

夕方に、お仕事を終えて帰宅しようとしたときのこと。日が短くなってすっかり暗くなった秋の夕方の帰り道、ふと見ると路傍に猫がうずくまっている。にゃあ、と話しかけると、猫はこちらを凝視、どうやら野良らしく、近づくとすごい勢いで逃げ出してしまった。野良は兎に角に用心が深い、逃げ出すのも詮無いことと思い、駅に向かって歩き出す、しばらく歩くと後ろから、にゃあという声。振り向くと、先程の猫が道の真ん中に座ってこちらを見ている。にゃあ、と応えると、向こうもにゃあ、と返事をする。それではと思い、ゆっくりゆっくり、驚かさないように近づく。にゃあ、と言うと向こうもにゃあ、と答える。あと三歩というところ、突然に猫はダッシュで逃げ出す。なんだよう、と思い、電車にも遅れてしまうのでもう行かなくてはと、猫に未練はあるものの再び歩き出す。次の電車に乗り遅れると、一度で済む乗り換えを二度しなくてはならないのです。少し急ぎ足で、しかししばらく歩くと後ろから再び、にゃあという声。振り向くと、先程の猫が道の真ん中に座ってこちらを見ている。にゃあ、と応えると、向こうは如何にも親しげな感じで目を細めて、にゃあ、と返事をする。念のためにもう一度にゃあ、と言うと、向こうは道路に体を投げ出すようにどさっと横になり、目を細めて、にゃあ、と応える。それではと、驚かさないようにそろりそろりと近づきます。あと二歩というところ、突然に猫はダッシュで逃げ出す。そのようなことをその後に三度ほど繰り返し、結局この猫がぼくに心を許すことはなく、電車にも乗り遅れました。けれども、このようなことがあると一日がとても良い日であったように思えるので、許してあげる。
来世というものがあるかどうか、僕未だこれを知らない。仮にもそれがあるならば、そこにもこの地球のように猫がいてくれなくては困ると思うのである。(大佛次郎)

古本屋さんで西田幾多郎『現代に於ける理想主義の哲學』を購入。奥付を見ると大正十三年七月とあり、八十年の時を経て紙質がかなりいい感じ。当然、字体は旧字体で、西田さんの書は新仮名遣いでも難しいのに、これを読んでぼくは一体どこまで理解できることやら。しかも本の雰囲気がなにげに厳かなので、線を引くこともメモを書き込むこともはばかれて、どうにも読書がはかどる様子ではない。本にいろいろと書き込まないと理解が進まない身としては、このような威厳のある書の風体は困ります。でも読みますよ、この書に書かれていることは、その後の西田さんの哲学を理解するのに重要なことばかりですから、心を鬼にして書き込みます、線を引きます、折り曲げます、ほうり投げます。そうしないと読めないのですから、読まないよりは書も喜ぶでしょう。
夜、沖縄料理を食べに。泡盛を飲みながら、沖縄料理に舌鼓。死ぬほど美味しいコロッケをいただきました。ここのところ、美味しいものを全然食べていなかったので、久しぶりに食事を堪能。

雑誌「太陽」の昔の号で、信濃路の双体道祖神のことを読む。とくに安曇野は道祖神の宝庫らしい。安曇野といえば、先日読んだ山の本で紹介されていた有明山のある土地。山頂に鳥居がある有明山は、それほど有名な山ではないが、静寂でひとり登山を楽しむことができそうな山だった。日帰りで行くことができるので、来年の夏ぐらいに、一日目は有明山に登り、山路を歩きながら兎角に人の世は住みにくいなどと考え、夜は安曇野の温泉で一泊、次の日は道祖神を求めてぶらりぶらりと散策するのも良いなあと思う。「太陽」に掲載されている写真の風景は今から二十五年前のものなので、この雰囲気で旅情を期待するわけにはいかないが、とにかく、安曇野という土地を覚えておこう。