

早くも今月最後の日です。人を待たない光陰には、どんどんと先に行ってもらいましょう。
夜、自宅でお茶を飲みながらゆっくり読書。大好きな和辻哲郎の『古寺巡礼』と、堀辰雄の『大和路
』を読み返してみました。まだ若い頃にこれらの随筆を読んだ時は、もう少し年を経れば彼らのようにものに接し、ものを感じることができるものだと思っていたけれど、数年を経て未だぼくの精神は熟さず、仏像に接して思うのは、乳首がでかいとかそのようなことばかり。数年前には、和辻さんの「不肖の子は絶えず生活をフラフラさせて、わき道ばかりにそれている。このごろは自分ながらその動揺に愛想がつきかかっている」なんていう一文を読んで、こんな人でも同じような悩みを抱えていたのだと安心したりもしたけれど、今では安心どころか心配すらしない始末、よくありません。とりあえずマラソンをして汗をかきましょう。
来月もよろしくお願いします。

すっかり日が落ちるのが早くなりました。耳を澄ませばスイリリリンスイリリリンと鈴虫が鳴いております。
古本屋さんの100円コーナーで蓮實重彦著『凡庸さについてお話させていただきます』を購入。『ボヴァリー夫人』のフローベール氏の友人であり、『悪の華』のボードレールから詩を捧げられているというだけで歴史に残っているマクシム・デュ・カンという、蓮實氏曰く、「冴えたところのまったくない、たぶん駄目な、また可愛いところはあったのかもしれないけれど、およそ、突出する部分というもののない凡庸な人」をとりあげて、蓮實先生が「凡庸さ」について語ります。ここで言う凡庸とは、才能の対極としての凡庸ではなく(蓮實氏によれば、そのような紋切型の構図そのものが凡庸ということ)、「愚鈍さ」に対立する関係としての「凡庸さ」のことであり、「愚鈍さ」とは「ものの感じられることのできないような何かまがまがしいもの、ただそこにあることでわれわれを脅えさせるようなもの」のこと。良く分からないでしょう。ぼくも良く分かっていませんけれど、ようするに、マクシム・デュ・カンさんは、なんの禍々しさもなく、そこにいてもじぇーんじぇん恐くもなければ気にもならない人物、ということでしょうか。
このマクシム・デュ・カンさん、若い頃はフローベルの親友で、一緒にエジプト旅行へ行き、その旅行を元に当時としては画期的な写真付きの旅行記を出版しています。帰国後は『パリ評論』という雑誌の編集長になり、そこに自作の小説を発表しますが、『ボヴァリー夫人』を掲載したことが原因で雑誌は廃刊、フローベールとの仲も冷却化します。その後、サン・シモンの思想に触発された形で産業を賛歌する詩を発表したり、文芸批評や美術評論なども行い、その過程でフランスを駄目にした象徴としてアカデミー・フランセーズを徹底的に非難しますが、のちにその非難したはずのアカデミー・フランセーズの会員となり、さらに議長までつとめています。彼はその人生において、旅行記から小説、詩、文芸評論、美術評論、ルポタージュ、さらに写真まで発表しているのですが、現在、それらの彼の作品群は、歴史的資料としての価値以外には全く評価されず、図書館の資料室の奥の奥に眠っております(数年前、日本で「凡庸な人」としてのマクシム・デュ・カン展というものが行われたので、その時に持ち出されているかもしれませんが)。
このマクシム・デュ・カンさんに関しては、蓮實重彦氏による『凡庸な芸術家の肖像』という別の著作でその生涯を詳しく読むことができます。蓮實氏が「凡庸さ」についてどのようなことを言いたいのか、ぼくにはいまいち良く分からないのですが、「才能がある」ということが、実際にどのようなことを差しているのか、そして「いったい何故、かくも多くの凡庸な人間たちが才能について語らなければいけないか」ということに関しては、少し深く考える必要があるかもしれません。ちなみに、「才能」とか「センス」とかいう言葉は馬鹿っぽくて大嫌いです。
夜、京都の方と電話でお話、関西の人間は性欲が強いので三十過ぎても一日二回以上はオナニーをするのでありますということを、一時間以上にわたって伺いました。

雨上がりの朝。空気が気持ちいい。
学生の頃は良く読んでいた村上龍の小説ですが、ふと気付けばもう何年も新作を読んでいません。それ以前の作品の中で特に好きだったのは、『69』と『昭和歌謡大全集
』の二作なのですが、その両作品とも映画化が決定していたのですね。全然知りませんでした。特に『昭和歌謡大全集』はもうすぐ公開とのこと、ちょっとだけ観てみたい。確か最後、核兵器かなんかで町を吹っ飛ばすんじゃありませんでしたっけ?
カール・セーガン著『人はなぜエセ科学に騙されるのか』の上巻読了、めちゃくちゃおもしろい。簡単に言えば、『TRICK』の上田教授の『どんとこい超常現象』みたいなもので、巷間に流布するいわゆる「宇宙人による誘拐、交霊術、テレパシー、超能力」などの似非科学を、さまざま実例を挙げて徹底的に検証します。似非科学は厳密に検証されることを好みませんから、これはたまったものではありませんよ。どうする似非科学。どうする超常現象。
セーガン氏が書の中でなんども強調するのは、人間がいかに間違いやすい生き物であるか、根拠も証拠もないでたらめを、実証も論証も検証もせずに信じ込み、歴史的にどれだけの過ちを犯してきたかということで、あらゆる似非科学はほとんどが人々の勘違いであるか、あるいはそれによって利益を得ることのできる一部の人々の謀略によって生み出されたものであると言います。ここまで言っていいのかしらと思うような過激な意見も多々あり、読んでいて気持ち良いやらはらはらするやら。
セーガン氏の主張のすべてを無条件に肯定するつもりはありませんが、それでも強く共感します。人が何か(宇宙人による誘拐、心霊現象、UMA、超能力、etc)を信じるのに、根拠なんて必要ありません。必要なのは、それを信じたいか信じたくないかという「気持ち」だけです(それは時には「霊感」などという便利な言葉で表現されます)。科学は反証されることによって展開し、超常現象と呼ばれる似非科学は反証されないことによって持続します。下巻を読むのがとても楽しみ。