
先日、古本屋でヴィム.ヴェンダースの『アメリカの友人』の原作である、パトリシア・ハイスミスの『アメリカの友人』を購入しました。ヴェンダースの作品『アメリカの友人』は、登場人物などは原作と同様ですが、ストーリーが原作と大きく異なっていて、それ自体でひとつの独立した作品として完成していましたが、もともとはハイスミスの処女作『リプリー』のシリーズの一作として書かれたもので、映画『太陽がいっぱい』でアラン・ドロンが演じ、映画『リプリー』でマッド・ディモンが演じたトム・リプリーというひとりの人物の物語を描いたものです。
さてそれでは読み始めましょうか、と思っていたらいきなりニュースが。
映画の作品名は『Ripley's Game』で(邦題不明)、原作のタイトルそのまんまです。先にも書いた通り、ヴェンダースの『アメリカの友人』は原作と大きく異なっているので、『Ripley's Game』が『アメリカの友人』のリメイクということにはならないようです。『リプリー』はとてもお気に入りの映画なので、『Ripley's Game』もとても楽しみ。
っていうか、『アメリカの友人』って、僕の周りではとても評判が良いのですが、いまだ観ていないので、そちらを先に観ておきます。
生誕百年ということで、最近やたらと耳にする北園克衛さんですが、ふと気がつけば北園克衛.comなんてものまで出来ており、詩集「若いコロニイ」と「黒い火」が公開されております。
さらに生誕百年を記念して、なにやらイベントも開催される様子。キットカットがプチブームです。
北園克衛や西脇順三郎というと、前衛詩人として知られているので、「ああああわわわたしししししはここここことばばばばのうみみみみみみみみ」とか「ちんちんちんこちんこちんちちんこ」とか、訳のわからない詩を書いているのでしょうという誤解を受けていることがありますが、実験的な作品の他にも、皆さんとても素敵な詩を残しているのです。ぼくは学生時代から彼らの詩の大ファンでして、今でも五年に一度ぐらいは詩集を開いて愛読しております。
風が
さはやかな午後のアヴェニュをふいてゐた
あなたの眉は細く
アラビヤの地平線のやうに
かなしかつた
そして
あなたの日日は
僕たちの泪に縁取られた
ゲンスボロオの美しい一枚のミニアチュルでした
ね
ではさやうなら
あなたの優しい皮肉なわらひ
そしてわたしの嘘のセンチメンタルを
いま
なつかしく思い出しながら
秋風の街を僕はあるいてゐる
すこし哀しく
疲れて『ELEGIA』 詩集『砂の鶯』より
この詩なんか、すごく良くないですか。昔、この詩を手紙に書き写して恋人に送ったら、字が汚くてうざいということを言われたことがあるのですが、字の汚さよりも内容を読んで欲しかった。1900年前後に生まれて、戦前のシュールリアリズムやダダに洗礼を受けた前衛詩人さんたちは、みなさんとても良い詩を書いているのです。
たとえば西脇順三郎なんかはこんな詩を。
黄色い菫が咲く頃の昔
海豚は天にも海にも頭をもたげ
尖った船に花が飾られ
ディオニソスは夢見つつ航海する
模様のある皿の中で顔を洗つて
宝石商人と一緒に地中海を渡つた
その少年の名は忘れられた
麗らかな忘却の朝
西脇順三郎『皿』
学生の頃にある先生が、西脇順三郎の詩を楽しむには、「(覆された宝石)のような朝」という一文を読んだときに、「覆された宝石」のような「朝」をイメージ出来ないと駄目だ、と言っていました。さらに、覆された宝石が括弧に入ることによって朝のイメージが変わってしまう、そのような絶妙な機微を味わうことだ、とも言っていました。
高橋新吉さんは、ちょっと男らしいので北園さんや西脇さんほどにははまりませんでしたが、それでもやはり好きな詩人のひとりであります。
留守と言へ
ここには誰も居らぬと言へ
五億年たったら帰ってくる
高橋新吉『るす』
この詩はとても有名なので、ご存知のかたもいらっしゃると思います。素敵でしょう。
この方達、書く詩も素敵ですけど、見た目もとても良いのですよ。やっぱり詩人です。文学者って、なんだかんだ言ってもやっぱり滑稽さが漂うじゃないですか。こいつらは本当にむかつくほどにダンディなのね。
![]() | ![]() | ![]() |
右から、西脇順三郎、北園克衛、高橋新吉なんですけど、カッコつけてるでしょう。高橋さんのしかめ面とか。もう。
ではさやうなら
京極夏彦の『魍魎の匣』読了。『姑獲鳥の夏』とはまた違ったおもしろさで、後半はぐいーぐいーと引き込まれて一気に読んでしまいました。
小説を読みながら、登場人物のあるひとりが抱いていた夢、というか取り憑かれていた恐ろしい妄想と同じことを考えている実在の科学者のことを思い出しました。この種の小説は、下手なことを書くと犯人やトリック(?)がばれてしまう恐れがあるので、内容に関してはあまり触れることができません。気をつけて書くつもりではありますが、『魍魎の匣』をまだ読んでいなくて、これから読もうと思っている人で、且つ勘の良い方は此処から先は読まないほうが良いかも知れません。もしかしたら、物語の中のトリックがわかってしまうかもしれませんから。
何年前か前に、NHKで『自分とは何か?生命哲学が問い掛けるもの』という番組が放映されました。ホストは哲学者の中村雄二郎さんで、最先端の科学技術と科学者にインタビューをして、現代科学から人間という存在、延いては自分という存在について考える、という内容でした。
こうやって文字にして読むと、くそつまらねーとか思うでしょう?けれど、科学という観点からだけではなく、哲学の観点からも考えるという点で、なかなか刺激的で面白い番組でした。
その中で登場する科学者一人に、ロボット工学や人工知能技術の権威であるマーヴィン・ミンスキーがいます。彼は「心を持つ機械」について、熱く語ります。
ここで言う「心を持つ機械」とは、文字通りの機械、つまり人工知能とそれに付随する工学を意味しますが、ミンスキーはそれとは別に、もう一つの可能性を語ります。それは、人間の脳を生物学的にではなく、工学的に理解し、脳のニューロンとシナプスのネットワークをすべて解析して、それをコンピュータ上に復元し、人間の意識をコンピュータ上に再現するということです。思考の速度を上げたければCPUを高速なものにすればよいし、記憶力を上げたければメモリーを買い足せば良いのだ、肉体的な制限からも放たれ、寿命も数百年、数千年になると彼は言います。
人間の脳というのは、なにも奇跡なんかではありません。人間の心は、何か別の次元のものであると考える必要はないのです。脳は、膨大なコネクションを持った一個の機械で、それが心を生みだしているのです。
アメリカには、事故や病気で死亡した場合に、再び復活する技術が確立するまで、遺体や脳味噌を冷凍保存しておくための企業が多数存在します。彼らが将来復活する際に、生身の肉体を持った人間として復活するという選択肢のほかに、脳の神経細胞が作り上げるネットワークをスキャンして、コンピュータ上に意識として復活するという選択肢もある、とミンスキーは言います。
以前の日記でビル・ジョイのエッセイを紹介したときも書きましたが、このような人間の意識と肉体をコンピュータで再現するという技術は、今日では決して夢物語でも、不可能な話でもありません。世界は、クローン技術のような問題には過敏なほど倫理的に反応するのに、この手の問題にはあまり反応しません。人間が自らの手で人間という物質的な存在を作り上げることが罪であるならば、人間が人間の意識をゼロから作り上げるということもまた罪であるということにはならないのかな。
『魍魎の匣』の中で、京極堂は以下のように言っています。
「意識は脳だけで造り出されるものじゃない。人間は人間全部で人間なんだ。脳髄はただの器官だ。部分的に欠損した場合は幾らだって補えるが、脳だけ取ったって何も残らない。体と魂は不可分なんだ。脳髄は部分だ。脳が人間の本体だなんて考えは、魂が人間の中に入っていると云うのと変わりのない馬鹿馬鹿しい考えだ。この世がなければあの世があり得ないように、肉体がなければ心もない。」
ミンスキーはさらに、宗教が科学の進歩を妨げた、と言って宗教に対する嫌悪感を露にします。古代ギリシアの自然哲学者達は、十分に現代の科学を理解する能力があったが、それを妨げたのが宗教であり、その支配が無ければ、西暦500年には人類は現代の科学技術にまで達していただろう、と言うのです。
宗教は、人々に永遠の生を約束しました。しかし皮肉なことに、科学の発展を阻害し、批判させないようにすることによって、実際には私たちが永遠の生を得ることを妨げ、私たちを早死にさせているのが実情です。人々は、もっと宗教に憤りを感じるべきであり、生きること、死ぬことが自然のサイクルであるという古くさくてばかばかしいアイデアを受け入れるべきではないと思います。
ミンスキーは、人間がほかの動物と異なるのは、文化というものを作り上げる点だ、と言います。しかし、ここで彼が言う「文化」は、「生きる」ということが前提になっています。「少しでも長く生きる」ことを懇願し、「少しでも多くのことを考える」ことを切望し、「すこしでも先へと進歩する」ことを目的として生きている人々による「文化」なのです。ミンスキーが求める科学は、そのような彼らにとっての科学であり、「死」という決して逃れることのできない運命を受け入れ、短い人生を少しでもより良く生きようとする人々にとっての科学ではないのではないか、などと思ってしまいました。
「科学は技術であり、理論であって本質ではない。科学者が幸福を語る時は、科学者の貌をしていてはならないのです。至福の千年王国などと云う科白はーあなたが口にして良い言葉ではない。」『魍魎の匣』で京極堂の決め科白。