02年06月24日(月)
毎年恒例の、男三人登山旅行の季節になって参りました。
去年は北アルプスの燕岳を制覇しましたが、今年はどこに行きましょう。

今年は、僕たちの下山を、下で温泉に浸かって待っている人たちがいるようなので、山岳温泉が近くにある山がよろしかろうと思います。

■日本百名山と山岳温泉
■Mountain Web

前回は酒ばかり持っていって、肝心のものを全部忘れていってしまったので、今度こそは携帯用のストーブを持っていって、山の頂上でコーヒーを飲みたい。

去年、僕たちがはあはあ言いながらどうにか登りきった燕岳ですが、頂上付近で知りあったおばさんは、あちらこちらの山をひとりで登っているということで、じつに手慣れた感じですいすいと山を登り、落ちたら死にますよあなた、というような場所で余裕でピースをして記念撮影をしていました。
見た感じ小さくてかわいらしいただのおばさんなのに、歩き出すとどんどんと距離を離され、気付けば影も形も見えなくなっていました。
あれは多分山の神様で、僕たちにもっと山を登りなさい、山を楽しみなさい、山は素晴らしいものですよと教えてくれたのだと思います。

去年登った山。
山
矢印の先には内倉君。
02年06月23日(日)
Palmにも飽きてきたので、CLIEに買い替えようかと思いながら、そのPalmで幸田露伴の「些細なやうで重大な事」を読んでいたところ、いたく感動しそうろう。

露伴さんは、人間には「事に処する」「物に接する」の二つの仕草があって、「物に接する」ということがきちんとできないことには、巧く「事に処する」ことなど出来ないとおっしゃります。

物をその有りように従って扱うことは当然のこととして、その心がけは「何処までもその物を愛し、重んじ、その物だけの理や、強さや、必要さを尽くさせるのが正当である。
すなわちその心は孔子が言うところの「仁」である、と申しております。

「仁」とは一体どういうことなのか、それを説明できるほどぼくは徳を積んではいませんが、保坂和志は「愛」というエッセイで以下のように書いています。

「愛」
 友人Kは言った。あなたはいま、さしあたり形になる目的を持ってしまったために、あなた自身がよく口にしていた「愛」を忘れてしまったんじゃないのか?
ゴッホが弟テオへあてた手紙に「君は何がこの牢獄を消滅させるか知っているか。それはすべての、深い、真面目な愛情なのだ。友人があること、兄弟があること、愛していること、これらのものこそその至上の力と、非常に強力な魔力で牢獄を開くのだ。だが、それらがない者は死の中に取り残されるのだ。しかし、共感が再生するところ、必ず生命もよみがえる」と書いてあったじゃないか。
 カール・ベームが「いままで大勢の観客や演奏家が私のモーツァルトを支持してくれました。それは私の演奏がモーツァルトへの愛に満ちているからだと思います。モーツァルトはロマンチックでも感傷的でもありません。彼の音楽は人間の情熱のすべてですが、決して感傷的ではない」と言ったときの「愛」や「情熱」のことだし、メルロ=ポンティが「音楽的ないし感覚的な緒理念は、まさにそれらが否定性ないし限定された不在であるが故に、われわれがそれを所有するのではなく、その緒理念がわれわれを所有するのである。ソナタを作ったり再生したりするのは、もはや演奏者ではない。彼は、自分がソナタに奉仕しているのを感じ、他の人たちは彼がソナタに奉仕しているのを感じるのであり、まさにソナタが彼を通して歌うのだ」と言ったときの「奉仕」のことで、ゴダールが「ヌーヴェル・バーグの力というものが生まれたのは、あるいはまた、ヌーヴェル・バーグがある時期のフランス映画を突き破ることができたのは、ただ単に、われわれ三、四人の者がお互いに映画について語り合っていたからです」と言ったときの「語り合い」を支えていたもののことだよ。
 心がそういう状態にあるときに感受する情報の量はたいしたものだ。美術館でクレーの絵の実物を見たときに、あなたが「動く!」と感じたものがカタログでは決してそうならないのも、実物と印刷物とで得られる情報の量に膨大な違いがあって、クレーがキャンバスに敷いた綿密な下地や筆のタッチによる凹凸まで印刷では再現できていないからだけれど、あなたがよく口にしていた「愛」があるかないかは、世界から感受しうる情報の量や密度や強度において、クレーの実物の絵と印刷物ほどの違いが生まれるものなんだよ。
 それからやっぱり、大変でもラカンを読むことを忘れないように。苦労して読むということは、読みながら自分の知識や経験を総動員することだから、ラカンの理論が理解できないにしても、きっと「愛」の状態と同じだけの情報の量を生み出すことにはなると思うよ。
(保坂和志「アウトブリード」『愛』より。)

ここでいう「愛」とは、まさしく露伴さんがいうところの「仁」なのではないでしょうか。
(これ、完全に無断引用でして、著作権的に相当やばいと思うのですけど、僕はこの文章が本当に好きで、出来るだけ多くの人に読んで欲しいので引用しちゃいました。愛ゆえの行為ということで。)

露伴さんは言います。
さういふ事は何でもない、些細の事であると思ふけれども大変な大切な事で、その当を得ると得ぬとは、その人の心の有様を語つてゐるものである、その人の事業の順当に行くか行かぬかを語つてゐるものである。
露伴さん、素敵です。
こんなおじいちゃんになりたい。
02年06月22日(土)
本番終了後、中島君と内倉君と駒場東大前から渋谷にまで歩く。

神泉で内倉君と別れて、中島とさらに渋谷まで歩く。
たまにはキャバレーとかエロイお店に行ってしまおうかという話になるが、お金もないし、テンションも低かったのでやめる。
中島君がおいしいお店を知っているというので、付いていくと、お店は潰れていてラーメン屋さんになっていた。
それではクジラ肉のお鍋を食べましょう、ということになり、東急の近くのお店に行くが、閉店間際のために断念。
おいしいちゃんこ鍋を食べたいね、と言いつつ、1時間ほど渋谷の町をぶらつくが、優柔不断な二人のため、一向にお店が決まらず、数件回った後に突然ダルに取り憑かれ、やむを得ず適当な和食の工夫料理屋に入る。
食べ物を適当に注文して、お酒を飲む。お酒はおいしいけど、食べ物がうんこほどまずい。びっくり。店構えも良いし、場所的にもとても良いところにあるのに、料理がうんこなんて。まさかうんこが出てくるとはおもわなかったので、二人ともしばし絶句。うんこならうんことメニューに書いて欲しかった。うんこ1000円とか。
頼んだものが悪かったのかと思って、店員さんにお勧めのものを聞くと、店員さんも困っている。お勧めのものがないらしい。ということは全部うんこなのですか。うんこのバリエーションなのですか。と聞きかけたとき、店員さんがようやく、オムレツがおいしいですよ、と教えてくれた。ここは工夫料理屋なのではないですか。オムレツって。家でつくれるじゃん。と思いつつ、オムレツを注文する。
運ばれてきたオムレツはオムレツというよりもオマレテという感じで、中島君が一目、なにこれ、と言っていました。
とりあえず、酒を飲み、適当に食べ、ぬらりひょんって妖怪の中で一番偉いから妖怪大戦争の時は司令官なんだよ、という話をする。
店を出たあと、たまにはエロイお店なんかに行ってしまおうかという話になるが、お金もないし、テンションも低かったのでやめる。

カプセルホテルに泊まって就寝。熱いし、うるさいしであまり眠れなかった。

朝、起床後、大浴場に入ろうかと思ったら、既にお湯が抜かれていた。
仕方がないので、顔を洗って歯を磨いてカプセルホテルを出る。
たまにはエロイお店なんかに行ってしまおうかという話になるが、お金もないし、テンションも低かったのでやめる。

中島君が、フレッシュネスバーガーが近くにあるから、そこで朝食をとろうというので後についていくと、改装中だった。
仕方がないので、近くのパン屋さん兼カフェで朝食を取る。
とてもさわやかなカップルがいて羨ましく思う。
ヨーロッパの中世って悪魔っぽくて怖いね、という話をする。

朝食をとって店を出て、渋谷からアゴラまで歩く。
ジョギング中にクーガー食べられてしまったカルフォルニア州のおばさんの話をする。

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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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