
起床。朝食にチーズをのせたトーストとバナナ。最近、フルーツをたくさん食べているせいか、お通じとてもよろしい。
バースが『尽きの文学』で言及しているボルヘスの『ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール』が読みたくなったので、本棚をあさって『伝奇集』を探したけれど見つからない。仕方がないので図書館に行ったところ、なんとお休みではありませんか。しかも今週いっぱいはお休みらしい。悲しい。
六十年代のアメリカ文学のことを調べていて、マルカム・ブラッドベリの『現代アメリカ小説—1945年から現代まで』などを読んでいるのだけど、六十年代と今の社会状況って、あまり変わらないというかむしろ似ているように思う。六十年代に崩壊したはずのパクス・アメリカーナは九十年代を通して見事に復活しているし、世界中の多文化主義に反するかのようにアメリカだけがグローバリズムを提唱し続けている。六十年代のポストモダン小説の発生の背後に、六十年代のケネディの暗殺というスイッチがあったとすれば、現代にもそれに匹敵するほどのアメリカ国民の価値観を揺さぶる事件が起こっている。六十年代と現在の文学的状況で決定的に異なるのは、作家のほとんどが実験的な文学作品の退屈さに気付いているという点で、価値観の変革時に反動として誕生する実験的な作品は、ある一部の傑作を除いて、ほとんどの作品が自己満足的なうんこになってしまうということを彼らは経験的に知っている。もちろん彼らも、それらの実験的な作品が次の世代の新しい文学が誕生する布石になっていることは否定しないだろうけれど。
夜、『アート・オブ・エロス』シリーズの『ホテルパラダイス』を観る。とても面白かった。『ホテル・パラダイス』はニコラス・ローグ監督の作品。明日に結婚式を控えた花嫁さんが、朝起きたらホテルの一室に男と寝ていてやっべーという話。男のロマンチックな話術に、花嫁がどんどんおちていく。『ブルーン・ブルーン・ブルーン』はメルヴィン・ヴァン・ピーブルズが監督の黒人映画。ブードゥーの呪術師を助けたもてない君、そのお礼に女性に変身するバイクをもらう。あまりにもださすぎて面白かった。『エレファント・ネバー・フォゲット』の監督はデトレフ・バック。ドイツ映画。事故った夫人を助けた小人病の象使いが、そのお礼に夫人にセックスを要求する。この三本の中では、これが一番良かった。一番えろかったし。
あまりの暑さと日差しで起床。朝食に、今年になって初めての白桃。ふとんを干して、部屋のお掃除。
午後、本屋さんを徘徊。京極夏彦の『陰摩羅鬼の瑕』を購入。こりゃまた分厚いなあ。今月号のスタジオボイスも一緒に購入。お茶を飲めるところへ行って、読書。『陰摩羅鬼の瑕』は読み始めたら止まらなくなりそうなので、最初のほうだけ読んでやめる。高橋源一郎が京極堂の小説をドラクエに喩えていたけれど、言い得て妙。
今月号のスタジオボイスの特集は「アジアの現在 - 『サイアム的』パワーの時代へ」。サイアムとは、バンコクにある歓楽街の名前。東南アジアを中心に、現代のアジアのカルチャーを紹介している。映画はともかく、文学にしても音楽にしても芸術にしても、アジアの作品に関する知識は皆無に等しかったので、とても面白くて勉強になった。バンコクに行っても、いつもカオサンあたりをぶらぶらしているだけなので、このような新しい文化に接することはほとんどなかった。次に行くときはタイのサブカルチャーにふれることが出来るような場所にも行ってみよう。
夜、『アート・オブ・エロス監督たちの晩餐』を観る。世界の巨匠たちが、えろをテーマに撮った短編映画集。今回観たのは『カーシュ夫人の欲望』『悪魔のレッスン』『ウェット』の三本。『カーシュ夫人の欲望』の監督は、ケン・ラッセル。ホテルに宿泊中の小説家が、えろっぽい女性を見かけ付いて行ったところ、彼女の部屋の中からバイブレーターの音がする。わお、おなってんじゃん!と勘違いした小説家は、さらに彼女のストーキングを続け、最後には・・・みたいなお話。感動的に面白かった。各シーンの色使いや配置などもとても好み。女性がミステリーサークルの上で踊るシーンとか、まじで最高。『悪魔のレッスン』の監督はヤヌス・マジョウスキー。まるでフェルメールの絵画のように美しい光の中で、牛のようなおっぱいの女の子が牛のおっぱいを絞るシーンから始まる。この作品は普通にえろくて、純朴な田舎の女の子が謎めいた男性に性を喜びを教わるという話。全体を通して幻想的で、ポーランドの美しい風景が印象的。とにかくえろい。『ウェット』の監督はボブ・ラフェルソン。これがまた最高に面白くて、営業終了まぎわのバスタブ屋さんに黒人の女性がやってきて、至急バスタブが必要だから、展示品にお湯をはって入り心地をためしたい、と言い出す。店長と女性の会話がとても面白い。なんとなく小説で読んでみたいような話だった。
この『アート・オブ・エロス』というシリーズは、他にも何作かあるらしい。八月下旬にすべてを収録した『アート・オブ・エロス 監督たちの晩餐 DVD-BOX 』が発売されるらしいので、買っちゃおうかしら。
夜中に眠れず、少し走る。久しぶりに走る。静寂がとても気持ち良い。
本日より夏休み。
風と雨の音で起床、朝食にシリアルとバナナ、グレープフルーツ。風が窓を打つ音を聞きながら、読書。ジョン・バースの『金曜日の本』を読む。優れた作家は優れた批評家であり優れたエッセイストであり優れた学者であることがよくわかる。雨風が窓を打つ。ゆっくりと、ゆっくりと文章を読む。
夕方、横になってムーミン・コミックスを読んでいたら、いつの間にか寝てしまった。気がつくと夜八時。雨は多少ぱらついているものの、風は完全にやんでいる。散歩がてら、夕食をとりに駅前へ。
帰宅後、『金曜日の本』の続きを読む。途中、友達から電話。一時間ほど話す。再び『金曜日の本』へ。
深夜、『カッコーの巣の上で』を観る。中島君はこの映画が大好きで、かれこれ五回以上観ているらしい。最高におもしろかった。ジャック・ニコルソンは当たり前として、その他の役者の演技も素晴らしいし、たまらないシーンが山ほどあった。原作はケン・キージーの一九六二年の同名小説。小説では、唖のインディアンであるチーフの視点で物語が進行する。患者の自我を抑圧し、徹底的に管理しようとする精神病院は、当時のアメリカ社会の権力体制の縮図として描かれている。精神病院の権力を軽視し、秩序を乱す存在である主人公は、最後にはロボトミー手術を施され、物言わぬ存在にされてしまう。六十年代当時、権力は目に見える形で体制として存在していた。市民は目に見える自由を求めて、目に見えない不自由の中で権力に対抗し、体制を変えようとした。あれから三十年以上を経た現在、権力は目に見えない形で口当たりよく市民を抑圧し続けてる。けれどもその口あたりの良さに、人々は抑圧されていることにすら気付かない。肉体的な手術を施さなくても、人をロボトミーにすることは可能なのだ。映画『マトリックス』が描く人類は、巨大コンピュータにすべてを管理され、仮想現実に生きていることにすら気付かない。『マトリックス』で描かれている世界が、空想の物語だと思ったら大間違いだ。少し離れた場所から見れば、この世界がいかに不自由な場所か、少しは分かるかもしれない。でもね、ぼくはその不自由がとても気楽で良いのです。
寝る前に、『金曜日の本』の続きを読む。とてもじゃないけれど一日じゃ読み終わらないや。おやすみなさい。