
本日より夏休み。
風と雨の音で起床、朝食にシリアルとバナナ、グレープフルーツ。風が窓を打つ音を聞きながら、読書。ジョン・バースの『金曜日の本』を読む。優れた作家は優れた批評家であり優れたエッセイストであり優れた学者であることがよくわかる。雨風が窓を打つ。ゆっくりと、ゆっくりと文章を読む。
夕方、横になってムーミン・コミックスを読んでいたら、いつの間にか寝てしまった。気がつくと夜八時。雨は多少ぱらついているものの、風は完全にやんでいる。散歩がてら、夕食をとりに駅前へ。
帰宅後、『金曜日の本』の続きを読む。途中、友達から電話。一時間ほど話す。再び『金曜日の本』へ。
深夜、『カッコーの巣の上で』を観る。中島君はこの映画が大好きで、かれこれ五回以上観ているらしい。最高におもしろかった。ジャック・ニコルソンは当たり前として、その他の役者の演技も素晴らしいし、たまらないシーンが山ほどあった。原作はケン・キージーの一九六二年の同名小説。小説では、唖のインディアンであるチーフの視点で物語が進行する。患者の自我を抑圧し、徹底的に管理しようとする精神病院は、当時のアメリカ社会の権力体制の縮図として描かれている。精神病院の権力を軽視し、秩序を乱す存在である主人公は、最後にはロボトミー手術を施され、物言わぬ存在にされてしまう。六十年代当時、権力は目に見える形で体制として存在していた。市民は目に見える自由を求めて、目に見えない不自由の中で権力に対抗し、体制を変えようとした。あれから三十年以上を経た現在、権力は目に見えない形で口当たりよく市民を抑圧し続けてる。けれどもその口あたりの良さに、人々は抑圧されていることにすら気付かない。肉体的な手術を施さなくても、人をロボトミーにすることは可能なのだ。映画『マトリックス』が描く人類は、巨大コンピュータにすべてを管理され、仮想現実に生きていることにすら気付かない。『マトリックス』で描かれている世界が、空想の物語だと思ったら大間違いだ。少し離れた場所から見れば、この世界がいかに不自由な場所か、少しは分かるかもしれない。でもね、ぼくはその不自由がとても気楽で良いのです。
寝る前に、『金曜日の本』の続きを読む。とてもじゃないけれど一日じゃ読み終わらないや。おやすみなさい。
昼、『パイレーツ・オブ・カリビアン』を観る。アメリカの海賊映画というものを観たことがなかったので、どんなものかと行ってみた。タイトルからもわかる通り、ディズニーランドのアトラクション『カリブの海賊』をモチーフとしたこの映画、随所にアトラクションで見かけたシーンが挿入されている。作品自体はよくある感じのハリウッド映画で、普通に面白かった。言われているほどジョニー・デップの演技は良くなかった。あれだったら『ラスベガスをやっつけろ』の方が全然良い。
アメリカで海賊が横行したのは、だいたい十七世紀後半から十八世紀ぐらいだと思うが、アメリカ史に関する資料などを見ても、それらに関する記述はほとんど見当たらない。まあ、歴史という観点で考えれば、ナット・ターナーが歴史に与えた影響ほどには海賊の存在は重要ではないだろうから、日本史の資料に忍者に関する記述がほとんどないようなものだろう。歴史書ではないが、『アメリカン・スピリット』という「アメリカの土壌に潜むスピリットを探る」という目的で書かれた新書には、「ああ、美しの新世界」と題された一章があり、海賊に関する伝承を紹介している。例えば、エドガー・アラン・ポーの『黄金虫』でもその財宝伝説が扱われているCaptain Kidd。バラタリア湾を中心に密輸王国を気付きながらも、死後に埋めた財宝を求めてさまよいあるく彷徨者として今もニューオリンズで語り継がれる海賊王ジャン・ラフィット(小説『海賊の血』の主人公は、このラフィットの子孫である)。あるいは、二人組の女海賊メアリー・リードとアン・ボニー。「黒ひげ」ことエドワード・ティーチ、スペイン王女を愛したあまり拉致してしまったホセ・ガスパアなど。読めば読むほど興味が湧いてくる。海賊に関する何か良い本はないかしら。
夜、映画『穴』を観る。ゴースト・ワールドのソーラ・バーチ主演。行方不明になっていたイギリスのパブリック・スクールの生徒四人のうち、ひとりだけ生きて生還したリズ(ソーラ・バーチ)。彼らは、課外授業を避ける為に森の中にある地下室に閉じこもっていた。警察は、リズの供述を元に事件の全貌を解明しようとするが、実は・・・というお話。以前にも書いたけれど、このような場所が限定されたミステリーが大好きなので、とても面白かった。原作はガイ・パートの同名小説。昼間観た『パイレーツ・オブ・カリビアン』のヒロイン、キーラ・ナイトレイが出ていてびっくりした。おっぱい出していた。
友達に送ってもらった生後二ヶ月のわんちゃんの写真がかわいくてかわいくて悶絶寸前。あまりのかわいらしさに、ため息が出るばかり。ふええ。
ねこぢるy(山野一)の『インドぢる』読了。予想していた百倍ぐらい素晴らしい旅行記だった。五年前に死去したねこぢるとの思い出を交えながら、義弟との新たなる旅が淡々とした文体で展開される。最初の方の文章は若干ぎこちなく感じるが、プリーで知り合いになったババたちとチャラスを回し吸いするあたりから、突然そのリズムとテンポが変化し、断片的な旅の記憶が走馬灯のように次から次へと展開されていく。舌、骨、少年、ポロ、桃源郷、雪、八瀬遊園、カラー、睡蓮鉢、竃、蒼穹、夜行列車、歯ぎしり、ツンドラ、夜明け等々。そのひとつひとつの記憶が、どうしようもなく切なく、どうしようもなく悲しく、どうしようもなく楽しい。「舌」というエピソードでは、牛の舌の気持ち良さについて書かれている。路地を歩いている牛に出会うと、山野氏は板チョコを差し出す。
舌の感触がまたいい。乳房に吸い付く赤ん坊のように、なんのてらいもなく、ひたすら手のひらのチョコをなめしゃぶる。ずっしりした舌は人のふくらはぎ程もある。塩をふって、炭火で焼かれたのもいいが、生きているそれはまた格別の味わいだ。この鈍重な生き物は表情というものを持たない。しかしその部分はベロベログネグネせわしなくのたくり、くねり、甘味への渇望を教えてくれる。熱い唾液がみるみるチョコレートを溶かしていく。その感覚が直に手のひらに伝わる。溶けたチョコレートが、裏はヌロヌロ表はザラザラした舌にしみ込んでいく。大きな半閉じの目が細まる。今この生き物の脳が味わっている甘さが、黒い瞳の奥に見える。
最終章の「ポカラ」では、今回の旅行の記憶よりも前回のねこぢるとの旅行の記述が多くを占める。最後の章にきてようやく、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ感傷的な文章が綴られる。読みながら、まるで自分がインドとネパールを旅したような、自殺した妻との旅の記憶をたどっているような、そんな錯覚にとらわれる。ねこぢるとの何ということない旅の記憶が、淡々とした文体で次々に綴られる。「ポカラ」の章で綴られる一番最後の記憶、この旅行記全体で一番最後になるねこぢるとの記憶の中で、山野氏とねこぢるはある湖でボートに乗っている。あまりにも平和で、あまりにものどかな記憶。
この湖は思いの外広い。ここに流れ込むパルパン・コーラという川を見てやろうと思うのだが、なまった腕ではなかなかこぎきれるものではない。湖の中程であきらめる。なんとも呆れたのどかさだ。パチョ、ドプ、ペチャ、タプ・・・。船縁を洗う波の音が気持ちいい。ねこぢると私は、眠たいカエルのような顔をしていつまでも漂っていた。川が流れ込むあたりは霞がかかっている。その上の渓谷は、あたたかな日を浴びてゆらゆら揺らめいている。
旅行記全体を通して、ねこぢるに関する感傷らしき記述は、「まえがき」と「あとがき」を抜かせば、「ポカラ」の章を除いてはほとんど見当たらない。淡々と、今回の旅行と交差させるようにねこぢるとの記憶が語られているだけだ。その記憶が、勝手な感情移入を承知で言わせてもらえれば、とても悲しい。山野氏は、ねこぢるの骨の一部をインドの海に流すために日本から持って行った。しかし、結局流すことは出来なかった。その事実を描写する記述に、内面的なことはほとんど書かれていない。けれども、このシーンを読んで悲しさを感じない人はいないだろう。
壺から骨のかけらを出し、手のひらに包んで海水につけた。日差しは強く首の後ろが焼けるようだが、海水は冷たい。波の力が強く、もろいかけらから小さな断片をさらって行く。波が引くとき手を開いて流してしまおうと思った。次こそと思うのだが、何度もやりすごしてしまう。結局手を引き上げ、もとの壺に納めてしまった。
山野氏がどうして再びインドへ行ったのか、どうしてこの旅行記を書くことにしたのか、ぼくにはわからない。「あとがき」には、ねこぢるが死去してからの一年間、ねこぢるの骨が入った白い箱に向って自問したことが書かれている。「疑問はどんどん湧いてくるが、答えは何一つ与えられない。すべて憶測のまま放置される。考えは同じ所を堂々巡りして、そこから抜け出せない」。もしかしたら、その答えを見つけるために再びインドに旅立ったのかもしれないし、あるいはその答えを見つけることをあきらめるためだったのかもしれない。とにかく、山野氏はその疑問について、次のように書いている。「確かに自分がそんなにいい夫だったとは思わない。しかし、私が死ぬまで徹底的に無視され続けなければならない程ひどかったとも思えないのだ」。
今、こんな旅行記を書ける作家は日本には他にいないと思う。しかも、自殺した妻と一緒に旅した場所を再訪するなんて、一歩間違えればとんでもなくおさむいものになってしまうだろう。大抵の場合、旅行記は無駄な距離感に満ちている。あるいは気負いと言い換えてもよいけれど、異国にいる自分をやたらと意識しすぎて、その自意識が文章全体にいやらしさを醸し出す。山野氏の文章には、この気負いがない。距離感が丁度よい。残念なのは、ねこぢるとの思い出の文章が太字になっていることで、これは前回の旅行と今回の旅行の区別を分かりやすくする為の配慮らしいのだが、はっきりいって邪魔だった。文庫化する際には、この余計な配慮を是非とも改善して欲しいと思う。リズムに乗って読み進めているときに、そのノリをがくんと崩すような余計な配慮はいりません。
ああ、無性にインドに行きたくなった。インドを歩きたくなった。そしてなぜかヘンリー・ミラーが読みたくなった。この興奮を、どうやって静めたらいいのだろう。とりあえず走ってきます。