
本当の悪人って現実に存在するのですかねえ。などと最近考えておりまして、知人や友人に恵まれている僕としては、人間はみな心のどこかに優しさを持っているなどと愚かなことを思ってしまうのですが、毎日のニュースを見たり、犯罪史を読んだり、映画なんかを観ていると、笑ってしまうような悪人って出てくるじゃないですか。最近で言えば、池田小学校の宅間守みたいな。「むしゃくしゃしたから殺した」とか、平気で言ってる人。
自分の経験外のことや、理解不能なことを遮断するようなことは極力避けているつもりではありますが、それでもぼくのまわりのこの穏やかな世界と、ブラウン管や紙面、スクリーンを通して見る殺伐とした世界との間には、かなりの乖離がございます。映画や小説はフィクションだから良いとしても、ニュースやノンフィクションなどに関しては、現実に僕の生きている世の中で起こった出来事であるわけですから、よほど報道に偏向がない限り、宅間守のような人間は現実に存在するわけだし、畢竟そのような人間がぼくの身近に存在する可能性もあるということでございます。露見していないだけで。そのようなことは誰でもが感じていることなのでしょうが、ぼくにはその実感がないのです。そして、その実感のなさに危機感を抱いて生きております。
前置きが長くなりましたが、オーストリアの映画『ファニーゲーム』を観ました。湖畔の別荘に遊びに来た家族が、無軌道な若者二人に酷い目に遭わされるという作品でして、いわゆる「救いのない映画」です。ほとんど遊び半分で人を殺してしまう二人の若者の姿は、ひっじょーに不愉快で、怒りよりも悲しみを覚えます。
このような事件は現実的にも世界各国で起こっているわけで、日本でも書くのもおぞましいような若者による殺害事件が何度も報道されています。なんの理由もなしに人を殺してしまう殺人者は、映画の中だけでなく、現実の新聞の中、ニュースの中にも存在しているわけであります。
これ以上の幸せを望みませんから、そのような方々にはぼくの世界に現れて欲しくないと、切に願う次第であります。
講談社の文庫情報誌『IN・POCKET』を読んでいたら、京極夏彦さんが最近文庫になった『絡新婦の理』の原稿を、MacOSXとInDesignを使用してPDFで入校した、という記事が掲載されていました。
京極夏彦さんの作品の場合、現在のOSでは使用できない漢字を多く使用しているため、そのような漢字を使用する場合は自分で作字するそうです。そのためこれまでは、京極さんがワープロでまず漢字を作字し、原稿を印刷会社に送り、同じ漢字を印刷会社でも同様に作字してから、植字、組版し、それを印刷してゲラを出力し、出版社を通して京極さんにゲラを送り、京極さんが校正をし・・という風に煩雑な作業がありました。それが、MacOSXでInDesignを使用した場合、原稿を書いて、作字、組版、校正等すべて作者自身が作者自身の手で行うことができるので、最終的なレイアウトを含む原稿が完成したら、PDFでファイルを出力して、印刷会社に持っていくだけです。
MacOSXは、ご存知のとおりファイルをPDFで出力できるという素晴らしい機能が搭載されていて、これだけでも僕としては感動的なのですが、InDesign等を使用すれば、さらに個人で書籍まで作れてしまうという、非常に実用的な記事でございました。InDesignというアプリケーションは使ったことがないのですが、以前から話のある『鉄割本』を作成するときにちょっくら使ってみたいな、と思いました。
『鉄割本』、作ることは出来るのでしょうが、問題は中身ですね。