
いつものように帰宅しようとしたところ、電車が止まっておりました。駅の構内に人が溢れ、駅員さんはなぜか嬉しそうに「復旧の見込みはたっておりませ〜ん」と叫んでいて、こういうときに必ず現れる駅員さんにくってかかるおやじなんかもいて、ほとんどお祭り状態でした。なんでも、線路が閉まったのでトラックの運転手さんが車を止めてジュースを買いにいったところ、トラックが動き出して線路に入ってしまい、電車と接触したとのこと。別の電車で遠回りして帰るのも面倒なので、『座頭市』をもう一度観て時間潰し。
それにしても予想に違わず見事なぐらい賛否両論のこの北野版『座頭市』ですが、賛はともかくとして否で納得がいかないのが、勝新太郎の『座頭市』と比べてあーだこーだという輩で、「この市とあの市とが同じ名前であることなど、ほんの偶然にすぎない(蓮實重彦)」のですから、映画がつまらないと思うのは個人の趣味の問題ですから仕方がありませんが、無意味な比較は的外れの批判にしかなりません。さらに、ここ数作の北野映画に登場するジャポニスムに関して、海外への賞狙いを意図しているという批判もありますが、たとえそうだとしてもそれの何がいけないのかよく分からないし、作品としてジャポニスムが成立していないのならばそのように批判すればよいわけで、要するに作品としての評価ではなく、感情的な評価が多すぎる。だったらもっと単純に面白い、つまらないで評したほうがよほど的確な評であるように思います。
それで二度観た感想ですが、自分で他の作品との比較は意味がないと書いておきながらなんですが、先日『あの夏、いちばん静かな海』を観賞しまして、オープニングから例の北野映画独特の静謐なシーンに感動し、『座頭市』のあまりにも映画的に流暢なオープニングを観ていたら、もう二度と『ソナチネ』のような映画は観れないのかなあと悲しくなりました。それでももう一度ぐらい観てしまいそうです、この北野版『座頭市』。
夜の九時を過ぎても一向に電車が復旧する見込みはたたず、仕方がないのでいつもであれば十五分のところを一時間かけて遠回りをして帰宅。ぐったり。
ポップコーンとジンジャーエールのない映画鑑賞なんて、めがねのない勉像君のようなものです。本日も、ほとんど客の入っていない近所の映画館で、ポップコーンとジンジャーエールの超特大サイズを注文しておでぶコースまっしぐら、がつがつぐびぐびしながら、アル・パチーノ主演・アンドリュー・ニコル監督の話題のCG美女映画『S1MONE シモーヌ』を観ました。じぇんじぇん期待していなかったのですが、面白かった。
この種の映画に「ありえなーい、にゃにゃにゃにゃーい」などと突っ込みを入れるような無粋な人間にはなりたくないものです。中途半端に下調べをして、専門家でもそれなりに納得できるように作られた映画でも、うんこみたいなものが多いし、逆にこれぐらい開き直られると、重箱の隅をつつく気にもなれずに映画に集中することができます。なんと言っても映画の目的は、物語と現実の世界の常識を符合させることではないのですから。
個人的に一番面白かったのは、劇中で上映されるタランスキー(アル・パチーノ)の映画で、これだけは声を出して笑ってしまいました。はは。
スパイク・リーの『ゲット・オン・ザ・バス』を観ました。めちゃおもしろかった。鉄割の誰だかが、スパイク・リーの映画でつまらない作品を観たことがないとおっしゃっていましたが、まったくもって同感です。そんな彼の作品の中でも、個人的に1,2を争うぐらいおもしろかった。
物語は単純で、「百万人の大行進」に参加する黒人たちが乗り込んだバスが舞台のロード・ムービー。バスに乗り込んだ乗客たちは、見事なぐらいに多種多様、手錠でつながれた親子や、別れ話真っ最中のゲイカップル、やたらと政府の陰謀説を主張するもの、他人に対して非常に差別的なものなどなど。皆それぞれに参加した背景が異なり、ほとんど絶え間なく口論を繰り返すのですが、時には一緒に歌を歌ったり踊ったりと、黒人としてのアイデンティティを共有していることがわかる場面も多く登場します。
映画を観ていて思ったのですが、アフリカ系アメリカ人の世代の間に、断絶というものはあるのでしょうか。白人にとっての世代の断絶、いわゆるジェネレーション・ギャップというものは、例えば二十年代の「失われた世代」や、八十年代の「ジェネレーションX」などという造語からも理解することができるのですが、アフリカ系アメリカ人におけるそのような世代の断絶を表現する言葉をぼくは知りません。同じスパイク・リーの『ラストゲーム』は、父親と息子の親子の葛藤を描いた作品ですが、そこでも描かれているのは、父親を許すことのできない息子と、その息子に自分の釈放のチャンスを握られている父親という、あくまでも「親子の葛藤」であり、父親と息子の間の、お互いの理解を越えた断絶ではありません。
うーん、具体的な例が思いつかないので話が曖昧になってしまいますが、彼らの間に世代の断絶を感じることがないのは、彼らの背負っている過去によるものなのかな、と思いました。例えば、マニング・マラブルは次のように述べています。
アフリカ系アメリカ人のアイデンティティは人種をはるかに越えている。それはアフリカ系アメリカ人の伝統、儀式、価値、信仰体系でもある。われわれの文化、歴史、文学、われわれの人種意識と、人種差別にたいする抵抗の遺産にたいする誇りなのである。
「アフリカ系アメリカ人のアイデンティティは人種をはるかに越えている」は、「アフリカ系アメリカ人のアイデンティティは世代をはるかに越えている」と読み変えても、不都合はないように思います。とはいえ、彼らの間に(いわゆるジェネレーションX的な)世代の断絶がないのではないか、というのはあくまでもぼくの印象なので、実際のところどうなのかはわかりませんが。
兎に角も、『ゲット・オン・ザ・バス』は最高に面白い映画でした。個人的には『マルコムX』よりも面白かった。
公民権運動がにたらしたものはふたつ
黒人のわずかな権利と
白人が恩着せがましく語る権利だ