02年11月14日(木)

 最近なにかと話題の大塚英志氏が、「怪談前後」というエッセイのような評論文のような、とても興味深い柳田国男論を文芸誌「群像」で連載しております。

 その第一回目で大塚氏は、昨今盛んになっている柳田国男の『遠野物語』の「神話剥がし」に言及した上で、それらの研究には敬意を表するが、「柳田のテキストを前にして感じたはずの違和とその結果としてなされる『神話剥がし』の間には微妙なズレがあるようにも感じられるのだ」と述べ、この連載の目的を以下のように述べています。

具体的には柳田国男がいかなる動機で、いかなる方法で、いかなる質の仮想を構築していったかということを柳田の周囲にあった人々との関わりを介して、明治三十年代半ばから四十年代前半(で明治は終わってしまうが)という時代の中で考えていくことである。

 この連載を、大塚氏の意図するとおりに読むことは十分に意味のあることだと思いますが、柳田国男さんにも民俗学にもいまいち明るくないぼくは、そこにたどり着こうとする過程で展開される柳田の周辺のお話の方に興味が向いてしまいます。例えば連載の第一回目の、私家版『遠野物語』と周辺の人間の誤読について。あるいは明治の村上春樹こと水野葉舟という人物について。ここら辺のお話に関しては、長くなるので割愛しますが、とても面白かったです。

 その中でも一番に気を魅かれたのが柳田の朋友田山花袋と、柳田国男の自然主義文学を巡る論争に関するエピソードで、『遠野物語』という作品それ自体が、自然主義文学を目指す田山花袋に対する批判になっていたこと、さらに『遠野物語』に対する田山の批評文も、極めて冷ややかだったことが書かれています。

柳田君の『遠野物語』これもさうした一種の印象的の匂ひがする。柳田君曰く『君には僕の心持は解るまい。』又曰く『君には批評する資格がない。』
粗野を気取つた贅沢。さう言つた風が至る所にある。私は其の物語に就いては、更に心を動かさないが、其物語の背景を塗るのに、飽くまで実際の観察を以てした所を面白いとも意味深いとも思つた。読んで印象的、芸術的にほひのするのは、其内容よりも寧の其材料の取扱方にある。(『インキ壺』)

 田山花袋や島崎藤村らによって小説を書く際のモデルとして幾度と使われた柳田は、花袋が『蒲団』を発表すると、自然主義文学と私小説は文学と呼ぶに値しないと断言し、自然主義文学批判を展開します。

 自然主義もいいだろうけれども、素人写真の習ひ立てに友人や兄弟ばかりを写してゐては仕方がない。も少し想像の力を養つて、大に新しい領域へ入つて行かなければ不可と思ふ。(『無名通信』第十二号)

 文学を表現芸術として考えるならば、この種の論争が作家達の間に起こるのは必然のことで、他にも有名なところでは、芥川竜之介と谷崎潤一郎の「小説の筋」論争があります。筋の面白さと、作品の芸術性は別のものであり、「話」らしい話のない小説は、その芸術性において、筋に頼っている通俗小説よりも上のレベルにある、と主張する芥川。いかにも芸術至上主義の芥川が言いそうなことです。それに対して谷崎は、「筋の面白さは、云ひ換へれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築的の美しさで」あり、日本の小説に欠けているのは、そのような筋を構成する力である、と主張します。
 この論争に関しては、以下のサイトで詳しく読むことができます。

■芥川龍之介——その方法芥川竜之介記念館

 この普遍的な問題に関する同様の論争はアメリカ文学界においても行われています。ウィリアム・ギャスロバート・ストーンの間で行われた「Art and Morality」論争がそれです。
 きっかけはウィリアム・ギャスの『Goodness Knows Nothing of Beauty』というエッセイでした。小説という芸術ジャンルが求めるべきなのは「美」なのか「倫理」なのか。ギャスは、芸術と倫理はかけ離れた存在であり、芸術が美しくエキサイティングであるのに対し、倫理は感傷的で想像力にかけている、と主張し、対するストーンは、ウィリアム・バロウズの「裸のランチ」(!)などを例に出して小説における倫理の必要性を説きます。
 こちらも論争の大まかなあらましは以下のサイトで読むことが出来ます。

■Art and Morality(英語)

 それにしても、どれもこれも同じような論争ばかりです。小説に必要なのは、芸術性か、物語性か。自分というものを持っていないぼくは、彼らのどちらの立場にも賛同する自信があります。

 よく言われるように、「〜はこうあるべきだ」という思い込み、あるいは固定概念は、人の表現の可能性の幅を狭めてしまうものかもしれません。しかし、そのような「主義」を持つことによって、人は自分の存在や立場を明確にし、自己を確率していくという側面があることもまた事実です。表現芸術に対する個人の主義や立場などというものは、突き詰めれば単なる好みに過ぎないわけですから、決着なんてそうそう付くものではありません。ですから、論争をする目的というものは、どちらが正しいという結論を出すためではなく、相手の立場と自分の立場を比較しつつ、時には相手の意見を取り入れて、自分の主義・立場をより明確で確固たるものにすることであると、かのように思うわけです。

 そんなわけで、老若男女とことん論争していただきたい。そして願わくば、できる限り決着をつけないで、殴り合いにまで発展していただきたい。殴り合った後には唾とか吐きかけ合っていただきたい。論争の後も、イタ電をばんばんかけていただきたい。車のタイヤをパンクさせたり、アンテナを折ったり、フロントガラスを石で割ったりしていただきたい。そうすることによって、あなたという個人はより強固な個性へと成長することでしょう。

げいじゅつだいすきりゅうのすけ

ポリシー下さい。

02年11月13日(水)
■“差別用語”と呼ばないで

 個人的には、一人でも傷つく人がいるのであれば、そのような言葉は使わないほうが良いとは思うのですが、「味噌煮込みうどん」まで差別用語だとか言う人もいたりして、世の中はいろいろと大変な様子です。

 鉄割の方々は、僕のことをチビシャクレなどと呼んでおりますが、この呼び名も差別用語に認定していただきたい。しかしそうなると、コンピュータメガネも、甲斐性無しも、ちんこでか男も、泡銭引越しも、ボンボン車野郎も、すべて差別用語になってしまいそうなので、やっぱりいいです。

 言葉に限らず、人を差別しようとする人間に対しては、精一杯の軽蔑を以て接するべきなのでしょうが、差別を廃しようとするあまり、極端な、あるいは短絡的な行動、発言をする方というのも、相当うざいものでございます。
 何事に関しても、過ぎたるは尚及ばざるが如し。
 と、自戒を込めて。

みそにこみ

徳は、『過超』と『不足』によって失われ、『中庸』によって保たれる - アリストテレス
02年11月12日(火)

 黒沢明の『夢』を観ました。

 これって面白いのでしょうか。ところどころ印象に残っておりますが、なにが面白いのかさーっぱりわかりません。ある友人は、色盲おやじの失敗作、なんて言っていましたけど、ちょっと好みではありませんでした。残念です。まあ、人の夢話ほどつまらないものはないと申しますし。

 それで、『夢』といえば夏目漱石の『夢十夜』で、この作品は大好きで何度も読んでいるのですが、この作品に習って、ぼくもときどき夢日記をつけております。

夢日記
 こんな夢をみた
 百間はあろうかと思われる畳の一室に自分は座っている。部屋の半分には音響の機材が敷き詰められており、もう半分は無印良品の家具で埋め尽くされている。ははあ、これは三年前に恋に苦しみ自ら命を絶った友人の部屋だな、と思い立ち、友人を弔うつもりで勝手に適当なレコードをかけた。蓄音機から、奇妙な摩擦音のような音が聞こえる。撃たれた雉子が喘ぐような、釣られた魚が漏らすような、幽かな喘鳴のような音が聞こえる。これはこの世の音ではない、黄泉の国の音ではないかと気づき、急いでレコードを止めた。瞬間、誰もいないと思っていた風呂場から、がたっと音が聞こえ、眼鏡をかけた男が鷹揚と現れた。眼鏡の奥の眼光がまぶしすぎて、自分は顔を伏せた。
「最近、一日の内の九割は考えております」眼鏡の男が云う。何を、と尋ねる。眼鏡はふふふと笑い、「判っている癖に、憎たらしい」と云う。判っている癖にと云われても、自分は一向に判っていない。「夢に見ぬ日はございません」と眼鏡の男が云う。何を、と尋ねる。眼鏡の男は、眼鏡の位置を神経質そうに直しながら、「二十三区でございます」と云う。
 窓の外で「如何に」と声を出すものがある。窓を開けると、年の頃は三十前半と覚しき男が立っている。眼鏡の男が「猫型自動人形」と云うと、窓外では「如何に」と応える。やけに暗いと思って空を見上げると、天象は怪しく、今にも降り出しそうな具合である。「如何に」と窓外の男が云う。刹那、雷光が走る。一瞬の後に、堪えていた赤子が泣き出したかの様に、土砂を崩さんばかりの風雨が窓外の男を打つ。風に打吹かれて初めて、窓外の男の額がエム字型に禿上っていることに気付いた。「如何にすれば」と男が云う。自分は「無理をせぬよう」と応えた。

 気が付くと自分は山道に座っている。道の端は切り立った断崖になっており、一歩でも足先を誤れば、滑落することは間違いない。遠方に槍の様な稜線が見えるということは、ここは北アルプスの穂高山脈であろうか。さては今年登山に行けなかった無念が、自分をここまで運んだのかと思う。昼間だと思っていたら空に星が瞬いている。今は夜かと思っていると東の空には太陽が覗いている。西を向けば夕日が落ちようとしている。槍ケ岳の山頂を遠望すると、大勢の人が登っては落ちている。それでは自分も落ちようと、山頂に向けて歩き出すと、一歩踏み出すごとに世間の人が一万人死んでいく。二歩踏み出すと二万人。三歩踏み出すと三万人。これでは、山頂に到着する前に世間の人が絶えてしまう。山頂では。途切れることなく人が登っては落ちている。自分が歩けば人が死ぬ。歩かなければ自分は生きる。如何にしたものだろうかと焦慮に駆られ「色不異空、空不異色」と呟いてみる。途端、辺りは静寂に包まれ、東西の日は落ち、周りはいつの間にか雪に覆われていた。一歩踏み出すごとに死んでいたのは、世間ではなく自分であったか。それならば、このままここで寝てしまおう。歩けば死ぬ、歩かなくても死ぬ。どうせ死ぬなら、歩かぬほうが良い。雪の上にごろりと転がり、空を見上げる。星がやけに近くに見える。雪がとても温かい。ああ、時間が過ぎていく、と思い、目を閉じた。

ゆめ

 ところで、夢日記というは、長年にわたって書き続けると精神に異常を来すそうです。ほどほどに。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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