
ある裕福な友人が、「これで何か面白いことをして笑わせてくれ」と言って四万円くれました。
しかしぼくはコメディアンでもなければ芸人でもありません。一体どうやって面白いことをすればよいのか、彼を笑わせれば良いのか、さっぱり何も思い浮かびません。思いあぐねた挙げ句、その金をもって本州の最北端へ旅行へ行ってしまいました。
それはとても素敵な旅行で、自分自身を見直すとても良いきっかけになったのですが、彼を笑わせるにはあまりにもイベントに乏しく、「一人、海に佇みまして」とか、「夜分に辺鄙な村を徘徊しまして」とか、「旅籠に泊まってつげの気分になりまして」などと言っても彼は笑ってくれないと思います。それで、帰ってきた後もどのように報告したものか、迷っている次第であります。
それでも、旅行に行く前と行った後では、僕自身の気持ちの持ち方、人生への向き合い方なども多分に変化をした次第でありまして、それをもって彼へのお土産とさせていただきたいと思います。御了承下さい。近いうちに酒でも持って挨拶に伺います。
とりあえず、リスペクト石川さゆりで。
東京都写真美術館へ『空海と遍路文化展』を観に行ってきました。
展覧会の最終日というものは地獄のごとく込み合うものだということは身にしみて分かっていたはずなのですが、今回もやっぱり最終日に来てしまいました。あー、やっぱりすげー混んでるし。しかも、ぼくはこの後に予定なんかを入れてしまっている為体で、ほとんどダッシュで観なくてはいけません。何という愚かなぼく。
写真美術展ということで勝手に四国遍路の写真展を想像していたぼくは、展覧会場に入って度肝抜かれました。あちらこちらに仏像やマンダラがいっぱい。おばさんたちみんな拝んでるし。なんだよー、仏像あるなら最初から言えよー、などとひとりごちつつ、それでも、観るべき所はちゃんと観逃さず、個人的には十楽寺の観音・勢至菩薩立像や、甲山寺の不動明王像、十三仏来迎図などがとても良かったです。この右の像が勢至菩薩立像なのですが、かわいすぎる。立江寺の地獄・極楽図なども、色彩が微妙すぎてはまりました。この極楽図、ぜってー夢にでますよ。
やっぱり、死ぬまでに一度はお遍路さんをやっってみたいな。逆遍路でもいいから巡りたい。
会場には、藤原新也の『四国遍土』なんかも展覧してあって、おばさんたちがへーとかほーとか言いながら眺めておりました。ぼくはやっぱり好きになれないのです。嫌いではないのですが。
以前より、聖徳太子がお札になって、弘法大師がお札になっていないのはいかがなものかと思っております。絶対に弘法大師の方が日本にとって重要な人物でしょう。やっぱ即神仏は駄目なのかしら。すごい人なんですけどねえ、空海さん。
ちくま書房が、内田百間さんの集成の刊行を始めました。
この、ちくま文庫の集成・全集というのは、本当に嬉しいものです。ハードカバーで作家の作品をある程度まとめて読もうと思ったら、風呂に入って、洋服をきれいなものに着替えて、耳栓をして、携帯電話の電源を切り、三時間ぐらい瞑想して、コーヒーと紅茶を用意して、座り心地の良いイスに座ってからじゃないと読めないでしょう。
文庫だったらうんこした後にはなくそとかほじりながら読めるし。どんどん全集の文庫版を刊行して欲しいものです。
それでさっそく第一巻、噂の『阿房列車』を購入し、読み始めました。誰だったか忘れたのですが、百間さんといえば阿房列車でしょう、と言っておりました。戌の字だか、藤の字だか、そこらへんの方だと思うのですが。それで読み始めたらこれがすげーおもしれーじゃーん!!
先日、太宰治の『津軽』などを読んで、それはそれで面白かったのですが、もっとバタ臭くない、愉快な紀行文学はないかしら、などと思っていたところでして、これこそまさしくぼくの求めていた紀行文学でございます。日本全国を列車に乗って行ってみよう、ただし到着したらそのまま電車で帰ってこよう、というのが『阿房列車』の概要でして、それだけでも十分にたまらないのですが、内田さんの書く文章がとにかく面白い。随筆の面白さで言えば、町田康も相当面白いとおもうのですが、内田さんの方が面白いのではないでしょうか。天然、っていうのですか、こういうの。旅行に同行するヒラヤマ山系君(平山三郎)というぼけ役とのやりとりが、とても素敵なのです。こんな旅行をしてみたい。
で、具体的にどんな旅行かと申しますと、ぼくが説明するよりも、百鬼園先生が新潟で土地の新聞記者に無理やりにインタビューをされた、その時のやり取り読んだほうが解るのではないかと。
「もう少し話して下さい」
「何を話すのです」
「何でもいいです」
「頭の中が散らかっていて、なんにも話す事はない」
「新潟へなぜいらしたのです」
「なぜだか解らないが、来た」
「目的は何です」
「目的はない」
「何と言う事なく、ただふらりと、そう言う事もありますね」
「あるね」
「まあそう言う風にやって来られたとして、しかしこうして新潟に着かれた上は、これからどうなさるのです」
「どうするって、どう云う事」
「つまり、御計画を聞かせて下さい」
「そんな君、無理な事を云って、計画なぞと云う気の利いたものは、持ち合わせていないから駄目だ」
「何かあるでしょう。例えば明日はどうするかと云う様な事」
「それは今晩寝てから考える」
「新潟をどう思いますか」
「どうも思わない」
「何か感想があるでしょう」
「汽車が着いて、自動車に乗せられて、ここへきたばかりだから、ないね」
「萬代橋を渡られたでしょう」
「それは今渡ったばかりだからな。萬代橋は長いね、と云えば感想の一端になりそうだが、もうよそうじゃないか。下らないから」
「新潟は初めてですか」
「初めてではない」
「この前来られたのは、いつですか」
「それがはっきりしないのだが、何十年も昔の話で、大正十二年の大地震よりまだ何年か前の事だ」
「その時の御感想はどうでした」
「余り古い事なので、忘れてしまった」
「何か思いだして下さい」
「やっぱり萬代橋を渡ったが、木の橋だった所為か、今より長かった様な気がする」
「雪中新潟阿房列車」より
わたくしの中で、内田さんブームが微妙な感じに燃え上がりつつあります。とりあえず、内田っちに見習って、あちらこちらに借金をして、そんで日本全国を旅してみませう。