
なんか全然休んだ気がしない。
昨日、戌井さんやへじさんの話を聞いて読みたくなった『たのしいムーミン一家』と『ムーミン谷の彗星
』を読む。この二冊は何年か前に一度読んでいるのだけど、何度読んでもおもしろい。アニメのムーミン谷とは異なる、どこかとぼけたムーミン谷の生活。思わず声を出して笑ってしまう。ムーミン谷の住人の生活のユーモアには、赤塚不二雄の『天才バカボン(初期)』に通じるものがある(とか書くと怒られるかしら)。けれども、ムーミンには『天才バカボン』にはない魅力がある。それはスナフキンの存在であり、ムーミンもス二フもミイもニョロニョロもスノークもヘムレンさんも『天才バカボン』に登場するけれど、スナフキンだけは登場しない。あらしの中に鐘の音に耳を傾けて、世界をまわり歩いたときのことを思い出しながら、「もうじき、ぼくはまた旅にでるんだ」と心の中で思うようなスナフキンは登場しない。
ちなみに『天才バカボン』は大好きです。特にバカボンがあまり出てこなくなった後期は最高。
夜、横になってムーミンを読んでいたところ、突然にお酒のお誘い。迷うことなく家を出る。楽しかったです、ごちそうさまでした。
また昼過ぎまで寝てしまった。罪悪感。外は雨。
午後、頂いたお仕事をしに烏山へ。先日フィンランドに行った方のムーミン話を聞いていたら、無性にムーミンが読みたくなった。
夕方、まんが喫茶へ。駅前に出来てからというもの、ほぼ毎日行っている。
夜、『ボルヘスの北アメリカ文学講義』を読む。訳者が解説で書いている通り、いたってまともなアメリカ文学講義であり、ボルヘスの名前から想像していたようなもの(どんな?)ではなかったけれど、淡々とした文体に展開するボルヘス流のアメリカ文学史は、読んでいて全然飽きなかった。「起源」「超絶主義」「西部」「国外流浪者たち」の章が面白かった。ボルヘスは1850年から1855年までの五年間を、ホーソーンの『緋文字』、エマソンの『代表的人間』、メルヴィルの『白鯨』、ソローの『ウォールデン』、ホイットマンの『草の葉』などが誕生した「アメリカ文学史上もっとも実り豊かだった時期」と書いている。ぼくだったらどの時期を「アメリカ文学史上もっとも実り豊かだった時期」と書くだろうか。少なくとも1850年ではないことは確か。
武田百合子の『日日雑記』が読みたいくていくつかの書店を徘徊したが、どこにも売ってない。仕方なく『富士日記
』を読み返す。何度読んでも素敵な日記。いつかはわたくしも、山の麓で暮らしたいものであります。
昼過ぎに起床。びっくりするぐらい天気が良い。いつもならば石神井公園に散歩に行くところだが、今日は気持ちが少し違うので長命寺まで歩くことにする。ラルフ・ウォルドー・エマソンがウォルト・ホイットマンを説得しながら散歩をする情景を想像しながら歩く。長命寺はあまりにも静かで、ひとり境内でくつろいでいるのが恥ずかしいぐらい。早々に立ち去る。
途中で遊んだねこさんたち。生きていますよ、念のため。
本屋さんを徘徊。村上春樹・柴田元幸共著『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』を購入。現在『Catcher in the Rye
』を読書中なので、最後まで読み終えてから読もう。と思っていたけれど、少し読み始めたらとてもおもしろい。先にこちらを読んでから、『Catcher...』を読んでもいいかな。それにしても、すっかり古典として定着していた『Catcher...』をベストセラーにしてしまうなんて、村上春樹って本当にすごいと思う。この人の他の誰が訳しても、ここまでブームにはならなかっただろう。
カフェで『人はなぜ山に登るか - 日本山岳人物誌』を読む。役行者から平山裕示に至るまで、日本の山岳史上に残る人々を紹介する。「日本の山には天狗が棲んでいるという。山姥という臈たけた妖女も徘徊するという。これらの山の神がみは、人間がこの列島に移り住んで以来、人々と喜怒哀楽の関係を連綿と営みつづけてきた。今、山を歩く時、彼らがまだ健在ならば、その息吹を感じたいと思う。先人たちは何を想い、何に魅入られて山を目指したのだろう」。読みながら次の登山について考える。
帰り、道に迷う。迷うはずの無い場所で迷うって、どうしてこんなに楽しいのだろう。