03年04月08日(火)

 遅ればせながら『ボーリング・フォー・コロンバイン』を観ました。

 鉄割の台本を書いているお方などは、あまり面白くなかった(というか『ロジャー&ミー』の方が面白かった)と言っておりましたが、なかなかどうして面白かったし考えされる映画でした。観る前は、アメリカにおける銃規制の問題がテーマの映画だと思っていたのですが、監督であるマイケル・ムーア氏がこの映画で考えようとしていたことは、「銃規制」の問題よりもむしろ、アメリカの白人(WASPと限定しても良いと思います)が恐れている恐怖とはいったい何なのか、アメリカの白人は、恐怖によって先住民族を迫害し、恐怖によって奴隷制を始め、恐怖によって他国を攻撃し続けてきた、その恐怖の原因は一体何なのか、何をそれほどまでに恐れているのか?ということだったように思います。

 ムーア氏は、アメリカで銃犯罪、あるいは殺人事件が頻発していることについて、アメリカが「歴史的に暴力を行使してきたから」とか「異なる民族が共存しているから」とか「銃の所持が認められているから」とかいう紋切り型の言い訳を一切受け入れません。それはあくまでも言い訳であって、理由ではない。イギリスやドイツはアメリカと同様に暴力的な歴史を持つ(そもそも、暴力的な歴史を持たない国なんて存在しない)し、カナダでも銃の所持は認められているし異民族は住んでいる。けれどもどうしてアメリカだけがここまで銃犯罪が多いのか?アメリカのコロンバイン高校の事件で被害者となった少年の父親が映画の中で言っていたセリフを引用すれば、「この国は、なにかがおかしい」。ムーア氏は、スクリーンの中で何度も問いかけます。なぜ?どうして?どうしてアメリカだけが?

 結局、映画の中でその答えの結論は出ません。観終えた観客は、ムーア氏が提示したさまざまな事件や人々へのインタビューをもとに、自分なりに答えを考えることになります。けれども、ムーア氏は、本当に何も答えを持っていないかなあ。もしムーア氏が、「アメリカ人は一体何を恐れているのか?」という疑問の答えを持たないとしたら、あのアカデミー賞授賞式でのスピーチは一体何だったのだろう。

 それで劇場で『アホでマヌケなアメリカ白人』というマイケル・ムーア氏の著書を買って、カフェでばばばっと読んだのですが、家に帰って長島さんのサイトをみたらちょうどその本の紹介が出ておりました。この本を読みながらぼくが一番思ったのは、こんなでぶが近くにいたらうぜーよなーということだったので、長島さんの文章を読んでいたらそんな自分がちょっぴり恥ずかしくなったよ。えへへ。

 正直、日本に住んでいてアメリカには旅行ぐらいでしか行ったことのない僕には、アメリカの現状というものを、ニュースやWeb、雑誌や書籍等のメディアを通してしか知ることができません。そう考えると『アホで・・』も、そのような情報源のひとつということになるので、その内容を丸々鵜呑みにすることは危険かもしれませんが、それでも自分大好きアメリカ人の中からこのような本をかく人物が現れて、しかもそれがベストセラーになっているというのは驚きだし、ここまで過激に書かれた本に対して反論本が出ていないということも考えるべきことかもしれません。ブッシュさんとかはこの本に対してなにかコメントしているのかしら。気になるう。

 ちなみに、『ボーリング・・』に関しては、映画の中の捏造について言及しているこんなサイトもあります。ご参考までに。「コロンバイン校の殺人者の二人はあの日ボーリングしてなかった」って、おいおいマジですか。

 あ、そういえば、今月の青山南氏の『ロスト・オン・ザ・ネット』では、『ブッシュ一族の奇々怪々』と題してマイケル・ムーア氏のことも取り上げています。とても面白かったので、ぜひ読んでみてください。

 とにかく今、ぼくの中でアメリカという国はとても気になる存在です。とんでもなくアメリカに行きたい。っていうか住みたい。今の世界に生きていてアメリカが気にならない人なんていないと思いますが、ぼくはアメリカの現状よりも、アメリカの歴史の方が気になる。そして、アメリカにはヴォルマンとか、エリクソンとか、ピンチョン(読んだことないけど)とか、アメリカの歴史を文学で再構築して素晴らしい作品を書いている作家がたくさんいるのに、日本にはそのような作家がひとりもいないことが気になる。

 鉄割の勉蔵君は現在、オリジン弁当の真実を暴くというドキュメンタリー『オリジン』を撮影中です。ムーア氏以上に辛辣な質問をオリジンの幹部たちに対して行っているそうで、はやく完成しないかしら。とても楽しみ。

03年04月07日(月)
"The world of the quark has everything to do with a jaguar circling in the night."
(闇夜を彷徨うジャガーのすべてに、クォークの世界が存在する)
--"The Leaves of a Dream Are the Leaves of an Onion,"
by Arthur Sze, from River, River

 マレイ・ゲルマンクォークとジャガー』を購入しました。

 物理学などに造詣の深い方はご存知かもしれませんが、マレイ・ゲルマンという方は、原子核を構成する最小の粒子であるクォークの発見者であり、ノーベル物理学賞の受賞者でもあります。彼は、友人である中国系アメリカ人の詩人、アーサー・シー氏の書いた詩に触発されてこの本を書きました。驚くべきことに、この本が氏の初めての著作になります。

 物理学者による複雑系を扱った本というと、難解な印象を与えるかもしれませんが、この本は難解である以上に刺激的かつ文学的(複雑系そのものが文学だしね)であり、ある一定の知的好奇心さえ持っていれば、読み通すことは簡単ではありませんが不可能ではないと思います。もちろん、量子力学や数学的知識が必要な場所も多々ありますが、ゲルマンも言っているとおり、そんなところは読み飛ばせば良いのです。ぼくも読み始めたところなので、偉そうなことは言えませんが。

 マレイ・ゲルマン氏は著書の中で、物理学はもちろんのこと、その他あらゆる知識を駆使し、「単純なもの」と「複雑なもの」の関係について考えていきます。彼は、本書を書くに至った動機的な疑問を、以下のように書いています。

クォークはすべての物質を作っている基本的構成要素である。私たちが目にするあらゆるものは、クォークと電子で構成されている。古来、力と獰猛さのシンボルであるジャガーでさえ、クォークと電子の固まりである。しかし、何という固まりであろうか!それは、何十億年という生物の進化の果てにたどりついた、途方もない複雑さを表している。しかし、ここでいう複雑さとはいったい何を意味しており、それはどこから生じたのだろうか?

 暗闇のジャングルを徘徊するジャガー。そのジャガーのあらゆる運動に、クォークの世界が存在している。そこに彼は感動したのです。マレイ・ゲルマン氏がインスパイアされたアーサー・シー氏の詩の原文は、一番最初にも引用していますが、訳書には以下のように訳されています。「クォークの世界は、夜に徘徊するジャガーと、あらゆる点でかかわりをもっている」。これ、あまり良い訳とは思えないので、上の引用はぼくが訳してみました。ぼくの訳の方がかっこいいし、正確やイメージを伝えませんか。調子に乗りすぎかしら。

 一時期あほのように見かけた「複雑系」という言葉も、最近ではめっきり見かけなくなりました。いまだ進化を続け、日々おもしろくなっている複雑系という分野が、一時のブームで終わってしまうのは極めて寂しいことだと思います。複雑系については後ほどもっともっと書きたいと思っていますが、今はとにかく、『クォークとジャガー』を熟読し、理解を深めましょう。コーヒーなんかを飲みながら。

 ちなみに、ゲルマンさんは二年ほど前にお亡くなりになっているそうです。

03年04月06日(日)

 今週末から映画『ぼくんち』が公開になりますね。

 西原理恵子ファンとしては期待半分不安半分の気持ちでして、予告編は何度も観ているのですが、果たしてどんな感じなんでしょうねえ。映画と原作は、異なる作品として考えなさいとはよく言われることでありますが、どんなに頑張っても鉄割の人を役者としては評価できないように、原作と映画をわけて考えるのって、けっこう難しいのよねえ。

 ぼくの一番すきなお話は、第三巻第二十二話。ねえちゃんが二太に、死んだはずのおばあちゃんがやってきたと言います。おばあちゃんがやってきたので、うどんを作ってあげたら、どこかへ行ってしまったと言います。二太は、ねえちゃんが大好きなので、そのうそっぽい話につきあいます。その後、裏庭に草むしりに行ったねえちゃんのところに、再びおばあちゃんが現れます。

「おばあちゃん、おうどん何で食べてってくれへんのよ。せっかく作ったのに、もう。」
「おばあちゃん死んでるもん。うどん食われへん。」
「あははは。そうゆうたらそうやなあ。」

 ねえちゃんとおばあちゃんは、一緒に草むしりをします。

「なあ、おばあちゃん。人は生きててな、どこまでがしんどくて、どこまでがしあわせなんやろか。」
「そらカンタンや。食わせてもろてるうちがシアワセで、くわせなならんなったらしんどい。
そのうちええ天気で空が高うて、
風がように通る、
死ぬのにちょうどええ日がくる。それまでしんどい。」

 ねえちゃんは草むらにねっころがります。そんなねえちゃんを見て、二太は思います。

「『今ばあちゃんが空にのぼっていった』
ねえちゃんがまたウソをつく。
草むらにねっころがったねえちゃんは、ぼくが昔読んだ絵本のおやゆび姫みたいにちいさく見えた。」

 何度読んでも、涙があふれてとまりましぇん。うぐぐ。西原さんの漫画は全部好きだけど、やっぱり『ぼくんち』は特別です。

 『ぼくんち』に出てくる家族は、みんなろくでなしばかりです。けれども、先に生まれた者は、後に生まれてきた者たちを、必死で育てようとします。ねえちゃんは一太と二太を育てようとするし、一太は二太を育てようとするし、こういちくんは二太を育てようとするし、こういちくんのねえちゃんはこういちくんを育てようとします。先に生まれたものは、後に生まれた者に、シアワセになるための生き方を教えようとします。たとえその生き方が、結果的にシアワセになれない生き方だとしても。

 最近よく考えるのですが、そこそこの年齢になってしまったぼくは、後から生まれてきた彼ら彼女らに、一体なにを教えてあげることができるのだろう。教えてもらうことはたくさんあるけど、「何かを」教えてあげることなんて出来るのかしらね、ぼく。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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