02年11月08日(金)

■月着陸“疑惑”にNASA反論、ますます怪しまれる?

 このような「国民は騙されている!」的なお話って、本当にどうでも良くて、ムーとかって基本的にユーモアの雑誌なのだと思うのですが、あれを真面目に読んでいる方とか、そういう人しかこんな話題に興味を持たないだろうと思っていたのですが、結構びっくりするぐらい普通の人とか友人とかがこのような話題に反応しております。中には本当に真剣に「あれは月に行っていない!」とか力説する人とかもいて。アポロが月に行っていようと行っていまいと、ぼくちんどちらでもじぇんじぇんノープロブレムでーす、とか言ってリアクションを誤魔化しております。

 基本的にジョークとしてのこの種の話題は嫌いではないのですが、肯定派はさした論証もせずに肯定するし、否定派は何の根拠もなく否定するし、そんなことを考えている暇があったらうんこでもしていたほうがましなのですが、最近気付いたことには、幽霊の存在とかを肯定している人は、月着陸に疑念を抱きがちである、ということで、それがどうしてなのかそこらへんの因果関係はよく分かりませんが、政府とか権力とかの陰謀説などは支持しがちなのですね、そういう人。あくまでもぼくの友人に関していえば、ですけど。

 などといいながら、こんなサイトをチェックしたり。

■人類は月に行っていない!?

 こんな風にひとつひとつを論証していっても、疑惑を持っている人はまた別の疑惑を言い出すのでしょうから、あまり意味がないのです。先の記事にも書いてある通り、月着陸が真実であるのなら、無視するのが一番でしょう。

あっぽろ

 こんな話よりも、もっと楽しいお話をしたいものです。書いておいて何ですが。

02年11月07日(木)

 全く本当に勉蔵という男は、自分と惚れた女には甘いくせに、他人と映画には厳しいなあ、その厳しさを自分自身に向けられれば、出来る子なのになあ、と思いながら、石神井公園を散歩しました。

 平日の昼間の石神井公園というのは、まことにもっておじいちゃんおばあちゃんばかりでして、ひとりでにやにやしながら逍遥している若者なんてぼくぐらいしかおりません。
 池の風景を写生しているおじいさまなどを見た時に、後ろから蹴り倒したくなる気持ちは、原宿の路上に生息する変な習字を売りつけているみつお派の方々をぶっ飛ばしたいと思う気持ちに通ずるものがございます。

あっきー

 どうしてこんなにも石神井が好きなのか、自分でも良く分かっていないのですが、他の公園を歩いても、無意識に石神井と比較して、ああ、石神井を歩きたい、などと思ってしまいます。風に吹かれ、枯れ葉を踏み、大きく深呼吸して石神井の風情を味わいます。

あっきー

 菜根譚に曰く、林間の松韻、石上の泉声、静裡に聴き来たりて、天地自然の鳴佩を識る。草際の煙光、水心の雲影、間中に観去りて、乾坤最上の文章を見る。
 散歩の楽しみは、まさしくそこにありまする。

あっきー

 石神井公園には、大勢の猫ちゃんが住みついております。この方の佇まい、まさしく泰然と云うにふさわしく、常日ごろより忙しないわたくしなどは、見習わなくてはいけないと思います。写真で見ると分からないと思いますが、すげーでかいのです、この猫ちゃん。かっこいい。

あっきー

 趣を得るは多きに在らず、盆地拳石の間にも、煙霞は具足す。景を会するは遠きに在らず、蓬窓竹屋の下にも、風月は自からはるかなり。
 勉蔵君に、菜根譚のこの言葉を贈ります。

ねこちゃん

 勉蔵君も、是非一度石神井公園を散歩してみませんか。楽しいよ。

02年11月06日(水)

 先々月に京都に行った折、鉄割の友人と訪れたある見識のある方の家で、「夜這い」についての面白いお話をお聞きし、それ以来、日本の農村に伝わる「夜這い」や性の風習について興味が湧き、近いうちにそのような風習について詳しく調べてみようと思っていたのですが、先日読了した京極夏彦の『絡新婦の理』に、以下のようなセリフがありました。

例えば有名な宣教師フランシスコ・ザビエルは、最初に日本を訪れた時、驚き嘆いて本国に手紙を出している。支配階級である武士や聖職者たる僧侶達が公然と男色行為を行い、庶民は半裸で過ごし、風呂は男女混浴、婚前の性的交渉ー夜這いが平然と行われている。こんな淫奔で不埒で風紀紊乱な国はない。ここまで性が乱れた国に基督教などひろまるものか

 『絡新婦の理』では、ムラにおける「夜這い」の風習がひとつのキーワードになっています。現在の日本ではほぼ完全に忘れ去られた、あるいは意図的に歴史の奥へと追いやられた「夜這い」という風習。その風習が物語中でどのような役割を果たしているのかをここで書いてしまうと、ネタバレになるので詳しくは書けませんが、「夜這い」に関する蘊蓄がたくさん出てきて、それが非常に興味深かったです。

 赤松啓介氏の『夜這いの民俗学』は、日本の民俗学で無視され続けてきた『夜這い』という風習を、無視し続けてきた民族学者への非難もこめて書かれた、大変おもしろい研究書です。赤松氏自身の経験を交えて書かれているため、まるで物語のような語り口で、読み物としても面白く詠むことが出来ます。

おい、お前、俺んとこのお袋の味、どないぞ。
お前、今晩、うちのネエチャに来たれ。
あんた、なあ。なんや。うちのカアちゃんどない。嫌いやないでえ。今晩来たってくれるかあ。

『夜這いの民俗学』によると、日本のムラ社会では、このような明け透けな会話が、農村によっては戦後まで日常的に交わされていたそうです。ムラの中では夜這いに関する一定のルールがあり、それに従って男性が女性を夜這います。夜這われた女性は、その男性が好みでなければ拒否することもできるし、逆に女性のほうから男性を誘う場合もあります。大抵の場合、男性は若衆入りした十五歳ぐらいで初めての夜這いを経験するのですが、最初はムラの後家さんや四十以上の嬶(かかあ)、或は自分の叔母を相手に性行為を教わり、女性の場合は、これもムラによって異なるものの、大方は月経を迎えたぐらいから夜這いの対象となったそうです。不細工だったり村八分だったりした場合は、叔母や叔父、あるいは兄弟、両親と行為を行います。近親相姦もさほど珍しいことではなかったようでで、ムラ中やりまくりです。

 ムラ中入り乱れてやりまくりだからと言って、そこに恋愛的な感情とか、あるいは結婚とかいう儀式が機能していなかったのかといえばそんなことはなく、結婚は結婚できちんと行われていたそうです。だたし、そんな状況ですから、子供が出来た場合も誰の子供か分からない場合もあります。しかし、そんなことは誰も気にしません。かかあに子供が出来て、その子供が自分に全然似ていなくても、ひざの上に載せて「こいつ、俺に全然似てねえだろ」などと云って笑っているおやじが、ムラのあちらこちらにいたそうです。

 ムラという閉鎖された空間で、このような夜這いの風習が成立した背景などについても『夜這いの民俗学』では推測ではあることを断った上で説明をしています。戦国時代、その土地を治めていた領主が戦に負けると、戦相手の敵兵が農村へ攻めてきます。男達は防衛し、女子供を守ろうとしますが、結果、男達は負傷したり、殺害されたりして数が減っていきます。そのために男の数と女の数がアンバランスになり、その釣合いを戻そうと男の夜這いが始まったのではないか、と赤松氏は書いています。興味の有る方は、是非一読を。

 そういえば、先日連載を終了した柏木ハルコさんの『花園メリーゴーランド』は、現代(正確に云えば十数年前)にまで夜這いの風習が残っているムラに迷い込んでしたまった青年のお話でした。この柏木ハルコというかた、『いぬ』という作品もそうですが、性を書かせたら相当おもしろい作品を描く漫画家さんです。

 「夜這い」という行為を淫らとか紊乱だとか思うのは、現代に生きる僕たちの身勝手な価値判断にすぎまへん。自分たちと異なる文明に対して、それが自分たちと異なるという理由だけで「野蛮」であると断言するする輩などもおりますが、どのような文明であっても文明は文明であり、「異なる」文明や風習は存在しても、「悪しき」文明や風習などというものは存在しないのではないか。などと思ってしまいます。

勿論ーそうでない歴史もある。儒教や朱子学に気触れた武家社会では雁字搦めの家と云う制度が形成され、性も婚姻も手段としてその制度に組み込まれることになる。(中略)同じ時代だからと云って同じモラルが社会全体に通底していたと理解するのは間違っている。いいですか、世の中を支えている理はひとつではないのです。
(『絡新婦の理』より)

はなぞの

 しかし、よくよく考えてみますと、性自体は明け透けに語られはしていないものの、夜這いに近い行為は、今も昔も対して変わっていないような気がしたり。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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