02年08月23日(金)

 外出先でパソコンが使えたら便利だろうなと思い、ThinkPad535という古いノートパソコンを12000円で購入しました。Pentium150Mhzのメモリが40Mという代物です。

 辞書系のアプリケーションをインストールするために、ハードディスクを6.4G(それ以上だと認識しない場合があるらしい)に増設、さらにバッテリーのセルを新しいものに交換して、三時間ほどは持つようにしました。これでどうにか使い物になります。

 このパソコンは、『電脳売文党宣言』という座談会本で、ジョイスの翻訳で有名な柳瀬尚紀さんが使用していたのと同じものでして、この本が出版された1997年の当時は、結構なスペックの軽量ノートパソコンだったはずなのですが、5年経った現在では見る影もありません。それでも、柳瀬さんがこのパソコンを使っていろいろな翻訳や編集をしていたいということを考えれば、十分に使えるパソコンのはずなのです。と自分に言い聞かせているのです。軽いしね。

 この『電脳売文党宣言』は、コンピュータと本の関係を、書き手の側から語った座談会を収録したものです。読み手の側から、つまりコンピュータで読書をすることに関しては『本とコンピュータ』などでも昔から取り上げていますが、書き手の側からこの問題を取り上げた書籍は、これ以外にはないのではないでしょうか?ぼくが知らないだけかもしれませんが。

 座談会に出席しているのは、島田雅彦をホストとして、笠井潔井上夢人、柳瀬尚紀、加藤弘一といった錚々たる皆さんで、扱うテーマも再販制の問題から文字コードの問題まで、あっちへ飛びこっちへ飛びしながらかなり広い範囲で語られています。加藤弘一さんはUnicodeを利用することによって消えていく漢字に関して警鐘を鳴らしているし、柳瀬尚紀さんは内容の無いサイトはウィルスを使ってでも削除したほうが良いと冗談を言っているし、笠井潔さんはCD-ROMを利用することによって書籍の「原則絶版なし」を主張しているし、島田雅彦さんはバカみたいに自分が手書きであることを強調していたりします。今読むと少し古い話題もありますが、大半が現在でも問題のまま残っていることばかりです。

 先日テレビを観ていたところ、某文化人が「本が無くなる無くなると言われているけれど、コンピュータの解説書が爆発的に売れているおかげで発行部数が増えている。だから本は無くならない」などと非常に短絡的なことを言っていましたが、本はコンピュータに取って変わられるのか?という問題に関しては、世界中でいろいろと議論されておりますし、個人的にはいきなり本が無くなってしまうなんてことはあり得ないので、もし入れ替わるとしても50年から100年ぐらいは必要なのではないか、と思っております。コンピュータはハード的にはどんどん進化していますが、ソフトウェアの面では無駄な機能をつけてCPUのパワーを浪費しているだけで、全然進化していないし。

のーと

 それにしても、まだまだ使えるノートパソコンが12000円で買えるのですから、良い時代になったものです。

02年08月22日(木)

 胃痛が一向に治まらず、お医者さんに行って診断を受けたところ、念のために胃カメラを飲んでおいたほうが良いとのことなので、翌日の早朝に診察に向かい、胃カメラを飲むことになりました。
 咽の奥に麻酔薬を塗って咽の通りを良くし、さらに筋肉を緩和させるための麻酔を注射されたところまでは記憶にあるのですが、次の瞬間に意識を失い、気付くとベットに寝ておりました。
 そんなわけで胃カメラを飲んだ記憶というものは一切無いのですが、ぼくの胃の中の写真はしっかりと撮影されておりまして、暴飲暴食による胃炎であるから心配しなくても良い、という結果でした。ほっと一安心。
 しかし、軽い麻酔を打たれた程度で、あっという間に意識を失ってしまうぼくは、愛する女性を守るにはあまりにも柔なのではないかと、ちょっぴり悲しくなりました。

 高橋源一郎氏の『日本文学盛衰史』は、明治の日本文学界と現代を、文字通り時空を越えて交差させながら描いた、明治文学好きにはたまらない作品です(逆に言うと、明治文学が好きでない人にはこれは面白いのかしら?と疑問に思ってしまいます)。
 その中で、高橋源一郎本人が胃潰瘍を患って原宿の病院に入院した経緯を、夏目漱石の「修禅寺の大患」にならって「原宿の大患」と言うタイトルで、とても素晴らしいオマージュとして高橋氏本人の胃カメラの写真付きで書かれた章があります。
 夏目漱石さんも、高橋源一郎さんも、ぼくにとってはとても尊敬する作家でありますし、せっかくぼくも胃カメラで初撮影をしたのですから、ぜひとも拙胃も観てやって下さい。二人とは異なり、ぼくのは単なる胃炎ですが。

ぼくのい

 ところで、『日本文学盛衰史』に関しては、ご存知の方もいると思いますが、批評空間WebCritiqueでちょびっと論争になった、というかなりかけました。きっかけは高橋源一郎さんが書いた、スガ秀実さんの『『帝国』の文学』の書評なのですが、全体を通して非難されているのは、『日本文学盛衰史』とそれに対する高橋源一郎さんの態度です。ぼくは『『帝国』の文学』を読んでいないので、どちらが正しいと思うかを明言することはできませんが、明治文学をより深く楽しく読むには、『『帝国』の文学』は読んでおいたほうがよさそうです。今度図書館で借りてこよう。

にほんぶんだん

「超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日 曇り」
明治四十二年四月二十七日の石川啄木のローマ字日記
『日本文学盛衰史』より
02年08月21日(水)

 雑誌『BRUTUS』の今回の特集は、「日本美術?現代アート?」です。
 (今回の特集と言っても、この文章を書いている時点ではすでに次の号が出てしまっていますが)

 縄文時代から18世紀までの日本美術と、現代の日本美術それぞれの中から、イメージの共通する作品をひとつずつ抽出して対比させ、その類似性を探る!というこの特集、とても面白くてすっかり読み入ってしまいました。
 狩野山雪の『梅に遊禽図襖』と村上隆の『Hiropon』という無理のある組み合わせがあれば、三十三間堂の『千体千手観音像』とグルーヴィジョンズの『Chappie 33』というなるほどと感心してしまうような組み合わせもあり、牧谿の『老子図』はバカボンのパパに、雪村の『拾得図』はレレレのおじさんになっちまってます。
 日本美術には疎いぼくでも、楽しく読むことができました。

 それで思い出したのが雑誌『太陽』1992年2月号の「仏像は今を生きているか」という特集で、日本の古典美術作品と他の美術作品を類似点という観点から比較するという点では今回の『BRUTUS』と同様なのですが、異なるのは扱う古典美術がすべて仏像であるという点と、対比させる作品が日本の現代美術のみならず、古今東西和洋問わず、ありとあらゆる芸術作品、さらには芸術作品でないものからも選ばれているという点です。
 たとえば、奈良の東大寺の五劫思惟阿弥陀像には1930年代のハリウッド・女優のヘアスタイルを、京都の神童寺の愛染明王には、ラファエロの描いたキューピットを、『BRUTUS』でも扱われていた西往寺の宝誌和尚像は映画『トータルリコール』を、禅林寺の見返り阿弥陀像には切手『見返り美人』を引合にだしています。
 さらにぼくが感動したのは、女型の仏像、伎芸天像や吉祥天像など十七体の仏像に対して、それらの仏像にイメージする「貝殻」を引合に出して紹介していたページです。ぼくの大好きな秋篠寺の伎芸天像には「コガネタカラ」を、阿修羅像には「ハリナガリンボウ」を、などなど。仏像のイメージが明確になると同時に、貝殻の美しさに初めて気付きました。
 とても良い特集でした。まじでー。

あしゅらー

 仏像は好きだけど日本美術には疎いぼくには、今回の『BRUTUS』はとてもお勉強になりました。センキュー。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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