昨日から帰省をしていて、両親と甥と、穏やかな時間を過ごしております。
朝起きて、朝食としては豪勢過ぎる食事をして、犬の散歩に行って、昼は甥につきあってお買い物、夜は死ぬほどおいしいものを食べて、お風呂に入って思います、田舎には、朝と昼と夜に明確な区切りがあって、それがとてもきもち良い。一人暮らしをしていると、一日がのんべんだらりと過ぎて、床に入っても一日を終わるという感じがしないし、食事も睡眠も、食欲を満たすため、脳みそを休めるためといった目的のためだけに行っており、それが一日の時間に区切りをつけるためには機能しておりません。田舎では、風呂に入る前と風呂に入った後では、時間の感触が変わります。夜は、静かに、緩やかに、流れていて。
ふかふかのおふとんで、おやすみなさい。
注文しておいたブローティガンの書籍が二冊到着しました。表紙の写真がかっこよすぎて、これだけでも買った甲斐があります。部屋に飾っておこうかしら。
先月の末に会ったある友人は、ダブと大麻でひともうけするために、現在SSS英語学習法なるもので英語を勉強しているそうです。目標はなかなか素敵なのに、その方法がやけにかわいらしかったりするのは横に置いておいて、彼の話を聞いて、ぼくも英語を勉強しなくちゃなあと思いました。せめて辞書なしでぺーパバックをある程度まで読めるぐらいにはなりたいし。っていうか、彼に英語で負けるということは、今のぼくにとって死刑宣告をされるようなものなので、もう少し長生きするためにも頑張らなくちゃ。
夜、モニカ・ベルッチの迫真のレイプシーンで話題になったギャスパー・ノエ 監督の作品『アレックス』を観ました。すごかった。本当に、すごかったです。すごかったとしか言いようがありません。ストーリーや撮り方などがとんでもなく過激なので、受け付けない人もいると思いますが、とても悲しいお話なのです。できればラスト二十分だけを観たかったけど、思い通りにならないのが大人というものです。兎に角も、今日の夜は心地よく眠ることはできなさそうです。
去年の末に読んだジョン・リドリーの『地獄じゃどいつもタバコを喫う』に続けて、もう一冊LAが舞台の小説を読んでみました。ジェイムズ・エルロイの『LAコンフィデンシャル』。『地獄じゃ〜』に書かれているのは現代のLAですが、『LAコンフィデンシャル』は五十年代のLAの警察が舞台になっています。
この作品は、エルロイの「暗黒のLA四部作」の三作目にあたる作品で、映画化もされているのでご存知の方も多いと思いますが、まさしく暗黒と呼ぶにふさわしい五十年代のLA、暴力と金と麻薬にまみれた警察とマフィアと犯罪者しか登場しないばりばりの犯罪小説です。作者のジェイムズ・エルロイ自身も筋金入りの前科者で、ニック・ケイブ曰く「アメリカ犯罪文学界一のタフ・ガイで極右翼ホモ大嫌いロックンロール大嫌いのデカダン作家」で、略歴は以下の通り。
ジェイムズ・エルロイは1948年ロサンゼルスに生まれた。六歳で両親が離婚。母親が何人もの男たちとセックスするのを見ながら育った。十歳の時、母親が茂みの中で片足にストッキングをはいただけの締殺他殺死体で発見される。父親の元に引き取られてからは万引きした三文犯罪小説を読み耽る日々を過ごす。高校を中退して陸軍に入隊。精神異常を装ってすぐに除隊。十七歳で父親が心臓発作で死亡。重度のアルコールとベンゼドリン中毒。強盗を繰り返して三十回もの逮捕歴。ホームレス生活。精神錯乱で死にかけて入院。アルコール中毒者自主治療協会に入る。(スタジオ・ボイスVol246特集「Cool Fiction」より)
上記のとおり、彼の母親はやりまんで、最後には惨殺死体で発見されています。ぼくはいま、「暗黒のLA四部作」の第一作目、『ブラック・ダリア』を読み始めているのですが、その冒頭には次のように書かれています。
母ジニーヴァ・ヒリカー・エルロイ(一九一五—一九五八)に。
二十九年後のいま
この血塗られた書を告別の辞として捧げる
『ブラック・ダリア』は、一九四七年にロスで実際に起こった女性の惨殺事件をもとに書かれています。死体は空地に全裸で放置されており、「腰のところで真っ二つに切断され、顔は痣だらけで口が両端から耳まで切り裂かれ、身体中に残酷な仕打ちが加えられていた。また死体はすっかり血抜き、洗浄もされていた。被害者は、スターに憧れてハリウッドへやって来た二十二才のエリザベス・ショートで、ブラック・ダリアという愛称で知られていた。警察は大々的な捜査を繰り広げたが、事件は未解決のまま現在に至っている」そうです。
ジェイムズ・エルロイの作品は、そのほとんどが翻訳されているので、気合いをいれて処女作から全部読んでみようと思います。でも全部読んでタフ・ガイになってしまったらどうしましょ。
ちなみに、『ブラック・ダリア』も映画化が決定したそうです。とても楽しみ。
デカルト著、落合太郎訳『方法序説』より
第一は、明証的に真であると認めることなしには、いかなる事をも真であるとして受けとらぬこと、すなわち、よく注意して速断と偏見を避けること、そうして、それを疑ういかなる隙もないほど、それほどまで明晰に、それほどまで判明に、私の心に現れるもののほかは、何ものをも私の判断に取りいれぬということ。
第二は、私の研究しようとする問題のおのおのを、できうるかぎり多くの、そうして、それらのものをよりよく解決するために求められるかぎり細かな、小部分に分割すること。
第三は、私の思索を順序に従ってみちびくこと、知るに最も単純で、最も容易であるものからはじめて、最も複雑なものの認識へまで少しずつ、だんだんと登りゆき、なお、それ自体としては互になんの順序も無い対象のあいだに順序を仮定しながら。
最後のものは、何一つ私はとり落とさなかったと保証されるほど、どの部分についても完全な枚挙を、全般にわたって余すところなき再検査を、あらゆる場合に行うこと。
先日、長島さんとお話をしたときに、バーゲンのはなしになって、そういえばもう長いことバーゲンに行っていないなあと思っていたらパルコが昨日からグランバザーだというではありませんか。お給料をもらったばかりのことですし、ちょっくら行ってきました。西田尚美さんという方のこの写真がとても好きなので、同じようなシャツと帽子を買ってしまいました。今年はおしゃれた一年になりそうです。
夜、塚本晋也監督『六月の蛇』を観ました。えろいっ!神足裕司氏を映画でみるのは、『行楽猿』以来です。
「要は、だ」とエディ。「要は人様の好みや生き方を見て、変だの異常だのとは片づけられないってことさ。そいつらはそういうふうにしか生きられないんだから。で、愛か?愛ってのは—」
エディに代わり、俺が最後まで言った。「おかしな形で現れる」
ほとんど観たことがないにも関わらず、個人的な偏見からあまり好きではなかったウディ・アレンの『スコルピオンの恋まじない』を観ました。あれあれ、面白いじゃない。
きみはそうやって理屈に頼って判断するから間違えるんだ。大事なことを判断するのは、頭でじゃない、心でだよ。頭でした判断は心でした判断に勝てない。灰色の脳細胞よりも赤い血だ。血液は体の中を巡ってるから広い視野を持てるんだ。でも脳細胞はでーんと座って考えてるだけ。言ってること分かるかい?『スコルピオンの恋まじない』より
ぼくも催眠術をかけられたい。
本屋さんで『世界No.1の詐欺師が教える 華麗なる「騙し」のテクニック』という本を立ち読みをしたところ、これがなかなか面白くて、作者を見たら映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の主人公のモデルになった人でした。帰りにDVDを借りて観ました。ぼくも人を騙してひともうけしようと思いました。
ところで、次回の鉄割の公演では、役者であるはずの内倉君が全面的に製作に携わるそうです。どうも彼の中では『チャーリーズ・エンジェル』で役者と製作を兼ねたドリュー・バリモアあたりを意識しているらしいのですが、初めての製作で金の流れがいまいちわかっていないようで、いつもは二三万円ですんでいるチラシの製作費なんかも、三十万円かかったと言えば、ぽんと出してくれそうな感じです。こんなチャンスは滅多にないので、適当なデタラメを並べて、我が家のパソコンをG5に買い替えてようと思います。あと、引っ越しの際の敷金と礼金もだまくらかして捻出してもらおうと思います。あと、インド旅行の旅費も出してもらおうと思います。
友人が少ないせいか、街で知人と偶然に会うようなことは滅多にないのですが、先日、書店で『世界拷問刑罰史—どこまで人は残酷になれるのか!?』を立ち読みしながら勉蔵が苦しむ姿を想像していたところ、めずらしく知人から肩を叩かれました。おやまあなどと挨拶をしながら、持っていた本が本なのであたふたと慌ててしまったのですが、知人がまた中途半端な知り合いなので本に対する突っ込みもなく、そうなると余計に気まずいので「いやあ、ちょっとぶっ殺したい人がおりまして」などと余計なことを言ってしまったりして、知人がまた中途半端な知り合いなのでその発言に対する突っ込みもなく、そうなると余計に気まずいので「ちょっとお茶でも」とお誘いしたところ、断られました。
それもこれも全部あのNOVA眼鏡のせいだと、神に復讐を誓いました。
とてもとても具合が悪かったので、早めに床に就いたのですが、胃の上のほうがごろごろして心臓の下のあたりがぼこぼこして夜中に目が覚めてしまいました。水を飲んで、落ち着け落ち着けと胃と心臓に言い聞かせてしばらく様子をみたのですが、一向にごろごろぼこぼこが治まらずに眠ることができないので、そのまま横になってテレビをつけたら映画『風花』が放映していました。
胃と心臓の調子がおかしかったせいか、映画の映像をびんびんに感じてしまい、真夜中にテレビの前に座って映画を観ている状態もそこはかとなく気持ちが奇妙で、ほとんどまばたきをすることが出来ないぐらいに見入ってしまいました。明け方だったので、家の外からは新聞配達のバイクの音が聞こえてきて、それがテレビから流れ出る音と妙に絡み合って、なんとなく次元の縁をさまよっているような感じ。映画のラスト近く、小泉今日子が浅野忠信に抱きつくシーンでは、小泉今日子の腕のラインに泣きそうなくらい感動して、おそらくこの映画を他のどの時に観ても、こんなふうに感じることはないはずだと、映画館で観たとしても、ビデオを借りてきて観たとしても、こんなふうに感動することはなかったはずだと、この感動は、今この時間にこの場所でこの状況で観たからこそ得られたのだと思いました。
多分、今あらためてこの映画を観ても、あんなふうに感動はしないでしょうから、良い恋愛の想い出と同じように、良い錯覚は錯覚のまま、今後の一生にかけて二度と『風花』を観ないようにしようと思います。自分の心の中の素晴らしい映画と現実の作品のギャップに落胆するだけですから。
そのまま映画の余韻にぼんやりとしていたら、いつの間にか眠ってしまいました。