
02年05月12日(日)
(続き)
「縛られた巨人」という作品は熊楠の伝記として読むぶんにはとても面白かったのですけど、書き物として読むのにはいまいち物足りないというか、熊楠という人物を知るという目的以外では、それほど読みたいと思わせる作品ではありませんでした(まだ4/1程読み残っているのですけど)。
しかし、その中でなかなか面白かったのが、熊楠が帰国後に生活の拠点とした熊野に関する描写でして、(ぼくが熊野について何も知らなかったからかもしれませんが)熊野道や妙法山阿弥陀寺のくだりを読んでいたら、すっかり熊野に行きたくなってしまいました。
「ダルに取り憑かれる」とは、熊野道を歩いているときに突然に襲ってくる飢餓感のことで、米粒を二三粒食べれば直るのですが、そうしないと一歩も先に進めなくなり、昏倒してしまうそうです。
これは、熊野の無縁仏が人に取りついたのだ、と言われ続けてきて、熊楠も何度か経験しています。
しかし今では、妙法山阿弥陀寺までスカイラインで一気に登れるらしく、なんだか味も素っ気もなくなってしまいました。
「縛られた巨人」という作品は熊楠の伝記として読むぶんにはとても面白かったのですけど、書き物として読むのにはいまいち物足りないというか、熊楠という人物を知るという目的以外では、それほど読みたいと思わせる作品ではありませんでした(まだ4/1程読み残っているのですけど)。
しかし、その中でなかなか面白かったのが、熊楠が帰国後に生活の拠点とした熊野に関する描写でして、(ぼくが熊野について何も知らなかったからかもしれませんが)熊野道や妙法山阿弥陀寺のくだりを読んでいたら、すっかり熊野に行きたくなってしまいました。
亡者の熊野詣という事を伝へて、人死する時は幽魂かならず当山に参詣すといふ。いとあやしき事など眼前に見し人もありなんでも熊野にある法山阿弥陀寺というお寺では、昔は応照法師が焚身往生(焼身自殺)したり、ある禅師は捨身往生(バンジージャンプ)してぶらぶらつるされたまま死んじまったりと、往生を遂げようとする方々はみな死んで事を為そうとしたようで、熊楠が訪れたときも、ただならぬ気配が漂っていたようです。
もともと熊野三山の信仰は、古代人が大自然に抱いた素朴な畏怖心から発している。那智の”滝”、本宮の”水”、新宮の”岩倉”。熊楠はその熊野の遥かな”時間”の径に分け入り、おのれもまた一個の古代人に化って、かれらが祖霊が棲むとみた山精や飛滝や巨岩を凝視めたいと思う。そうでなければ、荒々しい熊野大山塊の大自然を神とみた古代人の畏怖も、山塊の奥処から発した水が、天空に巨大な”白い神”となって出現する大滝の神秘も素直に伝わってこないであろう。その昔、熊野路を歩いていると、人々は「ダルに取り憑かれる」という飢餓状態になることがあったそうです。
「ダルに取り憑かれる」とは、熊野道を歩いているときに突然に襲ってくる飢餓感のことで、米粒を二三粒食べれば直るのですが、そうしないと一歩も先に進めなくなり、昏倒してしまうそうです。
これは、熊野の無縁仏が人に取りついたのだ、と言われ続けてきて、熊楠も何度か経験しています。
しかし今では、妙法山阿弥陀寺までスカイラインで一気に登れるらしく、なんだか味も素っ気もなくなってしまいました。
02年05月11日(土)
(続き)
「クマグスのミナカテラ」が、史実を基にしたフィクションだとしたら、こちらは正確な資料をもとに、熊楠の実像に迫ったノンフィクションです。
「クマグスのミナカテラ」では、クマグスが明治24年にキューバにたどり着いたところで終了しています。
その後クマグスはアメリカに戻り、さらにロンドンに渡ります。
ロンドンでは、毎日のように酒を飲み、反吐をはき、自ら「馬小屋の二階」と呼んだ汚い下宿で、AからQまでしかない字引を使って書いた論文を科学雑誌「ネイチャー」に発表、大英博物館で嘱託職員として勤務、膨大な数の資料、文献を読みあさり、勉学に励みます。
当時はとにかく金がなくて、自分で浮世絵などを描いて売ったりしてなんとか糊口を凌いでいたようです。
それでも、土宜法竜や孫文など重要な人とお友達になったり、オクスフォードやケンブリッジの大学教授になることを夢見たりしますが、大英博物館のしゃれたイギリス人に侮辱されてぶん殴ってしまい、その一年後にもしゃれたイギリス人につばをぶっかけぶん殴ってしまい、大英博物館を辞することになります。
それで日本に帰ってくるのですが、父は既に亡くなっており、実家の酒屋の跡を継いだ弟とその嫁との折り合いが悪く、熊野にこもり、1916年に田辺に居を移すまで、そこで粘菌類、藻類、菌類、植物類などを丹念に採集、研究に没頭します。
何だかかわいらしいのが、熊楠が40才で初めて結婚する前に、お嫁さんの顔見たさに、子犬ほどもある丸々と肥えた灰猫を抱いてお嫁さんの家に来て、ちょいと猫を行水させてくれ、と言って猫をお嫁さんの家で行水させて帰り、また次の日には別の猫を連れて、ちょいと猫を行水させてくれ、と言って来たりと、なかなか純情なところもあるのです。
しかし、この熊楠という方、酒と喧嘩が大好きという無頼漢なのですが、にもかかわらず学問に対する情熱はほとんどキチガイ入っておりまして、当時はコピー機などというものがありませんから、子供の頃よりとにかく書を筆写するする。
子供の頃は、中村テキ斎の「訓蒙図彙」を読み、それを記憶して帰宅後に反古の裏面に筆写、さらに「和漢三才図会」百五巻、李時珍の「本草綱目」五十二巻二十一冊、貝原益軒の「大和本草」、「日本紀」「諸国名所図会」、「大雑書」「節用集」、さらに「太平記」五十冊を読破、筆写。
ロンドンでは、大英博物館の蔵書を読破、「ロンドン抜書」全五十二巻一万八百頁を五年がかりで書き上げています。
さらにこの方のすごいところは、例えば絶対にその場所で見つかるはずのない藻類などを、夢の中で亡き父親がその存在と場所を教えてくれたり、あるいはふと突然に、日本では存在し得ない藻類を「隣の裏の田水にあり」と感得し、発見したりすることです。
人類の中にたまにいるんですよね、こういう天才。天才とは、こういう直感を持った人のことをいうのです。
■南方熊楠資料研究会
このサイトは、現在も進行形の熊楠研究のサイトでして、「縛られた巨人」では書かれていないこと、あるいは「縛られた巨人」で書かれていることと反対の事なども書かれていて、特に「南方熊楠邸調査の報告」などは、熊楠の所蔵していた書籍の書き込み等まで細かく調べていたり、研究内容だけではなく熊楠自身の人間性などにも触れていて、熊楠に興味のある人にはたまらないのではないでしょうか。
無尽無究の大宇宙の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を、たとえば顕微鏡一台買うてだに一生見て楽しむところ尽きず南方熊楠に関しては、神坂次郎の「縛られた巨人」という作品があります。
「クマグスのミナカテラ」が、史実を基にしたフィクションだとしたら、こちらは正確な資料をもとに、熊楠の実像に迫ったノンフィクションです。
「クマグスのミナカテラ」では、クマグスが明治24年にキューバにたどり着いたところで終了しています。
その後クマグスはアメリカに戻り、さらにロンドンに渡ります。
ロンドンでは、毎日のように酒を飲み、反吐をはき、自ら「馬小屋の二階」と呼んだ汚い下宿で、AからQまでしかない字引を使って書いた論文を科学雑誌「ネイチャー」に発表、大英博物館で嘱託職員として勤務、膨大な数の資料、文献を読みあさり、勉学に励みます。
当時はとにかく金がなくて、自分で浮世絵などを描いて売ったりしてなんとか糊口を凌いでいたようです。
それでも、土宜法竜や孫文など重要な人とお友達になったり、オクスフォードやケンブリッジの大学教授になることを夢見たりしますが、大英博物館のしゃれたイギリス人に侮辱されてぶん殴ってしまい、その一年後にもしゃれたイギリス人につばをぶっかけぶん殴ってしまい、大英博物館を辞することになります。
それで日本に帰ってくるのですが、父は既に亡くなっており、実家の酒屋の跡を継いだ弟とその嫁との折り合いが悪く、熊野にこもり、1916年に田辺に居を移すまで、そこで粘菌類、藻類、菌類、植物類などを丹念に採集、研究に没頭します。
何だかかわいらしいのが、熊楠が40才で初めて結婚する前に、お嫁さんの顔見たさに、子犬ほどもある丸々と肥えた灰猫を抱いてお嫁さんの家に来て、ちょいと猫を行水させてくれ、と言って猫をお嫁さんの家で行水させて帰り、また次の日には別の猫を連れて、ちょいと猫を行水させてくれ、と言って来たりと、なかなか純情なところもあるのです。
しかし、この熊楠という方、酒と喧嘩が大好きという無頼漢なのですが、にもかかわらず学問に対する情熱はほとんどキチガイ入っておりまして、当時はコピー機などというものがありませんから、子供の頃よりとにかく書を筆写するする。
子供の頃は、中村テキ斎の「訓蒙図彙」を読み、それを記憶して帰宅後に反古の裏面に筆写、さらに「和漢三才図会」百五巻、李時珍の「本草綱目」五十二巻二十一冊、貝原益軒の「大和本草」、「日本紀」「諸国名所図会」、「大雑書」「節用集」、さらに「太平記」五十冊を読破、筆写。
ロンドンでは、大英博物館の蔵書を読破、「ロンドン抜書」全五十二巻一万八百頁を五年がかりで書き上げています。
さらにこの方のすごいところは、例えば絶対にその場所で見つかるはずのない藻類などを、夢の中で亡き父親がその存在と場所を教えてくれたり、あるいはふと突然に、日本では存在し得ない藻類を「隣の裏の田水にあり」と感得し、発見したりすることです。
人類の中にたまにいるんですよね、こういう天才。天才とは、こういう直感を持った人のことをいうのです。
ここに一言す。不思議ということあり。事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり。理不思議あり。大日如来の不思議あり。それでこの本を読み終えたあとに、下のサイトを見たのですが
余は、今日の科学は物不思議をばあらかた片づけ、その順序だけざっと立て並べ得たることと思う。(人は理由とか原理とかいう。しかし実際は原理にあらず。不思議を解剖して現象団とせしまでなり)心不思議は、心理学というものあれど、これは脳とか感覚諸器とかを離れずに研究ゆえ、物不思議をはなれず。したがって、心ばかりの不思議の学というもの今はなし、またはいまだなし。
次に事の不思議は、数学の一事、精微を究めたり、また今も進行しおれり。論理術なる学は、ド・モールガンおよびブール二氏などは、数理同然に微細に説き始めしが、かなしいかな、人間というものは、目前の功を急にするものにて実用の急なきことゆえ、数理ほどに明ならず、また、修むる者少なし。
(中略)
今の学者はただ箇々のこの心この物について論察するばかりなり。小生は何とぞ心と物が交わりて生ずる事(人界の現象とみて可なり)によりて究め、心界と物界とはいかにして相異に、いかにして相同じところを知りたきなり。
■南方熊楠資料研究会
このサイトは、現在も進行形の熊楠研究のサイトでして、「縛られた巨人」では書かれていないこと、あるいは「縛られた巨人」で書かれていることと反対の事なども書かれていて、特に「南方熊楠邸調査の報告」などは、熊楠の所蔵していた書籍の書き込み等まで細かく調べていたり、研究内容だけではなく熊楠自身の人間性などにも触れていて、熊楠に興味のある人にはたまらないのではないでしょうか。
02年05月10日(金)
天気が良いのでお散歩をしていたら、内田春菊の「クマグスのミナカテラ」が道に落ちていました。
拾い上げて、公園で熟読。
この「クマグスのミナカテラ」は、もともとは「クマグス」という題名で十年ぐらい前に書かれたもので、当時二巻まで出ていたものが、単行本未収録分を含めて一冊の文庫となって出版されたものです。
明治17年以降の日本の一生懸命西洋化時代を舞台として、日本人の可能性の極限と言われた南方熊楠や、その周辺の若者たちを中心に、彼らが新しいものを求めて駆けずり回っている様を描いたお話でして、まあ、青春物とでもいうのでしょうか。
思えば、山田美妙なんて今では埋もれてしまっている文学者の名前(最近また作品集が出たけど)も、この漫画で知ったんですよねえ。
すごく面白かったのですが、単行本が二巻まで出たところでぷっつりと終了。それ以降は待てど暮らせど続きが出版されることはありませんでした。
内田春菊自身が語るところによると、原作があまりにもつまらなかったので、直しを入れる時間を考慮して原作原稿を渡すように編集者にお願いしたのに、それを全然守ってくれなかったからぶちきれて描くのをやめたとのことです。
本当に好きだったのにな、この漫画。残念でなりません。
さて、この漫画、内田春菊が言うには、歴史物というだけでありがたがる人や、映画みたいな漫画をありがたがる人にはとても評判が良かったそうです。
もちろん、皮肉混じりだとは思うのですが。
そう言われてみると、ぼくは歴史物というだけで飛びついてしまうし、映画みたいなコマ割りとか展開の漫画が好きなので、確かにそれは正しいかも。
拾い上げて、公園で熟読。
この「クマグスのミナカテラ」は、もともとは「クマグス」という題名で十年ぐらい前に書かれたもので、当時二巻まで出ていたものが、単行本未収録分を含めて一冊の文庫となって出版されたものです。
明治17年以降の日本の一生懸命西洋化時代を舞台として、日本人の可能性の極限と言われた南方熊楠や、その周辺の若者たちを中心に、彼らが新しいものを求めて駆けずり回っている様を描いたお話でして、まあ、青春物とでもいうのでしょうか。
思えば、山田美妙なんて今では埋もれてしまっている文学者の名前(最近また作品集が出たけど)も、この漫画で知ったんですよねえ。
すごく面白かったのですが、単行本が二巻まで出たところでぷっつりと終了。それ以降は待てど暮らせど続きが出版されることはありませんでした。
内田春菊自身が語るところによると、原作があまりにもつまらなかったので、直しを入れる時間を考慮して原作原稿を渡すように編集者にお願いしたのに、それを全然守ってくれなかったからぶちきれて描くのをやめたとのことです。
本当に好きだったのにな、この漫画。残念でなりません。
さて、この漫画、内田春菊が言うには、歴史物というだけでありがたがる人や、映画みたいな漫画をありがたがる人にはとても評判が良かったそうです。
もちろん、皮肉混じりだとは思うのですが。
そう言われてみると、ぼくは歴史物というだけで飛びついてしまうし、映画みたいなコマ割りとか展開の漫画が好きなので、確かにそれは正しいかも。