
『小さな中国のお針子』を観ました。
1971年の中国。医者を親に持つ二人の少年が、文化大革命の嵐に巻き込まれ、チベットとの国境境の村へと「再教育」のために送り込まれます。それまでの生活とは正反対の、屈辱的で過酷な労働を強いられ、労働階級の生活を送ることになるのですが、そこで彼らは仕立屋の孫娘である美しいお針子と出会います。彼らは、彼女を無知から救うために、当時の中国ではご法度だった外国小説(フロベール、ユーゴー、トルストイ、ディケンズ、ロマン・ロラン、デュマ、ルソー、そしてバルザックなどなど)を読み聞かせます。(もっと詳しいストーリーを知りたい方は、公式サイトをごらんください)
お話自体は普通に面白かったし、映像も美しかったし、役者さんたちもとても上手で、映画としてはなかなか良い映画だったと思うのですが、なぜか釈然としない気持ちが残るのは、何となく映画全体に漂う嘘臭さ(というと言葉が悪いですが)、例えばマーが初めてバルザックを読んで世界観が変わったシーンとかが、なぜか心に響かなかったからかももしれません。小説を読んで世界が変わるということは、小説が好きな人であれば誰もが一度は経験することだと思うし、中国の知的階級に育ったマーが、バルザックを読んで世界観を変えてしまうというのも、言葉にすると理解できるのですが、映画を観ていて思ったのは、うっそっくっせーということで、同様にラストのシーン(これは物語に関係するので詳しくは言えないのですが)にも、おいおいとつっこみを入れたくなりました。ぼくが意地悪なのかしら。
ぼくの大好きな映画評論家の川本三郎さんがパンフレットの冒頭で紹介文を書いていて、それを読むと「この映画は、リアリズムというより、どちらかといえば寓話的な作り方をしている」と書いています。そう、寓話的な物語として考えれば、この映画はとても素晴らしい映画だと思うし、ステレオタイプな「都会の若者と村の少女」像も、「進歩的な西洋文明と保守的なアジア文明」像も受け入れることが出来るのですが、ぼくはただ単に心を落ち着かせてくれる映画を観たかったわけではなくて、かと言ってカルチュラル・スタディーズ系の馬鹿学者が喜ぶような映画を観たかったわけでもなくて、文化大革命の時代と、文明から取り残された村と、禁じられた西洋文学というテーマから、もっと刺激的な映画を想像していたわけであります。少なくとも、西洋の「個人」という概念を、たやすく受け入れる田舎の少女(あ、言っちゃった)を観たかったわけではないのね。
だいたい、この映画、皆さん誤解しているかもしれませんが、フランス映画なんですよ。そこがまた、ね。
などとちょいと批判的なことを書いてしまいましたが、実は相当楽しんでしまいました。二時間あっという間で、くそつまんねーとかは全く思わなかったし、普通に面白い映画でしたよ。この手の映画が好きな方には、とてもお勧めです。
この映画を観た人の感想を聞きたい。ぼくのまわりで、誰か観た人いないかしら。
この雑記でも何度か触れておりますが、鉄割の本を作ろうという計画がありまして、話ばかりはどんどんと膨らむものの、有言不実行のぼくたちでありますから、計画はなかなか先に進まず二年ほどが過ぎていたのですが、知り合いのエディターの方が編集をやってくださるということになりまして、ようやく具体的な計画を練り始めました。
本を作ると申しましても、またいつものように悪ふざけになってちんちんとかの本になってしまっては意味がありませんから、内容に関しては真剣に話し合いまして、20ページにわたる勉蔵レポートをはじめとして、コンテンツに関してはなかなか面白いものになるのではないかと思っております。詳細は秘密ですけど。
それにしても話し合いをした居酒屋さん、会計をしてみたら一人六千円はちょっと高いと思います。つぼ八気分で呑みまくったのがいけなかったようで。
日本では多くの場合、文学は精神の面から語られてきました。退屈な学校の国語の勉強でも「この時のKの気持ちを説明せよ」などといううんこみたいな問題がたくさんでてきたでしょう。脳医学の権威が書いた文芸批評というだけでも異色なのに、この本がそれ以上に面白いのは、そのような日本文学の「精神性」ではなく、これまであまり論じられることのなかった「身体性」という観点から近代の文学を論じているところで、養老さんはその前書きで「文学のなかで身体がどう扱われてきたか、それを解析するつもりである」と書いています。
たとえば、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』に身体は存在していません。夏目漱石は『こころ』は書いていても『からだ』は書いていません。それは一体どうしてなのでしょうか?意識的なものとして、初めて身体の役割を文学に登場させる芥川龍之介は、『鼻』『好色』で身体に主人公を引きまわさせ、『羅生門』においては、死者の毛を抜く老婆に対して、現代人としての感情を下人に抱かせています。そんな芥川の作品を、田山花袋はまったく理解できませんでした。自然主義の田山花袋が、芥川の作品の面白さをまったく理解できなかったのは、一体どうしてなのでしょうか。
養老さんは書きます。「見なしとしての身体は、この国ではほとんど常識と化している。江戸以降の世界では、身体は統御されるべきものであり、それ自身としては根本的には存在しない」。
中世的世界では、人はまず身体的イメージで描かれました。しかし江戸、すなわち近世社会では、乱世を導くという理由から、身体の自然性は徹底的に排除され、人は心で描かれることになりました。さらにそこに明治維新、すなわち欧化による社会制度の変革が起こり、そこから明治以降の文学に通底する「我」の問題が生じるのです。
大正時代の作家である芥川はこの「我」の問題について、どのように取り組んでいたのでしょうか。夏目漱石は、文学は心理主義が当然であるとし、それを好みました。芥川はそのような「漱石の内政的な心理主義をさらに拡張し、身体そのものを、心理主義で規定される近代文学の領域に取り込んだ」のです。養老さんはこのことを、「中世を近世に変換したといってもいい」と書いています。ようするに芥川は、漱石たちが心理で語ったことを、身体という形式を使って語ったのです。
養老さんは、芥川が『今昔物語』の話の組立を改変していることについて、次のように書きます。
芥川はこの改変によって、「死体の髪の毛を抜く」行為は、盗みという反社会的行為を誘発する、より根源的な反倫理的行為に、いわば「昇格する」。これを私は、江戸的感情の発露と呼んだのである。臓器移植に対するなにものともつかない「おそれ」、芥川はそれを、自分すなわち下人の感情として、みごとに描き出したことになる。現在のわれわれもまた、この感情から、一歩も踏み出していない。
「現在のわれわれもまた、この感情から、一歩も踏み出していない」どころか、ぼくたちの感情は、より複雑なものになっています。科学が現代のように発達する以前は、「私」とは「神」の関係で語られるものでした。しかし科学の時代を生きるぼくたちが「私」について考えるとき、それはとても複雑なものなります。「私」とは、「身体」のことなのか。あるいは、「こころ」のことなのか。「こころ」は脳から生まれるものなのか、あるいは、「身体」から生まれるものなのか。「こころ」が「私」だとしたら、脳死は死ということになるのか。あるいは「身体」が「私」だとしたら、臓器移植の問題はどのように解決したら良いのだろう。「こころ」と「身体」を統合したものが「私」であるとした場合、そのいずれかを失った場合、あるいは分離した場合、「私」はいったいどこへ行くのだろうか?またあるいは、「私」のクローンは、「私」なのか、あるいは「あなた」なのか。
『身体の文学史』はこんな感じで、明治から昭和にかけての文学史を、身体という観点から論じていきます。うーんスリリング。
ところで、養老さんは『身体の文学史』の前書きで「歴史一般がなぜ可能なのか」という疑問を投げかけています。「シーラカンスから人に至るまでにも、すでに五億年が経過している。なぜそれが、一時間で読める『物語』になるのか」。この一文を読んだとき、どきっとしちゃいました。
養老さんはさらに続けて、「歴史」は「脳」の機能であるとして、次のように書きます。
歴史は、(・・)脳が持つことができる、時空系の処理形式の一つである。その形式を、昔から「物語」と呼ぶのであろう。だから、歴史は神話からはじまる。
先日の雑記でも書きましたが、ぼくは今、「どうして動物には歴史がないのか」という、まことに阿呆臭いことを考えておりまして、そのようなことを考えるときに「記憶」というものは非常に重要なファクターとなります。「記憶」は明らかに脳の機能のひとつであり、同様に脳の機能である「歴史」と、その形式である「物語」の関係。それがとても気になるのです。

とても気になるのよう。