
そんで公演本番でございます。昼の回は14時開演なのですが、自宅で気がつくと13時でございました。即効で着替えてお気に入りのバイクにまたがり、黒塗りベンツもパトカーもなんのその、中指立てて信号無視をぶちかまし、13時45分にDoorsに到着。息急き切って楽屋に駆け込み、どうにか間に合いました。
今までは、舞台上であろうとおかしいときには普通に笑うことにしていたのですが、今回はセリフのやり取りがある演目がさほどないので、おかしいことがあっても、ちょいと耐えてみましょうかと思っておりました。しかし、ブースから聞こえてきた操さんの「ビリー・ジョエル」の一言には耐えることができず、やはり笑ってしまいました。
今回の公演では、稽古の段階から毎日のように酒を飲み続け、日々へべれけになっておりました。ライブのあとのパーティーでも差し入れで頂いたシャンパンをラッパ飲み致しまして、ほとんど記憶がありましぇーん。微かに、内倉君と中島君の喧嘩の仲裁をした記憶があるのですが、そこらへんも定かではございません。あと、誰かに呆れ目で見つめられた記憶がございます。あの目は恐かった。
翌日、家で目を覚ますと、びりびりになった一万円札が財布の中に入っていたり、ゲロを吐いたのでございましょうか、ズボンに不思議な汚れが付着していたり、見知らぬタクシーの領収書のチケットを握りしめていたり、髪の毛が天然七三分になっていたり。
セリフ下さい。
三ヶ月で約三冊というのが読書の量として多いのか少ないのかは分かりませんけど、このレポートを見る限りでは、人々の読書離れはそれほど急激に進行しているわけではなさそうです。むしろ増えているし。人々の、とりわけ若者の本離れが懸念されている昨今ではありますが、このレポートを見る限り、 それほどでもないみたいですね。
今季号の『本とコンピュータ』の雑誌内雑誌『書物再定義』でも、「人はなぜ、本を読まなくなったのか?」という特集を行っています。その中で粉川哲男氏、関川夏央氏、加藤典洋氏による『新しい読書の習慣はうまれるか?』という座談会が収録されているのですが、お約束通りに最近の学生が如何に本を読まなくなったかの説明から始まり、それではどうして若者は本を読まなくなったのか、そして本に変わる情報媒体があるとしたら、それは一体なんなのかを座談しています。関川夏央氏は、授業で学生のほとんどが石川啄木の歌を知らないことに言及して、以下のように述べています。
歌を知らないから、まず「東海の小島の磯の白砂に」を教えなくければならない。これは衝撃だったな。べつにかれらがバカになっているわけじゃなく、知識とか愛着の対象が、私たちとはぜんぜん違うということに、おそまきながら気づいたわけです。
人が本を読まなくなったことを危惧するする人は大勢いますが、上記のサイトを観るかぎり本離れはそれほどでもなさそうだし、たとえ本離れしたとしても、それは関川さんが言うように、人々が本に替わって別の何かに情報の媒介物を発見したからなのでしょう。時代を顧みずに「最近の若者は本を読まない」と嘆いているご老体たちにはそんなことはわからないでしょうけど。
ちなみに鉄割の中では、読書をする人はすげー本を読みますが、しない人は人生で読んだ本が二冊とか、それぐらいの隔たりがございます。
京極夏彦の『鉄鼠の檻』読了。
またまた最高!京極最高!などと手放しで褒めてしまいますが、面白いものは仕方がありません。
今回の舞台は『姑獲鳥の夏』にも登場した箱根山中の旅館仙石楼から始まり、経歴の不明な禅寺へと移行していきます。いややや、もうわくわくしっ放しでしたよ。
個人的には、これまでの京極堂シリーズの中で一番推理小説っぽいのではないか、などと思っております。ストーリーは、取り立てて怪異な出来事が起こるわけでもなく、ふつーに殺人が行われて、その犯人と殺害の理由を突き止める、という、まことにシンプルなものでございます。前作の『狂骨の夢』では。その語りの上手さ(それがどれだけ上手いのか、最後まで気づきませんでしたが)にびっくりさせられましたが、今回は説明の上手さに感動しました。登場人物に説明するというお決まりの形式で禅の歴史が説明されていくわけですが、これがとても分かりやすい。下手な禅の本を読むよりも、よほど理解できました。もちろん、禅のうわっつらのさらにうわっつらの部分程度ですが。
禅宗と一口に言っても、もともとは仏教の分派のひとつであり、禅宗自体も時代と共に分派しています。分派している以上、各々の宗派それぞれに異なる教義を持ち、異なる修業を行います。『鉄鼠の檻』では、釈迦が金毘羅華を指さしたところから始まり、菩提達磨によって現在の禅宗の基礎が固まり、北宗禅と南宗禅に分かれ、南宗禅がさらに青原系と南嶽系に、南嶽系が為仰宗と臨済宗、青原宗が雲門宗と法眼宗、曹洞宗に分かれていく歴史をわかりやすく説明しています。さらに、それらの宗派の相違、例えば曹洞宗は只管打坐、臨済宗は公案、いわゆる禅問答を良しとする、などということにも言及し、しかもそれらのことがすべて物語に関連しています。京極堂や物語に登場する禅僧は、滔々とそれらの歴史と概要を、登場人物に、延いては読者へと説明します。これがすごく面白い。
たとえば、禅には「魔境」と呼ばれる境涯あります。ひたすらに坐禅を行っていると、突然悟りに似た感覚に落ちることがあるそうです。世界と己が一体になったような感覚。目の前に神や悪魔が現れる感覚。次から次へと不思議な言葉が、今まで考えたこともないような真理が次々と湧いてくる感覚。これは一見悟りであると錯覚しがちであるが、それは悟りではなく、「魔境」であると云います。
「幻覚ですか。仏さんが見えても?」
「そんなモノは幻だよ。一部の新興宗教なんかで、修業中に仏様を感得したとか解脱したとか云って騒いでいる連中がいるが、そんなモノを見て喜んでいるような者は救いがたい大馬鹿なんだよ、益田君」
「大馬鹿ーですか」
「大馬鹿だ。そんなモノは皆、物理的な、或は生物学的な説明のつけられる、所謂生理現象に過ぎない。科学的思考を以て解決できる以上、それは神秘ではあり得ないし、悟りとは神秘的なものですらない。だから禅では、そう云う状態になった時は、それを当たり前のこととして受け流せと、そう云われる」
(以前にちょっとだけ取り上げた山折哲雄さんの『神秘体験』や、禅とドラッグの関係を書いた『ZigZagZen』なんかのこともちょっと書きたいのですが、長くなりそうなのでまた今度)
ちょっと肩透かしだったのは、言葉で憑き物を落とす京極堂と、不立文字の禅僧の対決が、あまりぱっとしなかったといいますか、いつもの憑き物落としと同じじゃんと感じてしまったところです。あれほどまでに「禅に言葉は通用しない」といって事件に関係するのを拒んでいたのですから、もう少しね、なんか禅そのものをひっくり返すとまでは言わなくても、言葉を使っているのに言葉を使っていないような、そんな憑き物落としを期待していたのですけど。それから、赤い子供・・・。
そちらはまあ、少しはお解りじゃな。ただそう言葉にされてしまうと、矢張り違うとしか云いようがないが、もしかしたらお解りなのかもしれん。いずれにしてもこの臨済大悟のくだりにゃ一切の説明は無用だ。否、凡ての禅の公案に説明は不要なんですわい。意味づけは蛇足、言葉は無用だ。言葉に溺れ知識に振り回されるは黒漫漫地なりきですな
ところで、物語の冒頭でキーとなる「禅僧の脳波測定」を行おうという試みは、史実として実際にあったことでして、『鉄鼠の檻』では結局行われませんでしたが、史実では1955年に、東京大学の笠松章と平井富雄という二人の精神医学博士によって、東京の青松寺で実際に行われています。この時の結果に関しては、おおむね物語の中で京極堂が予測しているのと同じ結果が出たようです。
以前の作品でも、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』と比較がされがちであった京極堂シリーズですが、この『鉄鼠の檻』ではよりいっそう物語に『薔薇の名前』的な要素が増しています。『薔薇の名前』との物語の類似も何点か指摘されています。ぼくは匹敵する面白さだと思ってしまうのですが、まだまだ甘いですか。
我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり。教外別伝、不立文字、摩訶迦葉に付嘱す(拈華微笑)