

さて、今月も月末となりまして、例のごとく金欠です。お給料日まで少し節約の生活を心がけましょうと思いながらも、古本屋さんで高坂正顕著『西田幾多郎と和辻哲郎(絶版)』を購入しました。西田幾多郎、明治3(1870)年生まれ。和辻哲郎、明治22(1889)年生まれ。明治を代表する哲学者(『善の研究』明治44年)と、大正を代表する思想家(『古寺巡礼
』大正8年)の関係を、明治33年(1900)年生まれの高坂正顕が明治と大正という時代を比較しつつ描きます。
高坂氏は和辻氏の個人主義を象徴するものとして、以下の言葉を挙げています(この言葉が自己の信念を持っていないことを意味するのではない、と断ってもいます)。
私は私の信条を持っていない。信仰個条の意味でも、また政治的立場の意味でも、総じて信条なるものを奉じていない。たといそれが絶大な権威によってであるにしても、他から信条を課せられるということは、私は欲しない。
京都学派に対する興味は増すばかり。一緒に、西田幾多郎に関する論文が収録されている同氏の著作集第八巻と、雑誌「太陽」の特集「禅のかたち」も購入。買いに読みが追いつかず。

SWISS WATERは毎日飲むには少々高価なので、少し安めのULIVETOにしてみました。走った後に飲むと、なんでもおいしいのよね。
岩波から出ている『日本近代思想案内』を購入。最初の数章を読む、面白い。明治の初頭、西洋の文化を積極的に取り込もうとした当時の啓蒙思想家たちが洋書に向かったとき、「個」という概念がなかった彼らの前に現れた「individual」や「individuality」という言葉は、独特の新鮮さと戸惑いを与えたようで、最初は「分タレヌ事」と訳され、西周が「人々」「個々人々」、中村正直が「独自一箇」「各自一己」「人民各箇」、福沢諭吉が「独一個人の気象」と翻訳し、少しずつその概念を明確にしていったそうです。ううむ、これはめちゃ興味があるぞ。
異なる概念と異なる言語を有する他者・他民族同士の間での翻訳という問題については以前から興味があって、それはこの間お亡くなりになったドナルド・デヴィドソンのradical interpretationなんかを勉強したほうが良いのかもしれませんが、とりあえず、あらゆる概念を西洋と異にする開国直後の日本という文化が、西洋の言語と概念をどのように翻訳し、解釈し、咀嚼し、導入してきたのか、それを知りたいと思い、丸山真男・加藤周一共著『
夜、今週の土曜日の武蔵大学の学園祭で簡単な演目を行うというので、稽古場へ。その後、居酒屋へ。戌井さんは『8人の女』を観て眠り、内倉君は『まぼろし』がとてもつまらなかったらしく、本当にこの野郎どもとは趣味が合わないことをあらためて実感、仕方がないのでクンニの話などをしたところ、話が合いまくり、さらにうんこの話をしたところ、大盛りあがりましたので、めでたしめでたし。
帰宅後、『X-MEN』と『X-MEN2』を連続で観賞。ううむ、まさしく猫目小僧だ。このような映画を、現在のアメリカの子どもたちは、どのような気持ちで観ているのだろう。

昼過ぎ起床、本日は何も予定がないので読書を三昧いたしましょう。
先にも書きましたが、ここのところずっと西田幾多郎の『善の研究』を一日に数ページという遅読しておりまして、併せて西田哲学に関連する書籍などにも目を通し、理解の助けにしようと思っているのですが、西田哲学を知ろうとすれば京都学派を無視するわけには行かず、調べるうちに田辺哲学というものにも興味がわき、田辺元という哲学者に関連する書籍などを探すも、本人の全集すらなかなか見つからない始末。それで思い出したのが、以前に読んだ保坂和志氏と中沢新一氏の対談で、中沢氏がちょうど田辺哲学を論じた書籍を上梓したばかりで、保坂氏の哲学と田辺哲学を比較していたように記憶していたので、調べてみるとやはり中沢新一著『フィロソフィア・ヤポニカ
』という田辺哲学と西田哲学を扱った書籍がありました。即買い。
フランソワ・オゾン監督の『まぼろし』を観ました。主人公は、シャーロット・ランプリング演じる大学教授のマリー。冒頭、とても印象的な海のシーン。夫婦で訪れた先の海岸で、夫は突然に彼の肉体と共にその存在を消してしまう。その後に描かれるのはマリーのあまりにも危うい精神の状態、存在を失ってしまった夫のまぼろしを相手に、彼女は現実を忘れようとします。
人が愛する人を失う場合、例えばそれが不慮の事故や病気によって亡くなったのであれば、埋葬という儀式によってその現実を理解し、乗り越えることができるかもしれないし、あるいは別れによって相手が自分の前から姿を消したのであれば、時間が忘れさせてくれるかもしれない(もちろんそれはとてつもなく長く、とてつもなく辛い時間になるだろうけれど)し、あるいはまた別の恋人を作ることによって忘れることができるかもしれません。『まぼろし』の主人公であるマリーは、この両方の可能性を抱いたまま、突然愛する人が自分の前から消えてしまったという現実だけが残った状態で、ひとりで生活をすることを強いられます。昨日までは一緒にいて、明日からも一緒にいるはずだった夫の存在が、ある日を境に突然消えてしまう。彼女にとっての不幸は、夫がいなくなったことでも、夫を喪失したことでもなく、夫の死体が存在しないこと、あるいは夫が失踪したという証拠がないこと。それは同時に救いなのかもしれないけれど、彼女は夫の記憶を思い出にすることも、あるいは忘れることもできないまま、ただまぼろしと会話し、まぼろしと共に生きる。
印象的なシーンはあまりにもたくさんありすぎて、そのすべてを挙げることはできませんが、特に好きなのは、マリーが大学の講義で朗読をするシーン。彼女が読むのは、ヴァージニア・ウルフの『波』。シャーロット・ランプリングの美しい朗読が、とても哀しい。(知られていることですが、ウルフは1941年に入水自殺をしています)
この監督の作品はまだ二作(『8人の女たち』)しかみていないし、その二作とも作風が異なるのでなんともいえないけれど、『まぼろし』のDVDに特典として収録されていた短編(これがまた良かった)なども併せてを観て思ったのは、ぼくはこの人の作品の映像の質感(『まぼろし』は前半は35ミリ、後半がスーパー16で撮られているらしい)がとても好きで、風景の切り取り方も、登場人物のセリフも動きも、すべてが完ぺきに近いほどにぼくの好みにフィットしているということで、この監督の作品を他にも観てみたいです。