
02年06月25日(火)
■怪異・妖怪伝承データベース
国際日本文化研究センターが、妖怪や物怪に関する民族学情報データベースを公開しました。
あくまで民族学情報のデータベースなので、ぬらりひょんとか検索しても出てきません。
けど、検索をかけてもcgiが反応しないのはどうして?
妖怪と言えば、先日柳田国男の「妖怪談義」を読みました。
「妖怪談義」と言っても、妖怪は存在するか存在しないかとかそういう陳腐なことを談義しているわけではなくて、あるいは水木しげる的な妖怪談義でもなくて、あくまでも民俗学的に妖怪という現象を捉えていて、まず妖怪と化け物の違い、伝説と昔話の違いから始まり、妖怪話が日本全土でどのように分布し、派生、変化していったのかを名前の変化や話の変化の実例を挙げて、細かく分析していきます。
柳田は、夕刻を表す「黄昏」という言葉の発生の理由に関して、「化け物に対する警戒の意」を含んでいたといいます。
その昔、隣人同士がすべて見知り合っていた農村などでは、他所者がその土地を通過するとそれだけで大騒ぎでした。ましてや、まだ街灯などというものがない時代、人の顔がよく見えない夕刻などに人とすれ違う場合などは、挨拶をしたり、声をかけたりして相手が誰なのかを確認したそうです。
そのような事から、相手の顔の見えない夕刻のことを、「誰ぞ彼の時」から「タレソカレトキ」「タソカレトキ」「たそがれどき」と言うようになったそうです。
これは、地方によってはこの夕刻のことを「彼は誰」から変化して「カハタレ」時と呼ぶ地域があることからもわかります。
そして、このような他所者に対する畏怖の念、「他所者」という普段の生活の中に突如現れた非日常的なものは、妖怪と形を変えて人々に語り継がれます。
(もちろん、それだけが妖怪の誕生の原因であると言っているわけではありません。)
人間は、どのような現象、物ごとに関しても原因や理由を求めます。現在では、科学という自然現象に関する原因追及の学問として存在しますが、科学がまだ未発達の時代、人々は「結果」に対してなにかしらの「理由」を、(誤解を恐れずに言えば)こじつけてきました。
板倉聖宣は、あらゆる「迷信」は、いっけん非合理主義に見えるが、実は「あらゆることには根拠がある」という考えのもとに生まれた合理主義の結果だと言います。
人類は二十世紀に至るまで、様々な想像力を駆使してあらゆる現象を合理的に説明するための物語を創りだし、神話を始めとして昔話や童話、伝説を語ってきました。
そして、柳田はそのようにして生まれてきた妖怪話について、以下のように言っています。
寺田寅彦の「怪異考」というエッセイに以下の一文があります。
民族学者としての柳田国男が対応するのが、「錯覚や誇張さらに転訛のレンズでゆがめられた鏡像」であるとすれば、物理学者である寺田寅彦が対応するのはその中にある「その本体」であるという相違に関しては言うまでもありませんが、その事を考慮しても、この二人の怪異に対する態度には共通するところがあり、とても強く共感してしまいます。
簡単に言えば、柳田国男の着眼点は、妖怪の存在の有無ではなく、どうしてそれが存在するとされるのか、どのようにしてその存在がうまれたのか、そして、その存在の可能性はどのようにして高まり、その存在はどのようにして広まっていったのか、という点にあり、寺田寅彦の着眼点は、妖怪の存在を否定することなく、その存在の根拠を、あるいは存在の正体を追及するという点にあります。
妖怪話は、科学が発達した現在ではなくなったのかといえば、形を変えて存在しています。
現代の「都市伝説」の類を民族学的に研究していたのは宮田登ですが、もし柳田国男が現代に生きて、「都市伝説」に取り組むとしたら、どのようなアプローチを取ったのでしょうか。
■真・都市伝説101夜
ところで、「妖怪談義」の中には、僕の実家のある地域の名前が何度か出てきます。その地域に語り継がれているという妖怪談を紹介しているのですが、そこで生まれ育ったぼくはほとんど聞いたことがありませんでした。
「妖怪談義」が発刊されたのが昭和三十一年頃ですから、僕の両親であれば知っているかと思って聞いてみても、やはり知りませんでした。
もしかしたら、僕の祖父母の時代で、妖怪は消えてしまったのかもしれません。
今度実家に帰ったら、おばあちゃんに聞いてみようっと。
国際日本文化研究センターが、妖怪や物怪に関する民族学情報データベースを公開しました。
あくまで民族学情報のデータベースなので、ぬらりひょんとか検索しても出てきません。
けど、検索をかけてもcgiが反応しないのはどうして?
妖怪と言えば、先日柳田国男の「妖怪談義」を読みました。
「妖怪談義」と言っても、妖怪は存在するか存在しないかとかそういう陳腐なことを談義しているわけではなくて、あるいは水木しげる的な妖怪談義でもなくて、あくまでも民俗学的に妖怪という現象を捉えていて、まず妖怪と化け物の違い、伝説と昔話の違いから始まり、妖怪話が日本全土でどのように分布し、派生、変化していったのかを名前の変化や話の変化の実例を挙げて、細かく分析していきます。
柳田は、夕刻を表す「黄昏」という言葉の発生の理由に関して、「化け物に対する警戒の意」を含んでいたといいます。
その昔、隣人同士がすべて見知り合っていた農村などでは、他所者がその土地を通過するとそれだけで大騒ぎでした。ましてや、まだ街灯などというものがない時代、人の顔がよく見えない夕刻などに人とすれ違う場合などは、挨拶をしたり、声をかけたりして相手が誰なのかを確認したそうです。
そのような事から、相手の顔の見えない夕刻のことを、「誰ぞ彼の時」から「タレソカレトキ」「タソカレトキ」「たそがれどき」と言うようになったそうです。
これは、地方によってはこの夕刻のことを「彼は誰」から変化して「カハタレ」時と呼ぶ地域があることからもわかります。
そして、このような他所者に対する畏怖の念、「他所者」という普段の生活の中に突如現れた非日常的なものは、妖怪と形を変えて人々に語り継がれます。
(もちろん、それだけが妖怪の誕生の原因であると言っているわけではありません。)
人間は、どのような現象、物ごとに関しても原因や理由を求めます。現在では、科学という自然現象に関する原因追及の学問として存在しますが、科学がまだ未発達の時代、人々は「結果」に対してなにかしらの「理由」を、(誤解を恐れずに言えば)こじつけてきました。
板倉聖宣は、あらゆる「迷信」は、いっけん非合理主義に見えるが、実は「あらゆることには根拠がある」という考えのもとに生まれた合理主義の結果だと言います。
人類は二十世紀に至るまで、様々な想像力を駆使してあらゆる現象を合理的に説明するための物語を創りだし、神話を始めとして昔話や童話、伝説を語ってきました。
そして、柳田はそのようにして生まれてきた妖怪話について、以下のように言っています。
化け物の話を一つ、出来るだけきまじめに又存分にしてみたい。(中略)私の目的はこれによって、通常人の人生観、わけても信仰の推移を窺い知るにあった。(中略)ないにもあるにもそんな事は実は問題でない。われわれはオバケはどうでもいるものと思った人が、昔は大いにあり、今でも少しはある理由が、判らないので困っているだけである。柳田国男が民俗学の見地から妖怪話に取り組んだとしたら、物理学の見地から怪異現象に取り組んだのは寺田寅彦です。
寺田寅彦の「怪異考」というエッセイに以下の一文があります。
物理学の学徒としての自分は、日常普通に身辺に起こる自然現象に不思議を感ずる事は多いが、古来のいわゆる「怪異」なるものの存在を信ずることはできない。しかし昔からわれわれの祖先が多くの「怪異」に遭遇しそれを「目撃」して来たという人事的現象としての「事実」を否定するものではない。われわれの役目はただそれらの怪異現象の記録を現代科学上の語彙を借りて翻訳するだけの事でなければならない。この仕事はしかしはなはだ困難なものである。錯覚や誇張さらに転訛のレンズによってはなはだしくゆがめられた影像からその本体を言い当てなければならない。それを的確に成効しうるためにはそのレンズに関する方則を正確に知らなければならない、のみならず、またその個々の場合における決定条件として多様の因子を逐一に明らかにしなければならない。物理学者としての役目は、妖怪などの怪異現象を否定することなく、錯覚や誇張さらに転訛のレンズでゆがめられた鏡像の中にある本体を、現代科学上の語彙を借りて翻訳するだけの事である、と寺田は言います。
民族学者としての柳田国男が対応するのが、「錯覚や誇張さらに転訛のレンズでゆがめられた鏡像」であるとすれば、物理学者である寺田寅彦が対応するのはその中にある「その本体」であるという相違に関しては言うまでもありませんが、その事を考慮しても、この二人の怪異に対する態度には共通するところがあり、とても強く共感してしまいます。
簡単に言えば、柳田国男の着眼点は、妖怪の存在の有無ではなく、どうしてそれが存在するとされるのか、どのようにしてその存在がうまれたのか、そして、その存在の可能性はどのようにして高まり、その存在はどのようにして広まっていったのか、という点にあり、寺田寅彦の着眼点は、妖怪の存在を否定することなく、その存在の根拠を、あるいは存在の正体を追及するという点にあります。
妖怪話は、科学が発達した現在ではなくなったのかといえば、形を変えて存在しています。
現代の「都市伝説」の類を民族学的に研究していたのは宮田登ですが、もし柳田国男が現代に生きて、「都市伝説」に取り組むとしたら、どのようなアプローチを取ったのでしょうか。
■真・都市伝説101夜
ところで、「妖怪談義」の中には、僕の実家のある地域の名前が何度か出てきます。その地域に語り継がれているという妖怪談を紹介しているのですが、そこで生まれ育ったぼくはほとんど聞いたことがありませんでした。
「妖怪談義」が発刊されたのが昭和三十一年頃ですから、僕の両親であれば知っているかと思って聞いてみても、やはり知りませんでした。
もしかしたら、僕の祖父母の時代で、妖怪は消えてしまったのかもしれません。
今度実家に帰ったら、おばあちゃんに聞いてみようっと。
02年06月24日(月)
毎年恒例の、男三人登山旅行の季節になって参りました。
去年は北アルプスの燕岳を制覇しましたが、今年はどこに行きましょう。
今年は、僕たちの下山を、下で温泉に浸かって待っている人たちがいるようなので、山岳温泉が近くにある山がよろしかろうと思います。
■日本百名山と山岳温泉
■Mountain Web
前回は酒ばかり持っていって、肝心のものを全部忘れていってしまったので、今度こそは携帯用のストーブを持っていって、山の頂上でコーヒーを飲みたい。
去年、僕たちがはあはあ言いながらどうにか登りきった燕岳ですが、頂上付近で知りあったおばさんは、あちらこちらの山をひとりで登っているということで、じつに手慣れた感じですいすいと山を登り、落ちたら死にますよあなた、というような場所で余裕でピースをして記念撮影をしていました。
見た感じ小さくてかわいらしいただのおばさんなのに、歩き出すとどんどんと距離を離され、気付けば影も形も見えなくなっていました。
あれは多分山の神様で、僕たちにもっと山を登りなさい、山を楽しみなさい、山は素晴らしいものですよと教えてくれたのだと思います。
去年登った山。

矢印の先には内倉君。
去年は北アルプスの燕岳を制覇しましたが、今年はどこに行きましょう。
今年は、僕たちの下山を、下で温泉に浸かって待っている人たちがいるようなので、山岳温泉が近くにある山がよろしかろうと思います。
■日本百名山と山岳温泉
■Mountain Web
前回は酒ばかり持っていって、肝心のものを全部忘れていってしまったので、今度こそは携帯用のストーブを持っていって、山の頂上でコーヒーを飲みたい。
去年、僕たちがはあはあ言いながらどうにか登りきった燕岳ですが、頂上付近で知りあったおばさんは、あちらこちらの山をひとりで登っているということで、じつに手慣れた感じですいすいと山を登り、落ちたら死にますよあなた、というような場所で余裕でピースをして記念撮影をしていました。
見た感じ小さくてかわいらしいただのおばさんなのに、歩き出すとどんどんと距離を離され、気付けば影も形も見えなくなっていました。
あれは多分山の神様で、僕たちにもっと山を登りなさい、山を楽しみなさい、山は素晴らしいものですよと教えてくれたのだと思います。
去年登った山。

矢印の先には内倉君。
02年06月23日(日)
Palmにも飽きてきたので、CLIEに買い替えようかと思いながら、そのPalmで幸田露伴の「些細なやうで重大な事」を読んでいたところ、いたく感動しそうろう。
露伴さんは、人間には「事に処する」「物に接する」の二つの仕草があって、「物に接する」ということがきちんとできないことには、巧く「事に処する」ことなど出来ないとおっしゃります。
物をその有りように従って扱うことは当然のこととして、その心がけは「何処までもその物を愛し、重んじ、その物だけの理や、強さや、必要さを尽くさせるのが正当である。」
すなわちその心は孔子が言うところの「仁」である、と申しております。
「仁」とは一体どういうことなのか、それを説明できるほどぼくは徳を積んではいませんが、保坂和志は「愛」というエッセイで以下のように書いています。
「愛」
友人Kは言った。あなたはいま、さしあたり形になる目的を持ってしまったために、あなた自身がよく口にしていた「愛」を忘れてしまったんじゃないのか?
ゴッホが弟テオへあてた手紙に「君は何がこの牢獄を消滅させるか知っているか。それはすべての、深い、真面目な愛情なのだ。友人があること、兄弟があること、愛していること、これらのものこそその至上の力と、非常に強力な魔力で牢獄を開くのだ。だが、それらがない者は死の中に取り残されるのだ。しかし、共感が再生するところ、必ず生命もよみがえる」と書いてあったじゃないか。
カール・ベームが「いままで大勢の観客や演奏家が私のモーツァルトを支持してくれました。それは私の演奏がモーツァルトへの愛に満ちているからだと思います。モーツァルトはロマンチックでも感傷的でもありません。彼の音楽は人間の情熱のすべてですが、決して感傷的ではない」と言ったときの「愛」や「情熱」のことだし、メルロ=ポンティが「音楽的ないし感覚的な緒理念は、まさにそれらが否定性ないし限定された不在であるが故に、われわれがそれを所有するのではなく、その緒理念がわれわれを所有するのである。ソナタを作ったり再生したりするのは、もはや演奏者ではない。彼は、自分がソナタに奉仕しているのを感じ、他の人たちは彼がソナタに奉仕しているのを感じるのであり、まさにソナタが彼を通して歌うのだ」と言ったときの「奉仕」のことで、ゴダールが「ヌーヴェル・バーグの力というものが生まれたのは、あるいはまた、ヌーヴェル・バーグがある時期のフランス映画を突き破ることができたのは、ただ単に、われわれ三、四人の者がお互いに映画について語り合っていたからです」と言ったときの「語り合い」を支えていたもののことだよ。
心がそういう状態にあるときに感受する情報の量はたいしたものだ。美術館でクレーの絵の実物を見たときに、あなたが「動く!」と感じたものがカタログでは決してそうならないのも、実物と印刷物とで得られる情報の量に膨大な違いがあって、クレーがキャンバスに敷いた綿密な下地や筆のタッチによる凹凸まで印刷では再現できていないからだけれど、あなたがよく口にしていた「愛」があるかないかは、世界から感受しうる情報の量や密度や強度において、クレーの実物の絵と印刷物ほどの違いが生まれるものなんだよ。
それからやっぱり、大変でもラカンを読むことを忘れないように。苦労して読むということは、読みながら自分の知識や経験を総動員することだから、ラカンの理論が理解できないにしても、きっと「愛」の状態と同じだけの情報の量を生み出すことにはなると思うよ。
(保坂和志「アウトブリード」『愛』より。)
ここでいう「愛」とは、まさしく露伴さんがいうところの「仁」なのではないでしょうか。
(これ、完全に無断引用でして、著作権的に相当やばいと思うのですけど、僕はこの文章が本当に好きで、出来るだけ多くの人に読んで欲しいので引用しちゃいました。愛ゆえの行為ということで。)
露伴さんは言います。
こんなおじいちゃんになりたい。
露伴さんは、人間には「事に処する」「物に接する」の二つの仕草があって、「物に接する」ということがきちんとできないことには、巧く「事に処する」ことなど出来ないとおっしゃります。
物をその有りように従って扱うことは当然のこととして、その心がけは「何処までもその物を愛し、重んじ、その物だけの理や、強さや、必要さを尽くさせるのが正当である。」
すなわちその心は孔子が言うところの「仁」である、と申しております。
「仁」とは一体どういうことなのか、それを説明できるほどぼくは徳を積んではいませんが、保坂和志は「愛」というエッセイで以下のように書いています。
「愛」
友人Kは言った。あなたはいま、さしあたり形になる目的を持ってしまったために、あなた自身がよく口にしていた「愛」を忘れてしまったんじゃないのか?
ゴッホが弟テオへあてた手紙に「君は何がこの牢獄を消滅させるか知っているか。それはすべての、深い、真面目な愛情なのだ。友人があること、兄弟があること、愛していること、これらのものこそその至上の力と、非常に強力な魔力で牢獄を開くのだ。だが、それらがない者は死の中に取り残されるのだ。しかし、共感が再生するところ、必ず生命もよみがえる」と書いてあったじゃないか。
カール・ベームが「いままで大勢の観客や演奏家が私のモーツァルトを支持してくれました。それは私の演奏がモーツァルトへの愛に満ちているからだと思います。モーツァルトはロマンチックでも感傷的でもありません。彼の音楽は人間の情熱のすべてですが、決して感傷的ではない」と言ったときの「愛」や「情熱」のことだし、メルロ=ポンティが「音楽的ないし感覚的な緒理念は、まさにそれらが否定性ないし限定された不在であるが故に、われわれがそれを所有するのではなく、その緒理念がわれわれを所有するのである。ソナタを作ったり再生したりするのは、もはや演奏者ではない。彼は、自分がソナタに奉仕しているのを感じ、他の人たちは彼がソナタに奉仕しているのを感じるのであり、まさにソナタが彼を通して歌うのだ」と言ったときの「奉仕」のことで、ゴダールが「ヌーヴェル・バーグの力というものが生まれたのは、あるいはまた、ヌーヴェル・バーグがある時期のフランス映画を突き破ることができたのは、ただ単に、われわれ三、四人の者がお互いに映画について語り合っていたからです」と言ったときの「語り合い」を支えていたもののことだよ。
心がそういう状態にあるときに感受する情報の量はたいしたものだ。美術館でクレーの絵の実物を見たときに、あなたが「動く!」と感じたものがカタログでは決してそうならないのも、実物と印刷物とで得られる情報の量に膨大な違いがあって、クレーがキャンバスに敷いた綿密な下地や筆のタッチによる凹凸まで印刷では再現できていないからだけれど、あなたがよく口にしていた「愛」があるかないかは、世界から感受しうる情報の量や密度や強度において、クレーの実物の絵と印刷物ほどの違いが生まれるものなんだよ。
それからやっぱり、大変でもラカンを読むことを忘れないように。苦労して読むということは、読みながら自分の知識や経験を総動員することだから、ラカンの理論が理解できないにしても、きっと「愛」の状態と同じだけの情報の量を生み出すことにはなると思うよ。
(保坂和志「アウトブリード」『愛』より。)
ここでいう「愛」とは、まさしく露伴さんがいうところの「仁」なのではないでしょうか。
(これ、完全に無断引用でして、著作権的に相当やばいと思うのですけど、僕はこの文章が本当に好きで、出来るだけ多くの人に読んで欲しいので引用しちゃいました。愛ゆえの行為ということで。)
露伴さんは言います。
さういふ事は何でもない、些細の事であると思ふけれども大変な大切な事で、その当を得ると得ぬとは、その人の心の有様を語つてゐるものである、その人の事業の順当に行くか行かぬかを語つてゐるものである。露伴さん、素敵です。
こんなおじいちゃんになりたい。