

保坂和志氏の最新作『書きあぐねている人のための小説入門』を買おうか買うまいか迷っていたのですが、本屋さんでぱらぱらとめくって立ち読みをしたところ、「小説の書き方」のような技術的な小説作法ではなくて、「小説を書くということはそもそもどういうことなのか」という内容のようなので、購入。
保坂氏のデビュー作『プレーンソング』に言及して、内田百けんさんのことが書いてあったので、ちょっと引用します。なるほどと納得。
内田百けんは小説も随筆のような感じだが、随筆もまた小説のような趣き(面白み)がある。随筆の名手と言われているある人から直接聞いた話しによると(個人的な会話だったので、名前は伏せておきます)、随筆やコラムをたくさん書かなければならなかった時期に、お手本として漱石、鴎外、荷風などいろいろな作家を真似てみたことがあったけれど、どれも型が決まっていて、すぐにマンネリに陥ってしまい、自分でも書いていて退屈してしまった。しかし、百けんだけは型らしいものがなく、自由で、いくら真似てもマンネリ化することがなかったと言っているくらいで、内田百けんの文章は何とも説明しがたい魅力に富んでいる。『阿房列車』の面白さは、電車に乗って窓から外を眺めているような、そのまま電車に乗っているような面白さだった。ついでに言えば、外の景色を眺める面白さに、同行者とくだらない話をしたり、駅弁を買って食べる楽しみも織り込まれている。
私のデビュー作『プレーンソング』の直接のヒントは、『阿房列車』のこの雰囲気だった。
夜、鍋島さんと戌井さんと戌井さんのいとこさんと御鮨を食べに。とても久しぶりの御鮨、がつがつ食べてしまいました。とても楽しかったです。いつもいつも、ごちそうさまです。

『ガルガンチュワ物語』などの翻訳や研究で知られるフランス文学者渡辺一夫氏の『狂気について
』という評論集を読書、「買書地獄」というエッセイに強く共感いたしました。
学生時代、本を買い漁っていた渡辺さんは、ご両親から「万巻の書を積んでも読まざれば持たざるに等しい」という福沢諭吉の言葉を元に警告をされます。それに対して渡辺さんは「本はあれば読むし、なければ読まぬものである。また、座右にあればいつか必ず読む機会があるはずだし、書物は辞典のようにして用うべきもである」などと弁解したそうです。学校を卒業して職につくと、量より質とばかりに買書も少し落ち着きますが、それでも外国の古本屋さんに注文した本が届いたときなどは相当に嬉しかったのでしょう、新婚の奥さんに、新著の本を愛撫するときが一番楽しそうだと言われたとか。
現在でも金があまりそうになると、いや、あまったことにして、本屋をうろつき廻り、財布が空になるまで買い込むことが時々ある。欲しい本を見附けると喉がぐうぐう鳴る。生理的に発展してきたのである。金がなくてどうしても買えぬ時には、世のなかが暗くなってくる。そして、一所懸命に、その本を買わなくてもよい理由を考え出そうと努めるのが常である。「去年の雪は今いずこ」である。子供のパンツと靴下の代が、図らずも黄表紙赤表紙に化けることがある。えいっ!と思うのである。妻—いや女房は黙然としている。向こうでもえいっ!と思うのであろう。僕も再びえいっ!と思う。別に喧嘩もしない。
「欲しい本を見附けると喉がぐうぐう鳴る」という感じ、すごくよくわかるなあ。
面倒臭いので、後半は丸ごと引用します。本当は全文を引用したいぐらいなのですが。
こうした買書態度は、金と暇(生命)とが十分にある限りは許されるかもしれないが、いかなる人間もあらゆる意味で有限であるから、この態度は極めて非現実的であり、僕の正義は所詮空論となり、僕は寂然とする。
現実性のない正義の空論は、現実の犯す罪過に対する反省の糧になり、人類の進歩には欠くべからざるものでもある。僕の正論もそうなので、できたら我々は、本屋に通って本をたくさん買い込むべきものなのである。だが実際は、「若い時にはよく本を買ったものじゃ」という老人の数のほうが、死ぬまで本を買い続ける人の数よりもはるかに多く、後者は大概の場合、狂人扱い神経衰弱扱いにされるものである。だが前者は、その「若い頃」にノスタルジヤを感じているはずであろうし、本が買えずに読めなくなったのが口惜しくてたまらぬのである。だから、僕の正義の空論は以前として正しいのである。
ならべられた本は黙々としている。しかし、一冊一冊に収められた作者の小宇宙は、その深浅濃淡はあろうが、驚くほど雑多である。心の耳を澄ますと、轟々たる歓喜憤怒怨恨悲哀・・・の声が聞こえてくる。脅威される。なぜ人々はあんなに本を書くのだろうか?二つの物体は、空間中の一つの位置を絶対に共有できぬこと、人間は同時に二つの物を鮮明に凝視できぬこと、人間は鏡の映像を藉りねば自分の背中の黒子を見得ぬこと、こうした人間の不自由さからくるあがきが、本を書かしめるのかもしれないし、このあがきが人間をして本を求めしめるのかもしれない。
本とは一体何だ?—そして、また本が買いたくなってきた。
学生の頃、フランス文学の先生に『ガルガンチュワ物語』や『パンタグリュエル物語』のあらすじを聞いて、そんな面白い話がフランスの古典にあったのか!と驚きました。それ以来、読もう読もうと思いつつ、いまだ頁を開かず。いい機会だからちょっくら買いに行ってきます。

どこかに遊びに行こうと思っていたのですが、外に出たらとても寒かったので、お茶が飲めるところで夜まで読書をして過ごしました。日々は安寧、心がたゆたっております。
先月観た『戦場のフォトグラファー』のジェームズ・ナクトウェイ氏の戦争写真に関する発言がずーっと引っ掛かっていて、別の戦争カメラマンの本を読んだり映画を観てみたいのですが、何を観たら良いのか、何を読んだら良いのかさっぱり分からず、とりあえず以前に一度観たことのある一ノ瀬泰三をモデルにした『地雷を踏んだらサヨウナラ』を観てみました。しかし、役者はともかく映画としてはひどすぎてなんの参考にもならず、一ノ瀬泰三本人のよる手記を読んでみようと思って調べたところ、今月末から一ノ瀬泰のドキュメンタリー映画『TAIZO』が上映されるという情報を発見。『地雷を踏んだらサヨウナラ』のチームオクヤマが製作というのが多少気にはなりますが、要チェック。
そういえば、スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』、まだ読んでないや。読まなくちゃ。