしまうところです」と言っています。

 今の僕の考えでは、個人という存在を規定するものは記憶であるということになるのですが、そうであるならば、記憶を失った個人は、もはや以前の個人ではないのだろうかという疑問が生じます。アルツハイマー病によって、過去の記憶と言葉のほとんどを失ったアイリスは、以前の「マードック・アイリス」とは別の個人になるのだろうか。答えはもちろん否です。

 アイリスがたとえ記憶を失っていても、夫であるジョン・ベイリーが彼女と過ごした記憶を維持し、その記憶を愛し、彼女のことを愛している限りは、アイリスはマードック・アイリスであるし、記憶を失ってなお、アイリスがジョン・ベイリーを愛していたということは間違いありません。映画の中で現在と交互に映し出される若き日のアイリスは、単なる回想としてのフラッシュバックではなく、ジョン・ベイリーの記憶そのものなのです。マードック・アイリスがマードック・アイリスであるのは、彼女自身の記憶だけによるものではなく、彼女を愛するジョン・ベイリーという存在によってなのではないでしょうか。愛する人が自分を失ってしまったとき、その人をその人たらしめるのは、その人を愛する人だけなのです。

 男友達が多く、性的に奔放な若き日のアイリスに対して、ジョン・ベイリーが自分への愛を詰め寄るシーンがあります。そのとき、アイリスはジョン・ベイリーに「You know me more than anyone. You are my world.」と言います。ぼくにはこの最後の「You are my world」が「You are my word.」に聞えて、なんとなく感動をしたのですが、「You are my world」だったのね。ちぇ。

ごすふぉーど

 良い映画を観たあとは、長い時間散歩するに限ります。ゆっくりと、頭の中で、映画を反芻いたしましょう

02年12月07日(土)

 ちょっくら角田光代さんをまとめて読んでみました。

 この方の書く小説って、読んだ方もいらっしゃるかもしれませんが、一度読み始めると止まらないのですよ。しかも読みやすいから、あっという間に読んでしまうのです。なので、『東京ゲスト・ハウス』を電車で読んで、『エコノミカル・パレス』をカフェで読んで、『愛がなんだ』を夕食を食べながら読んで、『空中庭園』をふとんに転がって読みました。

 面白くなかったらそんなに読めるはずもないので、当然のごとく小説自体はかなり面白いのですが、この面白さはいったいなんなのだろうと考えてみたところ、もしかしたら小説の主人公に自分を重ねて読むという、ぼく的には一番恥ずかしい読み方をしているのではないか、と思うに至りまして、少々焦っているのですが、角田光代さんは1967年生まれで、ぼくよりも全然年上ではありますが、世代的には同世代ともいえるし、登場人物はぼくと同じ年くらいの若者ばかりだし、小説の書き方もとても巧みなので、登場人物に共感するのは仕方がないのかもしれませんが、なんとなくシャクゼンとしません。だって、『東京ゲスト・ハウス』のコピーなんかをみると

アキオはアジアを旅して帰国した。成田に着いて恋人マリコに電話するも、彼女は他の男と同棲していた。行き場を失ったアキオは“ゲスト・ハウス”に転がり込む。“何か”を探している人に読んで欲しい。

 わお!はずかしー!今どき「“何か”を探している人」って。なんですか「何か」って。ダブルクォーテーションで括らないで欲しい。“何か”なんて探してないですよう、ぼく。

 さらに『エコノミカル・パレス』のコピーは

34歳フリーター、同居の恋人は失業中。どんづまりの私の前に、はたちの男があらわれた——。生き迷う世代を描いて<今>のリアルを映す。

 もうねえ、言葉も出ませんよ。「生き迷う世代を描いて<今>のリアルを映す」ってなに?なんなの?こんなことを書いたら怒られてしまうかもしれませんけど、今どき「何かを探している」とか「生き迷う世代」なんていう表現はいかがなものでしょう。『東京ゲスト・ハウス』も『エコノミカル・パレス』もとても面白い小説だったので余計に腹立たしいのですが、「生き迷う世代を描いて<今>のリアルを映す」って、なにも言いようがない駄目な小説に使うようなコピーじゃないですか。とりあえずそう言っておけばいいや、みたいな。ぼくにはコピーを考える才能はないので、単なる文句で終わってしまうのがとても悲しいのですが、少なくともそのようなコピー群を読んで、小説を手に取ってみようとは思わないでしょう。

 別に本のコピーの文句を言いたいわけではなくて、「物語に共感する」とはどういうことなのか、を考えたいわけでして、小説の中に自分を見つけて自分の不甲斐なさを再確認してもどうしようもないのに、それが妙に快感だったりするのはどういうわけなのでしょう。今回読んだ四冊の中でぼくが一番好きなのは『エコノミカル・パレス』で、主人公は、甲斐性のない恋人と一緒に暮らし、恋人が失業したためにその生活費の大半を出すはめになった三十四歳の女性なのですが、その女性の行動がいちいち解るのです。理解できてしまうのです。ああ、わかるわかるって感じなのです。やべー、これって少女漫画読んで自己投影してその気になっている中学生と一緒じゃん!などと焦りを感じたりもするのですが、やっぱり解ってしまうのです。たとえば、物語の中で主人公は二十歳の若者に魅かれます。年が十四才離れているこの若者に対して、主人公が戸惑うシーンが何ヶ所かあるのですが、ぼくたちの世代が初めて遭遇する世代間のギャップに対する戸惑いが、これでもかというぐらい上手に描かれていて、うおー、わかるぞ、そう言ってしまう気持ち、そう行動してしまう気持ち、だってこれ俺じゃん!などと柴門ふみの漫画を読んで大学生が思うようなことを感じたりしてしまう自分がちょっぴり恥ずかしいの。

 もし、物語に自己を重ねてそこにリアルなものを見いだすことができるとしたら、ぼくたちは自分の物語を相対的に読むことが出来るわけで、そのように物語を通じて自分たちを俯瞰することによって、普段の生活では発見することができないような世代の在り方を見いだすことが出来るかも知れません。けれども、それは二次的な結果であって、角田さんの小説を読んだときにぼくが面白いと思った感覚の説明にはなっていません。

 もし物語に共感、あるいは「リアル」ということだけを求めるのであれば、おそらくインターネットで公開されている日記サイトに勝るものはないのではないでしょうか。インターネットの黎明期にはうんこだのごみだの言われていた個人の日記サイトですが、ここ数年でとんでもない広がりを見せ、今では個人で開いている日記サイトの他にも、誰でも簡単に日記を公開できるサービスもあったりして、そーとーすごい事になっています。しかも、その日記が妙に面白い。ぼくは「リアル」という言葉にはちょっと思い入れがあり、否定的にも肯定的にも使いたくないのですが、あえて使わせていただくと、日記サイトは下手な小説よりもずっとリアルです。だって、基本的には本当の現実を書いているわけですから。特に、個人が特定できていない、見知らぬ他人の日記なんかはとんでもなく面白かったりします。

 小説があって、それを読んで共感を得たり、あるいはそのリアルな描写に自己を投影させたりすることが小説を読むときの楽しみのひとつだとしたら、書き手の存在が明確でないWeb上の日記サイトは、もしかしたら小説以上に読み手のこころを奪うものになるのではないか、などと思うことがあります。たとえば二十代、三十代の女性による日記サイト「シングルトンズ・ダイアリー」。

■シングルトンズ・ダイアリー

 このサイトは、サイト内で公開された日記を集めて一冊の本にして出版しており、角田さんはまえがきとあとがきを書いています。残念ながら12月の16日でサイト内の日記の更新は終了し、12月25日で公開自体も終了してしまいますが、このサイトなんかを読んでいると、下手な小説よりもよほど共感や自己投影をすることができるでしょう。もちろん、書いている本人はそのまま現実を書いているだけなのだと思いますが。

 同じようなことは以前にも書きましたが、そのときは日記の面白さに「自己投影」という要素は挙げていなかったと思います。今回も、角田さんの小説をぼくが面白く感じる要因を知りたいという過程で、日記という活字形態を例に出しただけで、ぼく自信が他人の日記に自己投影をして楽しんでいるということはまったくありませんが、物語に「共感」を求めるととき、はたして現実の記録としての日記に打ち勝つだけの力を 文学は持っているのでしょうか。それはもちろん持っているでしょう。それでは、その力とは一体なんなのか?角田さんの小説を読みながら、ぼくが本当に物語の主人公に自己投影して感情移入して、それを楽しんでいるのだとしたら、個人の日記にはなくて小説の中にある面白さとは、一体なんなのでしょうか。それは物語の中の「イベント」を越えたものであることは間違いないと思うのですが。

 本当はね、角田さんの物語の中で深く考えさせられた部分について書きたかったのです。60年代後半から70年代前半に生まれた世代が、今どのようにして生きているのか。っていうか、あの世代って一体なんなのだろうということを。角田さんはそこら辺のことを書かせたら、おそらく今一番上手い作家さんですから。けれども、書き始めたら「どうしてぼくはこの小説がおもしろいのだろう」という事に意識が集中してしまいました。

えこのみかる

 角田光代さんの『愛がなんだ』は、Webで全編を読むことが出来ます。思いっきり恋愛小説でして、読みながら、わーお、これ俺じゃん!これ私じゃん!これあいつじゃん!なんて思う方もいらっしゃるかもしれません。お時間のあるときにでも、仕事をさぼりつつ読んでみて下さい。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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