年始というものは、今年は良い年でありますようになどとお祈りをする希望に満ちた時期だと思うのですが、なぜかわたくしは頭をぱっくりと割ってしまいまして、さらに目の回りは内出血でパンダのように真赤に縁取られており、そのような状態で日々はゲームをして過ごし、家を出ることもなく、一日に少々の米を食らい、人と話すこともないような生活を送っていると、今年に対して早くも絶望を感じながらもほんの些細なことに希望を見つけようとし、下手な希望は後に余計に辛くなると頭では解りつつも、それでもまだ世俗に対して幾許かの執着を捨て切れず、町に出れば良いことがあるのやもしれぬなどと思って町を出たら汚い外人とぶさいくな日本人女性がディープキスをしておりました。それでこれは今年は駄目だとあきらめがつくかと言えばそんなこともなく、やはりまだもしかしたら何かしらの幸福に巡り合えるかも知れないなどと阿呆な希望を持ち続けている次第でございます。
で、ゴーギャンのこの絵ですが

絵自体は大好きなのですが、タイトルが良くない。タイトル、「我々はどこから来たのか?我々は何者なのか?我々はどこへ行くのか?(Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?)」というのですけど。
それで、古本屋に行ったらアイスキュロスの『縛られたプロメーテウス』が売っていて、眠れない夜に良いかしらと思って買ってちょいと読んでみたところ面白すぎて読みが止まらず、読了してみればこれは全能の神ゼウスに刃向かってけちょんけちょんにされてしまう男の話でありまして、今この時期にこんな本に巡り合うとうことは、そうか、ぼくは神様に刃向かわなくてはいけないのかと、軽はずみな決心をいたしました。
そんなわけで、ことしのぼくの目標は、神様に勝つことです。どんなバチを与えられても決してくじけません。かかってこい、神。ぶっとばしてやる。
レイトショーのみの上映なので、観に行くのをやめようかと思っていたのですが、あるお友達がとても面白かったといっていたので、どうしても観たくなってしまい、トッド・ソロンズ監督の『ストーリーテリング』を観てきました。
まわりの意見などを聞くと、『ハピネス』のほうが好きという方が多いのですが、ぼくは圧倒的に『ストーリーテリング』のほうが面白かったです。観る前に友達とお酒を飲んでいて、気持ちの良い感じで映画館に行ったのですが、オープニングでうつらうつらとしてしまい、それがとても気持ち良く、本編に入ったときにはちゃんと目を覚ましましたが、その後も気持ちの良さだけが続いておりました。そんな状態の時に「フィクション」とタイトルが出て、アメリカの創作学部のお話が始まったので、それだけでもうおかしくておかしくて。さらにピューリッツァ賞を受賞した講師とか、「個人的な意見だけど」を口癖とする辛口の生徒とか、その設定と描き方がこれまたおかしくて、主人公の女の子が来ているTシャツがこれまたおかしくて、なんでしょう、ぼくは以前に小説作法の授業を受けていた経験があるのですが、あの授業の馬鹿馬鹿しさがとても滑稽に描かれていて、もうずっと笑いっぱなしでした。だって、「東海岸で身体障害者のフォークナー」ですよ、小説を書いて友達に見せたら「糖尿病でマラソンしている村上龍」って言われるようなものですよ。「ノンフィクション」の方も、大変面白くて、もうずっと興奮しっぱなしで、実はこの映画を観たのは去年なんですけれど、去年観た映画の中で一番面白かったかもしれません。
トッド・ソロンズという方は、ご存知の通り『ハピネス』の監督さんで、『ストーリーテリング』は第四作目の作品にあたります。処女作が『恐れと不安と憂鬱』、第二作目が『ウェルカム・トゥ・ドールハウス』、そして三作目が『ハピネス』になるのですが、前二作品は聞いたことありませんでした。処女作『恐れと不安と憂鬱』で自ら主演して、ウッディ・アレン気取りだとか、自意識丸出しとか、散々叩かれたソロンずさんは、泣きべそをかいて地元へ引きあげてしまい、以後五年間、映画を撮ることが出来なかったのですが、心機一転、1995年に『ウェルカム・トゥ・ドールハウス』を撮ったところ、サンダンス映画祭でグランプリを受賞、次いで『ハピネス』で一躍注目を浴びて、今ではすっかり売れっ子監督さんのようです。
それから、あまり取り上げられてはいませんが、このソロンズさん、結構な演劇青年らしく、『恐れと不安と憂鬱』はベケット、『ウェルカム・トゥ・ドールハウス』はイプセンの『人形の家』、『ハピネス』はチェーホフの『三人姉妹』に影響を受けて書いたとか。やっぱチェーホフか、今の時代。
それにしても、普通の家庭のお父さんとしてのジョン・グッドマンは強烈でした。でかい。
明治三十四年十一月六日、俳人正岡子規は夏目漱石に生涯で最後の手紙を送りました。その手紙の書き出しは、以下のようなものでした。
僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ。
衰弱しきった正岡子規が書いたこの言葉を、最近なにかにつけ思いだします。と、申しますのも、ぼく、すっかりプレステ2にはまってしまっているわけでして。
ゲームをすることがいけないのではないのです。ゲームをやめられない自分が不甲斐ないのです。一時間なら良いのです。十時間以上もぶっ通しでやってしまうのは、精神がたるんでいるが故のことではないかと思うのです。
映画を観れば思うところ有り、小説を読めば思うところ有り、音楽を聞けば思うところ有り、散歩をすれば思うところ有る。けれども、ゲームをやっても、思うところがあまりないのです。これは、単にぼくとゲームという表現形態とぼくの相性の問題なのだと思うのですが、ゲームを終えたあとに残るのは、罪悪感だけなのです。アア、マタヤッテシマッタ。
今年という年こそは、日々を精進し、どんな些細なものであってもよいから、必ずなんらかの仕事を成し遂げようと決心しばかりであるにもかかわらず、朝起きて、ゲームをし、昼食を食べてゲームをし、昼寝をして、夕方再びゲームをし、夕食をしながらゲームをし、明け方までゲームをしております。そうして、そのように家にこもっている自分に対し、ぼくはこう思います。僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナクゲームシテ居ルヤウナ次第ダ。
それでは、ラチェット朝まで行かせていただきます。





