
02年05月14日(火)
親しい友人三人と一緒に、吉祥寺にある操さんの焼きそば屋さんに焼きそばを食べに行く。
食べている間はしゃべってはいけないので、黙々と手作り焼きそばを食べる。
すげーうまい。
その後スコールのような雨を避けて無印良品に入ったところ、春物の洋服が500円とか馬鹿みたいな値段で売っていたので、友人三人にコーディネイトしてもらい、購入。
勢いがついたので、そのまま丸井に突入。R.NewBoldで再び三人にコーディネイトしてもらって洋服を購入。
あまりの洋服のかわいらしさに、一年ぐらいローンにしてもいいかと思うぐらい金銭感覚が緩む。
■
自慢ではありませんが、ぼくは洋服というものに対してかなり無頓着でありまして、下手すると丸一年同じ洋服を着続けたりするのですが、良い洋服を着たいという気持ちは常に持ち合わせております。
特に七分丈のパンツはずっと欲しくてずっと欲しくて、ようやく買うことが出来ました。

これ、ぼくの足が短いのではなくて、七分丈なのよ。
あとこの靴。この靴のかわいらしさはほとんど罪でしょう。

もう、何度もみてもかわいくてかわいくて、しかもラバーソール並の厚底なので、履くと背が高くなるのです。
他にもとても素敵なシャツとか、靴下とか、たくさん買いました。
本当に、この洋服を汚す人間がいたらまじでぶっとばします。
まず回し蹴りで一発、倒れたところを踵落とし、最後に目つぶしぐらいします。
お付き合いして頂いた三名のお友達、本当にありがとうございました。
また半年後に、今度は冬服の買い物におつきあいの程よろしくお願いいたします。
食べている間はしゃべってはいけないので、黙々と手作り焼きそばを食べる。
すげーうまい。
その後スコールのような雨を避けて無印良品に入ったところ、春物の洋服が500円とか馬鹿みたいな値段で売っていたので、友人三人にコーディネイトしてもらい、購入。
勢いがついたので、そのまま丸井に突入。R.NewBoldで再び三人にコーディネイトしてもらって洋服を購入。
あまりの洋服のかわいらしさに、一年ぐらいローンにしてもいいかと思うぐらい金銭感覚が緩む。
自慢ではありませんが、ぼくは洋服というものに対してかなり無頓着でありまして、下手すると丸一年同じ洋服を着続けたりするのですが、良い洋服を着たいという気持ちは常に持ち合わせております。
特に七分丈のパンツはずっと欲しくてずっと欲しくて、ようやく買うことが出来ました。
あとこの靴。この靴のかわいらしさはほとんど罪でしょう。
もう、何度もみてもかわいくてかわいくて、しかもラバーソール並の厚底なので、履くと背が高くなるのです。
他にもとても素敵なシャツとか、靴下とか、たくさん買いました。
本当に、この洋服を汚す人間がいたらまじでぶっとばします。
まず回し蹴りで一発、倒れたところを踵落とし、最後に目つぶしぐらいします。
お付き合いして頂いた三名のお友達、本当にありがとうございました。
また半年後に、今度は冬服の買い物におつきあいの程よろしくお願いいたします。
02年05月13日(月)
02年05月12日(日)
(続き)
「縛られた巨人」という作品は熊楠の伝記として読むぶんにはとても面白かったのですけど、書き物として読むのにはいまいち物足りないというか、熊楠という人物を知るという目的以外では、それほど読みたいと思わせる作品ではありませんでした(まだ4/1程読み残っているのですけど)。
しかし、その中でなかなか面白かったのが、熊楠が帰国後に生活の拠点とした熊野に関する描写でして、(ぼくが熊野について何も知らなかったからかもしれませんが)熊野道や妙法山阿弥陀寺のくだりを読んでいたら、すっかり熊野に行きたくなってしまいました。
「ダルに取り憑かれる」とは、熊野道を歩いているときに突然に襲ってくる飢餓感のことで、米粒を二三粒食べれば直るのですが、そうしないと一歩も先に進めなくなり、昏倒してしまうそうです。
これは、熊野の無縁仏が人に取りついたのだ、と言われ続けてきて、熊楠も何度か経験しています。
しかし今では、妙法山阿弥陀寺までスカイラインで一気に登れるらしく、なんだか味も素っ気もなくなってしまいました。
「縛られた巨人」という作品は熊楠の伝記として読むぶんにはとても面白かったのですけど、書き物として読むのにはいまいち物足りないというか、熊楠という人物を知るという目的以外では、それほど読みたいと思わせる作品ではありませんでした(まだ4/1程読み残っているのですけど)。
しかし、その中でなかなか面白かったのが、熊楠が帰国後に生活の拠点とした熊野に関する描写でして、(ぼくが熊野について何も知らなかったからかもしれませんが)熊野道や妙法山阿弥陀寺のくだりを読んでいたら、すっかり熊野に行きたくなってしまいました。
亡者の熊野詣という事を伝へて、人死する時は幽魂かならず当山に参詣すといふ。いとあやしき事など眼前に見し人もありなんでも熊野にある法山阿弥陀寺というお寺では、昔は応照法師が焚身往生(焼身自殺)したり、ある禅師は捨身往生(バンジージャンプ)してぶらぶらつるされたまま死んじまったりと、往生を遂げようとする方々はみな死んで事を為そうとしたようで、熊楠が訪れたときも、ただならぬ気配が漂っていたようです。
もともと熊野三山の信仰は、古代人が大自然に抱いた素朴な畏怖心から発している。那智の”滝”、本宮の”水”、新宮の”岩倉”。熊楠はその熊野の遥かな”時間”の径に分け入り、おのれもまた一個の古代人に化って、かれらが祖霊が棲むとみた山精や飛滝や巨岩を凝視めたいと思う。そうでなければ、荒々しい熊野大山塊の大自然を神とみた古代人の畏怖も、山塊の奥処から発した水が、天空に巨大な”白い神”となって出現する大滝の神秘も素直に伝わってこないであろう。その昔、熊野路を歩いていると、人々は「ダルに取り憑かれる」という飢餓状態になることがあったそうです。
「ダルに取り憑かれる」とは、熊野道を歩いているときに突然に襲ってくる飢餓感のことで、米粒を二三粒食べれば直るのですが、そうしないと一歩も先に進めなくなり、昏倒してしまうそうです。
これは、熊野の無縁仏が人に取りついたのだ、と言われ続けてきて、熊楠も何度か経験しています。
しかし今では、妙法山阿弥陀寺までスカイラインで一気に登れるらしく、なんだか味も素っ気もなくなってしまいました。