05年05月01日(日)

 先週の金曜日は深夜に六本木でイベントがあって、久しぶりに参加したら帰宅するのが朝の四時になって、すぐに寝て六時半に起きて仕事に行って、帰宅したらげろ吐きそうでした。やっぱ歳ですね、眠らないともろ体調にきます。

 そういうわけでさっさと寝て、朝起きたら昼の二時過ぎ、休日の昼寝坊という大罪を犯して朝から気分が悪い。

 その後、一日読書。

05年05月02日(月)

 昼、読書。

 夜、吉祥寺に向井さんの舞台を観に行きました。実は、向井さんの舞台を観るのは初めて。舞踊自体も、観るのはほとんど初めてかもしれない。とってもかっこよかった。いろいろな人から噂は聞いていたけれど、こんなに感動するとは思っていませんでした。

05年05月03日(火)

 昼は読書。

 鉄割が展示を行っているというので、青山のスパイラルへ。到着して連絡すると、一回のカフェでごはんを食べているとのこと。行くと、たまさんがいてびっくりしました。とても長閑なランチタイム。

 鉄割の展示に関しては、他の方の日記を参考にしてください。スパイラルであんな展示ができるのは、この馬鹿たちだけなのでしょう。まちがいなく。

05年05月04日(水)

 昼は読書。

 六本木ヒルズへで行われているなんとかというイベントに、鉄割が屋台を出していて、さらに公演をするというので、夕方に六本木へ。思いの他しりあいがたくさん来ていました。千景ちゃんのでっかい絵が展示してあって、やっぱりかわいいなあと思いました。

 その後、地上四十階の上空から下界を眺めつつ、こっそりとお酒を飲んで、おいしいカレーを食べて、おいしいパンを食べて、だらーんだらーんとした感じ。こっそりお酒を飲むなんて、中学生みたいだね。楽しいね。

 ヒルズを出て、多田ちゃんと戌井くんとしもんくんとふじいくんと堂々とお酒を飲みに行きました。非常に酔っ払いました。朝の三時ぐらいにお店をでたわけですが、自転車で自宅までの二十キロはなかなかハードなものがあります。

 正直なところ、ぼくは鉄割が世に出ようと出まいとどーでも良いと思っています。けれども、世に出てもらわないと、このような生活にもいつかは終わりがくるわけで、それだけの理由で彼らには売れて欲しいと思っているのです。

05年05月05日(木)

 長島さんのパソコンの作業を手伝いに行きました。昨日のお酒が残っているせいか、あたまがぽわわんとしています。ぽわわんとした頭で、人生と恋愛について、延々と十時間ほど相談にのってもらいました。なにをしにいったのだ、ぼくは。

 長島さんとか、戌井さんとか、向井さんとか、みんな本当にすごいなあと思います。彼らの作業の現場に接すると、芯の強さと言うか、集中力のすごさなんかをとても強く感じます。こんなふうに尊敬できる友だちがまわりにたくさんいることには、神さまに感謝です。しかし、良く考えたら先に挙げた三人の中から戌井さんは除外しても良いような気がし ます。尊敬するには、彼のことを知り過ぎました。

05年05月06日(金)

 昼、仕事。夜は読書。今日の読書は、角田光代・岡崎武志『古本道場』。古本初心者(とは思えないけど)の角田光代さんが、岡崎武志氏の指導の元、古本屋さんを究めるというエッセイです。めちゃくちゃ面白い。

 ぼくは本を読む女性が本当に好きです。村松梢風なんかを古本屋さんで見かけて買ってきるような女性がいたら、たぶんすぐに好きになってしまうと思う。この角田光代という作家さんが、ぼくの身近にいないことは幸いです。近くにいたら、絶対に惚れているから。絶対に求婚しているから。

 ぼくは猫が好きな以上に、猫を好きな人が好きだし、本が好きな以上に、本が好きな人が好きです。ようするに、人が好きです。けれども、嫌いな人は大嫌いです。

05年05月07日(土)

 勝部真長著『青春の和辻哲郎』を読みました。この伝記のテーマは、「人はその在るところのものにいかにして成るか(ニーチェ)」。和辻氏の死により未完に終わった自伝『自叙伝の試み』で書かれた和辻の幼年期から一高時代以降の伝記になります。

「どうだね、面白かったかね」と和辻が聞いた。「うん、大変面白く読んだ。しかし僕は君がアンダーラインをしていないところの方を一層面白く読んだ」と、私は答えた。(中略)和辻はそのことを忘れずにいて、後年、たまたま和辻と私とがこう沼に住んでいた時分、或る日和辻が私の家へ遊びに来て、そのことを云い出したことがあった。「今だから白状するが、僕が創作家になるのを止めて方向を変える気になったのは、あの時の君のあの言葉が大いに影響しているのだ。あの時君は、ぼくがアンダーラインをしていない部分の方を面白く読んだと言ったね。僕はつまりあの文章の中のアイロニカルな警句ばかり興味を感じたのだが、君は小説としての面白味に興味を惹かれたんだ。ぼくはそのことを感じたので自分の天分は小説家には向かないことを悟った。君のあの時の一言は、僕の将来を決定する上に非常に大きな力があった」と、和辻は言った。
谷崎潤一郎『若き日の和辻哲郎』より

 読んでいると、どきどきするぞ。人はその在るところのものにいかにして成るか。

05年05月08日(日)

 リトルモアギャラリーにパフォーマンスを観に行きました。パフォーマンスというものは、よく分かりませんが、分かると気持ちが良いものかもしれないと思いました。

 その後たまさんのところへ。いつもよりも大人数。世界中を旅していて、インドで知り合った人とインドで結婚するという女性とお話をしました。本当に楽しい場所です。

 かえりに、プーさんを背中に背負って走っている男がいるので、誰かと思ったら戌井さんでした。なにか精神的な病にかかっているのかしら、と思いました。

05年05月09日(月)

 最近は古い日本の小説ばかりを読んでいます。一番はまっているのが、中島敦。物語がすごく面白い。藤井くんも絶対に好きだと思う。この人は、中学か高校か忘れたけれど、学校の教科書に載っているということでとても大きな損をしていると思う。国語の教科書なんかに載ってしまったら、面白いものもつまらないものとして記憶されてしまいます。

しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
『山月記』より

 ぼくが今読んでいるのは岩波版の『山月記・李陵』ですが、次はちくまから出ている全集を読んでみたいと思っています。

05年05月10日(火)

 夜、ふとんに入って夏目漱石先生の『私の個人主義』を読みました。個人と国家について述べたこの講演の記録は、ぼくにはまた違った意味で刺激的です。

私が独立した一個の日本人であって、決して英国人の奴婢でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
(中略)
私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新しく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。今は時勢が違いますから、この辺の事は多少頭のある人には能く解せられているはずですが、その頃は私が幼稚な上に、世間がまだそれほど進んでいなかったので、私の遣り方は実際已を得なかったのです。

私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指示してくれたものは実にこの自我本位の四字なのです。

 この部分だけを引用すると、非常に誤解をされそうなので、こちらをどうぞ。

 この本を始めて読んだのは、たしか大学に入ったばかりの頃だったと思います。それから十数年を経て、未だこの「自己本位」に辿り着くことができないでいる自分を反省しながら、おやすみなさい。

05年05月11日(水)

 小学生のおいっこのところへ勉強を教えに行ってきました。教えに、などと偉そうですけれど、実際のところ、教えているというよりも、一緒に勉強をしている感じです。

 叔父としては、彼には答えの分かる人間よりも、分からないことが分かる人間になってほしいと願っています。分らないことも分らないで分ったつもりでいる人間には、ろくなやつがいませんから。

05年05月12日(木)

 吉本隆明著『読書の方法』を読み始めました。冒頭でいきなりこんな文章が。

 自分の周囲を見わたしても、同類はまったくいないようにおもわれたのに、書物のなかでは、たくさんの同類がみつけられた。そこで、書物を読むことに病みつきになった。深入りするにつれて、読書の毒は全身を侵しはじめた、といまでもおもっている。

 ところで、そういうある時期に、わたしはふと気がついた。じぶんの周囲には、あまりじぶんの同類はみつからないのに、書物のなかにはたくさんの同類がみつけられるというのはなぜだろうか。

 ひとつの答えは、書物の書き手になった人間は、じぶんとおなじように周囲に同類はみつからず、また、喋言ることでは他者に通じないという思いになやまされた人たちではないのだろうか、ということである。もうひとつの答えは、自分の周囲にいる人たちもみな、じつは喋言ることでは他者と疎通しないという思いに悩まされているのではないか、ということである。

 後者の答えに思いいたったとき、わたしは、はっとした。わたしもまた、周囲の人たちからみると思いの通じない人間に視えているにちがいない。

 うかつにも、わたしは、この時期にはじめて、じぶんの姿をじぶんの外で視るとどう視えるか、を知った。わたしはわたしが判ったと思った。もっとおおげさにいうと、人間が判ったような気がした。

 吉本さんの言うとおりに、「自分の周囲にいる人たちもみな、じつは喋言ることでは他者と疎通しないという思いに悩まされている」のだとしたら、どうして、人は他者に対してそのような思いを抱くのだろう。書物には共感しながらも、まわりにいる人に共感を抱かないのは、どうしてなのでしょう。それが気になる。

 そして、このような「喋言ることで他者と疎通することの難しさ」を人に喋言っても、それを疎通するのはとても難しいのです。

05年05月13日(金)

 映画『スイミングプール』を観ました。以前にも一度観てるのですが、とても面白かったので再観。前回同様、観おえた後、ぽーっとしてしまいました。なんて良い映画なんだ。

 まず、登場人物の設定がとても素敵です。クライム・ノベルの女流作家でしょ。その女流作家の恋人の出版社の社長のちょー美人の娘でしょう。村のレストランの店員でしょう。わくわくするなというほうが無理と言うものです。映画としても、アメリカ映画の物語性と、フランス映画の映像が融合したみたいでとても良い感じ。本当に好きです、この映画。

 物語をきちんと理解しているかどうか非常にあやしくはありますが、映画のストーリーなんて六割程度の理解がちょうど良いのです。余韻を楽しみましょう。

 見終った後、なんとなくパトリシア・ハイスミスが読みたくなったので、『アメリカの友人』を読みはじめました。

05年05月14日(土)

 向井さんが来るからお酒を飲もうと誘われたので、烏山まで行ったのですが、向井さんは来ませんでした。そこで、いつものメンバーでお酒を飲みました。

 帰宅後、今日何を話したのかまったく覚えていませんでした。記憶なんてそんなものです。

 さて、明日は九州です。

05年05月15日(日)

「都会にはカップルが多すぎる」。友にそう言い残して、ぼくは旅に出ました。

 飛行機に自転車を積んで、リュックひとつでいざ熊本へ。今回の旅行では、熊本から大分へ九州を横断します。初日の今日は、夏目漱石が『草枕』で描いた熊本の地、小天へ向かって走ります。

 熊本空港からバスで熊本駅へ。そこからは自転車で岳林寺へ向かいます。岳林寺からはいきなりの急坂。天気が良くて気持ちがいい。

 しばらく進むと、鎌研坂に到着。

 山路を登りながら、こう考えた。

 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
『草枕』

 『草枕』のあまりにも有名なこの書きだしの山路は、この鎌研坂だと言われています。さすがに自転車で走ることはできないので、押して歩きます。今まで、何度となく想像した山路を歩いていると思うと、なんとも言えない心持ち。

 せっかくですから、なにか考えましょう。山路を自転車を押して登りながら、こう考えた。こう考えた。こう考えた。おっぱい。ちがうちがう。もっと崇高なことを考えましょう。こう考えた。こう考えた。坂道終了。

 大きな国道を進むと、峠の茶屋公園に到着。『草枕』に登場する茶屋は、この鳥越の茶屋と、先にある野出の茶屋を合わせてモデルにしたのではないかと言われているそうです。現在は資料館になっている茶屋を管理しているおばさんがとてもよい感じでした。はい、チーズ。

 路寂寞と古今の春を貫いて、花を厭えば足を着くるに地なき小村に、婆さんは幾年の昔からはい、チーズ、はい、チーズを数え尽くして、今日の灰頭に至ったのだろう。と、漱石を気取ってみたり。

 休日ということもあって、茶屋公園はなかなかのにぎわい。けれども、ほんの少し離れてたところにある鳥越の茶屋跡には、誰もいません。しばし一休み。汗だくです。

 竹林を抜けて、さらに先に進みます。竹林に吹くの風の音が、とても気持ち良い。

 ここから、草枕をそれて少し寄り道をします。宮本武蔵が五輪書を書いたと言われる、霊厳洞へ。目的は、洞ではなくて境内に鎮座する五百羅漢です。

 

 霊厳寺の境内に、野ざらしになっている羅漢の集団の前で、しばし休息。これらの羅漢群は、今から二百年ほど前に奉納されたということなので、それほど古いものではないと思うのですが、それでもやはりかなり崩れています。川越の羅漢なんかと比べると、一体一体に個性がないかわりに迫力がある。

 さあ、先へ進みましょう。野出の茶屋跡へと続く石畳を登ります。ここも自転車は押して歩きましょう。なかなかの勾配です。

 石畳を過ぎて、さらに走ると、ようやく野出峠に到着。岳林寺から始まって、登りっぱなしでしたが、ようやくここまで辿り着きました。天気が良いので、眺めも抜群です。

 ここからは、なかなかの山道です。タイヤがパンクしては困るので、押したり乗ったりしながら、ゆっくり山道を進みます。その先は、下って下って下りまくりです。下りって、登りよりも腕の筋肉を使うので、とてもつかれます。

 本日の目的地、那古井の里、旧前田邸に到着です。夢にまでみた草枕の地。

 その後は、鏡池を観に行って(人家のようなので、中には入らないで、のぞき見たのですが)、草枕温泉てんすいでひとっ風呂あびました。丸一日坂道を登り続けた身体をゆっくりと休めました。有明海をのぞむ展望は、ビニールシートのようなものばかりでいまいちでした。

 それにしても、この草枕の旅の道程は、あまりにも観光地になりすぎていました。まあ、しかたがありませんね。人が場所を小説に書けば、そこは以前の場所ではなくなります。それを書く人が著名であればあるほど、書かれた場所から以前の風景は消えていきます。行く先々に方向を示す標識が設置してあるのは、便利ではありますが興醒めでもあります。本当に非人情の旅をしたいのであれば、人に依らずに、自分で書くことのできる場所を探すしかありません。残念ながら、本日の旅は非人情の旅とは行きませんでしたが、明日以降に期待します。

 夜は玉名温泉のちょっと良い旅館に宿泊しました。温泉に入って、夕食を食べて、近所の足湯場へ行って足湯に浸かりながら、読書を一時間ばかり、旅館に戻った後に横になってもう一時間ほどゆっくりと読書をしようと思ったのですが、ふとんに入るなり、ぐっすりと眠ってしまいました。

こう山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬくらいの事だろう。

 しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。
(中略)
 ただこの景色が——腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。自然の力はここにおいて尊とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。
『草枕』
05年05月16日(月)

 九州旅行二日目です。

 本日は、昨日にもまして登りまくります。阿蘇の北、湯布院近くの温泉まで走ります。予定では、行程100km。距離的には余裕だけど、問題は坂道です。

 国道208号線を東に直進、ただひたすらに走り続けます。30号線に入ったあたりから道がよい感じになってきて、49号線に入ると、ただ道だけが続きます。時おりすれ違う車、農業をしている人々、牛、馬、それ以外にはただ道だけが続きます。最高です。暑いけど、その暑さすら心地よい。

 23号線に入ると、一気に登り坂になります。二重ノ峠に向かって、急勾配を登ります。失敗したことに、峠に入る前にペットボトルのジュースを買うのを忘れていました。峠が始まると、自動販売機なんてぜんぜんありません。太陽はじりじり、汗はだくだく、喉はからから。なのにどうしてこんなに気持ちが良いのだろう。まだまだ余裕があるみたいです。

 二重ノ峠、登頂です。涌き水を飲んで日焼けした両腕を冷やして、少し休んで再び出発。

 赤水から149号線に入り、途中にコスモスロードとかいう道路に入ります。これが間違いでした。向かい風が強過ぎて、ぜんぜんスピードがでません。坂道は好きだけど、向かい風は苦手です。ゆっくりゆっくり進みます。

 途中、自動販売機でお茶を買って、田んぼのそばで一休み。旅館の女中さんが握ってくれたおにぎりを食べます。これが死ぬほどおいしい。

 砂漠のようなコスモスロードを過ぎて、212号線に入ります。とうとう本日の最難関、大観望へ向かいます。二重ノ峠と比べると、陽射しがきつくないぶんには楽ですが、勾配率はこちらの方が(たぶん)上です。ウータン・クランを聞きながら、ゆっくりと登り坂に挑みます。見上げると坂、坂、坂。

 死ぬほどつらい大観望をすぎると、下り坂が始まります。ここからは、長閑でとてもよい道です。小国まではこんな感じでゆるやかな道が続くはず。途中、「そば街道入口」という看板を見付け、脇道に入りました。そこから先はまるで桃源郷、牛が放牧されていて、道はただひたすらまっすぐに。牛の目が、死んだぼくのおじいちゃんにそっくりなことが気にはなりましたが、最高のサイクリングを楽しみます。

「そば街道」ですから、もちろんお蕎麦やさんもあります。雑多にお店が並んでいるのではなく、森の中にぽつんぽつんと蕎麦屋があるのです。これは、寄らないわけにはいきません。お客さんはぼくひとりなので、汗だくでもあまり気にせずに済みました。とてもおいしい古蕎麦をいただきました。写真を撮るのも、まわりを気にしないすみました。

 ここから先は、森の間を抜けて、村の間を抜けて、下り坂が続きます。観光するようなところはほとんどありませんが、風景がすばらしいので、走っているだけでも全然あきません。自転車の速度でないと、こんなふうに景色を味わうことはできないと思います。車でもバイクでも味わうことのできない楽しみ。自転車で来てよかったー!

 小国町を抜けて、坂道を連続連続連続連続して登りきると、本日の温泉宿、はげの湯温泉に到着です。下から見上げると、至るところから湯煙が立っています。つげ義春氏の描いたこの温泉地の絵に惚れて、ここまでやってきたわけですが、予想通りなかなかいい感じの温泉地。最後の最後にとんでもなく急な坂道が現れますが、目の前の湯煙をみていると、勾配もなんのその、ぐんぐんとペダルを踏むことができます。ようやく到着。おつかれさまでした。

 ぼくの泊まった温泉宿は、はげの湯温泉地の一番上に位置する場所にありました。到着してすぐに露天風呂へ。西の空に沈んで行く夕日を観ながら、ゆっくりと温泉に浸かります。ただし、両手は日焼けでひりひりしていて、温泉に入れることができません。バンザイしながら夕日を眺め、まどろみます。

 夕食を食べたあとは、昨日と同様に足湯に浸かりながら読書をしました。この、足湯読書ははまりますね。すごく集中することができます。家の近所に足湯場があったら、毎日通いたいぐらい。

 部屋に戻ると、またばたんできゅーとおやすみなさい。明日は臼杵へ向かいます。

05年05月17日(火)

 九州三日目です。

 鳥の声と風で揺れる樹々の音しかしない中で入る朝の露天風呂は、夕方に負けず劣らずに気持ちいい。本日は臼杵へ向かいます

 はげの湯温泉を後にして、行きに来た細い道をそのまま東へ向かいます。いきなりの登り坂でひーこら。廃屋のような山小屋が並んでいる場所をすぎると、林道が始まります。この辺から道がぐねぐねしていて分りにくくなりますが、本日はとにかく東へ向かえば良いので、地図も見ずにひたすら太陽に向かって突き進みます。

 思いのほか激しかった林道を抜けると、680号線、さらに飯田高原沿いを抜けて、621号線へと走ります。ここからしばらく、田んぼの真ん中に道が続きます。これがちょー良い道で、流れる川の水は透き通っているし、前にはトラクターがすごくゆっくり走っているし、今回の旅行でぼくが一番気に入った道です。のんびりと、ゆっくりゆっくりペダルを踏みます。

 しばらく進むと、再び登り坂が始まります。三日目ともなるとさすがに足が疲れてきました。頭をからっぽにして登ると、日本名水百選のひとつ、男池に到着。ちょうどペットボトルの水がなくなったところだったので、水を汲みに立ち寄ります。ちょっとした森林公園になっているので、少し散歩をしましょう。

 男池を出ると、正午を過ぎていました。今日は少しゆっくりしすぎかもしれません。本日中に臼杵にたどりつかないといけないので、少しペースを早めます。

 ここからは、ただひたすらに走ります。中国の仙人が住んでいそうな渓谷を通り、阿蘇野川を越えて、庄内に到着。大きな国道に出たかと思ったらまたすぐに農道に入り、豊後街道から10号線に入ります。このあたりは、それほど楽しくありませんでした。大きな道路は、好きではありません。

 さらに10号線をひたすら南下、どこかでごはんを食べたいのですが、よさそうなお店がまったくありません。自転車で走るのに空腹はご法度です。以前にそれで集中力をなくして思いっきり電柱に衝突したことがあります。途中でコンビニに寄ってスニッカーズを購入。これでハンガーノックは避けられます。10号線を途中でまがり、またまた坂道に苦しんで、25号線にでます。さらに217号線に入ると、臼杵の石仏はすぐそこ。

 午後四時、ようやく臼杵の石仏に到着しました。

 数年前に、NHKの番組でこの臼杵の磨崖仏を観て一目惚れして以来、ここに来ることはぼくの夢のひとつでした。数年を経て、ようやくの対面です。思ったよりも観光地化していて、それが少しがっかりでしたが、石仏の荘厳さは予想以上でした。けれども。

 NHKの番組でインタビューされていた近所のおっさんは、「子供のころは、いつもそこにあるし、別になんということもない石仏だと思っていたので、中には石仏の上に乗って遊んでいた子供もいたぞいな」という事を言っていました。今のように、修復されて厳重に保護されている状態ではなくて、野ざらしで子供の遊び場になっていたその頃の石仏群を拝したかったなと思いました。ぼくは、博物館に飾られたり、境内の奥の方に厳かに安置されている仏像よりも、道の端などにぽつねんと置かれていて、通りすがりにお祈りされたり、時おり気づいた誰かにきれいしてもらっているような仏像に惹かれます。朽ちるなら朽ちるままに、自然の状態のままにしておいた方が、仏の意にかなっているのではないか、と思うのです。臼杵の石仏は、朽ち果てた状態から長い年月をかけて修復されて今の状態になりました。それはそれで美しいし、感動もします。けれどもそれは、素晴しい仏像を拝したときのあの感動とは、少し違う感動なのです。

「国宝」になった途端に、仏像は本来の意味での仏像ではなくて、美術品になってしまう。それが残念でなりません。

 それにしても、古園石仏群の場所から眺める臼杵の町の眺めがすばらしかった。大きな建物もなく広々としているので、視界の右端の家で犬が吠えると、視界の左端の家の犬が反応して吠えます。遊んでいる子供の声は、遮るものが何もないために、どこまでも通るように響きます。今から百年ぐらい前に、この場所に来たかったなあ。でももし百年ぐらい前に生きていたとしたら、たぶんこの場所の存在を知らずに一生を終えていたんだろうなあ。

 さて、次に向かうのは鷺来ヶ迫鉱泉という温泉場です。臼杵の石仏から、しばらく北上し、途中を農道のような細い路地にはいり、またまた坂道を登り、ひたすら山奥へ進みます。太陽が沈んで暗くなる直前に到着しましたが、あと三十分遅れていたら、おそらく真っ暗闇になっていたことでしょう。あぶないところでした。

 本日宿泊する宿は、江戸時代から続くという、歴史のある湯治の宿です。湯治の宿なので、ぼく以外の宿泊客のみなさんは、ご病気をお持ちでした。湯治の宿なので、夜は8時に温泉が閉まりました。外からは、孔雀の鳴き声が聞こえて来ました。夜中に、急病人がでて救急車で運ばれて行きました。けれども、今回の旅行で泊まった宿のなかでは、この宿が一番気に入りました。鄙びた感じがまた素敵です。宿の主人の話によると、ここに湯治目的で泊まる人は、ひと月ぐらい滞在して、毎日朝夕に飲泉して、昼は近所を散歩して過ごすそうです。本当に山奥なので、散歩をしたら静かでよさそうだなと思いました。湯治でなくても、一週間ぐらい滞在して、昼は散歩して夜は読書なんかの日々を送るのも良いなあと想像してにやにや。また大分に行くことがあったら、是非とも泊まりたい宿です。

 臼杵は、とても良い場所です。

05年05月18日(水)

 九州最終日です。孔雀の鳴き声で目を覚ますと、空はどんよりと曇っています。朝温泉に入って、朝食を食べて、雨が降り出す前に宿を出ます。

 本日は、東京へ戻るために大分空港へ向かいます。天気の様子をうかがいつつ、とりあえず大分まで走ってみます。205号線を北へ北へ、雨が降りませんようにと祈りながら。

 しかし、197号線に入ると、ぽつりぽつりと雨が降り出しました。仕方がないので、コンビニに寄って雨具を購入、ついでに不要な荷物を宅急便で東京に送りました。雨具を身に付け、大分へ向かいます。

 お昼前に大分に到着。雨も小降りになりました。空の向こう側からは太陽の光が見えています。このまま別府まで行ってしまいましょう。

 別府に到着すると、雨は完全にあがり、太陽が出てきました。雨具を脱いで、駅前のロッテリアで少し休んで、別府八湯のひとつ、竹瓦温泉へ。汗を流して、疲れを癒して、さて、空港へ向かいます。

 空港までは、バスで行くことにしました。自転車をばらして輪行バックに入れて、バスに積んでいざ出発。今回の旅行も、とうとうおしまいです。あーあ。

 今回の旅行の総括。
 Le vent se leve!... il faut tenter de vivre!
 風が吹いた!さて、人生を謳歌しましょう。

05年05月21日(土)

 九州でまっくろこげになった手の皮,皮、皮が剥けてきましたよ。べろんべろんです。これはちょっとやばい感じ。

 本日は、六本木スーパーデラックスで鉄割主催のイベントです。主催とはやつらも偉くなったもんだ、しかしどうせお客さんは身内だけだろうと高を括りながら会場に入ると、びっくりするぐらいお客さんが来てくれていました。ありがとうござんす。

 それにしても、いつも思うのですが、スーパーデラックスの公演に来てくれるお客さんたちは、みなさんとても温かい。他の舞台でやるときよりも、お客さんと出演者の距離感がとてもよい感じに思います。

 今後も鉄割アルバトロスケットとKiiiiiiiiiiiをよろしくお願いします。

05年05月22日(日)

 最近、お友だちになった奥さんの個展を観に、アップリンクファクトリーに行ってきました。すごくかわこわいい絵がたくさんありました。引っ越ししたら、お祝いにオブジェをくれやとお願いしたら、丁重にお断りされました。

 その後、浅草へ三社祭りを観に。しげちゃんと奥村くんと合流して、しげちゃんの家でお酒を飲みながら『映像の世紀』を観て、いいかんじに酔っ払って。

05年05月23日(月)

 こんなニュースを発見しました。

■2050年、人間は「不死身」に=脳の中身をPC保存

 うーん、いまいち釈然としません。もう少し具体的な説明が書いている記事がないかと思って調べてみたところ、下の記事を見付けました。多少は詳しく書いてありますが、やっぱり釈然としません。

http://observer.guardian.co.uk/uk_news/story/0,6903,1489635,00.html

We're already looking at how you might structure a computer that could possibly become conscious.

 とか言っちゃってますけど。人間の意識をシュミレーションすることと、そこから現実的に意識を生み出すことの間には、大きな隔りがあるように思うのですが。

 たしかに、脳を完全に物質的・機能的なものとして、意識は脳の機能の一部であると考えると、ニューロンとシナプスのシステムさえ忠実に再現できさえすれば、人の意識もコンピュータ上で再現できるということになるのかもしれませんが、はたして本当にそうなのでしょうか。養老さんは『唯脳論』でこう書いています。

脳は、構造上も機能的にも、それだけで存在する器管ではない。そのために、「神経系」という立派な述語がある。脳は、神経系の一部をなす中枢神経系の、そのまた一部にすぎないのである。

 コンピュータ上に脳の中身をダウンロードしたとして、それだけでこの身体に宿る人間の「意識」が再現できるとは、素人のぼくからするとどうしても考えることができないのです。ピアソンさんはこんなふうに言っていますけど。

'We don't know how to do it yet but we've begun looking in the same directions, for example at the techniques we think that consciousness is based on: information comes in from the outside world but also from other parts of your brain and each part processes it on an internal sensing basis. Consciousness is just another sense, effectively, and that's what we're trying to design in a computer. Not everyone agrees, but it's my conclusion that it is possible to make a conscious computer with superhuman levels of intelligence before 2020.'

 説得力も根拠も何もありゃしません。

 ぼくは、この種の「人間の意識は、最終的にはコンピュータ上でアルゴリズムとして実現できる」という機能主義的な考え方にどうしても抵抗を感じてしまうので、最初から否定的にしかこの記事を読んでいませんが、それをふまえた上であえて断言します。このおっさん、すっげーうさんくさい。

 数年前にテレビで、哲学者の中村雄二郎氏がホストとして、現代の生命哲学に関する番組が放送していました。その中で、人工知能科学の大家、マーヴィン・ミンスキー氏へのインタビューがとても興味深かったので、ふたりのやりとりをテキストにおこしました。もろ話題がかぶっていて、ちょうど良い機会なので、日記にのせておきます。ミンスキーさん、はげのくせに言うことはなかなか強烈ですよ。

(もともと、一般に公開するつもりで書きおこしたわけではないので、実際のインタビューとは語尾や口調が違っていると思いますが、話の内容や双方の主張は変わっていないと思います)

以下、Nは中村雄二郎、Mはマーヴィン・ミンスキー

N 新しい科学技術で、人間が二百、三百歳まで生きられるというふうにあなたは考えていますが、その時に人間の自己同一性、アイデンティティはどこまで保てるのでしょうか?

M アイデンティティと言う概念はとても幼稚だと思います。人間は何百もの部品でできており、脳を除いたほぼそのすべての部品が流動的に変化しています。細胞は常に死に、生まれ変わっています。赤ん坊の頃と成人となった後では、細胞も考え方もすべて変化しています。つまり、我々の「自己」とは単一のものではなく、むしろひとつの「プロセス」に過ぎないのではないかと思うのです。

N わたしが言ったのも、いまおっしゃった事と同じで、人間の状態が同一のものであるという意味で「同一」と言ったのではなく、その人がその人であるということが持続していなければ責任がもてなくなるというか、つまり、状態の持続ではなく、あるところまで行ったら同じ人間であるという持続性を持てなくなるのではないか、ということを聞きたかったわけです。

M 責任と言うコンセプトは、安定した社会を作るために人間が作り出したものであり、すべてが変化していくのであれば、その変化の速度にかかわらず、長期的にみれば、意味がなくなります。ある人の心が常に成長していくのであれば、同じ人の赤ちゃんの時期と大人の時期を比べると、長期的にみた場合、ほとんど共通する点がありません。しかし、短期的にみた場合、すべてが大体同じです。持続性やアイデンティティは、短期的な場合にのみ有効な概念であり、そのような時間によって制限される概念は他にもたくさんあります。例えば都市は、名前は同じでも、百年も経てばまったく別のものになってしまいます。

(明日へ続く)

05年05月24日(火)

 昨日の続きです。

N さきほど、脳はあまり変化しないと言ったが、アイデンティティ、一貫性といったことで考えた場合、あなたにとって脳だけはやはり特別なものなのでしょうか?

M 脳は非常に特別です。すべては脳から生まれてきます。脳こそ、学ぶための機械です。体の他の部分が何かを覚えている、という考え方は間違っています。脳以外の他のすべての部品は入れ換え可能ですが、脳だけは入れ換えることができません。

N 最近アメリカで、死後、脳だけを温存する人々がいるが、このような人々についてどう思いますか?

M 良いアイデアだと思います。人間はもはや魔法的にではなく、機械的に理解できます。我々は人間の神経細胞のネットワークをコンピュータ上に再現したり、人工知能の研究をしています。我々は人間の知識や感覚、気分までも神経細胞のネットワークで生まれると考えているのです。
脳は千億もの神経細胞を持ち、その千倍ものシナプスという小さなコネクションを持ち、そのコネクションの中から人間の心の働きが生まれると考えています。
脳は膨大なコネクションを持つ機械であり、それが心を生み出しています。その上で人間の寿命を延ばすにはいくつかの方法があります。
脳を冷凍保存しておき、将来的に再生させるには、いくつかの方法があります。ひとつは、細胞そのものを修復して、本当に甦らせる。しかしこれは少し難しいでしょう。それよりも確実なのは、脳をスキャンして神経細胞を調べあげ、再現することです。
その他に、寿命自体を延ばすには、DNAの老化の遺伝子を書き換える、などの方法もあります。
最後に、人間の脳の情報をすべて機械にコピーするということが考えられます。それが実現すると寿命はなくなるし、記憶や知識を増やすこともできます。
脳を生物学的にではなく工学的に考えれば、脳を機械に丸ごとコピーし、記憶を増やしたければメモリーを追加するだけということになります。
しかし私は永遠に生きることには意味がないと思っています。なぜなら、永遠に生き続けるとしたら、成長し続けて、物の考え方は変化を続けて、千年もすればまったく別の人間になってしまいます。全く違う人間になってしまうのであれば、長生きする意味がなくなります。それならば、子供や孫に未来を委ねた方が良いと思うのです。

N 不老長寿でないのであれば、死に方という問題が出てきますが、それを含まなければ、自己についての考えということにならないと思うのですが。

M 死に方がその人の人生を反映していると多くの人が考えていますが、それは間違いです。ある意味で、人間も他の動物と同じ様に死を迎えますが、死ぬのは体だけです。人間の場合、その人の思想は、言葉によって他の人に伝えられ、生き続けます。アリストテレスの思想や、彼が生み出した言葉は、現代社会に生き続けています。つまり、文化というものは、人々のつながりによってできますが、人から人へ伝えられて、その人が死んだあとにも生き続けます。
私は、死というものを自然的なものとして受け入れるべきではないと思っています。死は、人間の無限の可能性を制限してしまいます。ユークリッドやアリストテレスは、現代の科学を作りだす能力がありましたが、宗教によってそれができなかったのです。
もし宗教の支配がなければ、現代の科学は500年頃には達していたと思います。
宗教は永遠の生命を約束しておきながら、その支配によって科学の進歩をさまたげ、我々を早死にさせてきました。人々は皆宗教に憤りを感じるべきです。

(明日へ続く)

05年05月25日(水)

昨日の続きです。

N あなたの考え方は、個人というものが基本になっています。しかし人間の生命は人とのつながり、自分ができなかったら子供が、というようなことがあると思うのですが、そのことについてはどう思いますか?

M 個人を越えて生きるものは何でしょうか?それは文化です。都市の中で人々は電話等で意志のやりとりをしています。都市も脳と同じように、何千ものネットワークであり、ひとつの有機体です。そのネットワークの中で、言葉をやりとりしているのです。では、言葉とはなにか?昔は人々は言葉を物ごとを伝達するための道具であると考えていました。しかし、コンピュータの見方でいうと、言葉とはあるアイデアをコピーするためのものです。私が何かを思い付く。これはコンピュータの考え方では、メモリの集合であるわけだから、このメモリをコピーして、他の人々に伝えるためのソフトウェアだというわけです。
ドーキンスという生物学者は、文化も進化すると考えています。動物は生殖の時に遺伝子を交換することによって進化します。遺伝子によって引き起こされる脳や細胞の進化があるように、言葉によって引き起こされる文化の進化があると考えました。
大きな文化の中では、考え方は人々のネットワークの中で進化し、その中では、ある意味で、個人は重要ではないのです。
(中略)
そこで、人間特有の進化のこつが挙げられます。ひとつは、個人の進化で、ある脳が他の脳よりも学習能力が高い時に起こります。しかしもうひとつ、社会の中である考えが他の考えを駆逐したり入れ替わっていく進化もあります。
人間は一人一人が個性をもった存在ですが、見方を変えれば、脳から脳へ考えを伝えるための一員であり、文化の担い手でもあります。文化は生き残りをかけて、助け合い、殺しあいながら個人を越えて進化して行くのです。

 ね、ちょーマッドな考え方でしょ。

 昔の日記でもとりあげていますが、ビル・ジョイというとても偉いコンピュータオタクは、『Why the future doesn't need us』というエッセイを書いて、歯止めがきかなくなりつつある科学の進化と生命倫理の崩壊に警鐘を鳴らしています。けれども、いくら警鐘を鳴らしたって、はげミンスキーには届かないのでしょうね。

 やっぱり、さっさと山に籠るに限ります。

 最後にひとつだけ。勘違いしてほしくないのですが、ぼくは脳の機能的側面を否定するつもりはありません。けれども、それらの「機能性」はあくまでも脳をモノとして考えた場合の脳の作用です。人が何かを視覚的に認識する場合にも、聴覚的に意識する場合にも、言語を使用する場合にも、体を動かす場合にも、脳はその機能を駆使して「意識」への働きかけを行います。しかし、これらの機能が働きかけを行うもの、あるいは逆に、脳の「機能」を使用する主体としての「意識」に関しては、脳科学の研究で解明されているわけではないと思います。そもそも、意識とは一体なんなのか。そもそも、それはモノとしての脳から「のみ」誕生するものなのか。ぼくの知っている限りでは、モノとしてのの脳の研究は、その機能性を解明することに大きく貢献しましたが、コトとしての脳の研究は、まだまだこれからです。PCに脳のネットワークをダウンロードするという行為は、モノとしての脳の研究の成果としては結果を出すかもしれませんが、そこに「意識」が誕生するという意見に対しては、感情的にも倫理的にも、とても強い反発を感じてしまうのです。

物に接するといふ方を申さうならば、一体この物といふのは事と違つて死物である。事の方は事情であるから、千差万別が限りなく、変化百端動いて止まざるものであるが、物の方は、これも万物と云つて際限なく数多いものであるが、はるかに静的である。
幸田露伴『些細なやうで重大な事』

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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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