古本屋さんで岡倉覚三著『茶の本』のワイド版を購入。ワイド版は、欄外が広いのでいろいろな書き込みができて嬉しい。そのままカフェで熟読。全章を通して、すべてに思うところがあるけれども、特に第五章の「芸術鑑賞」にはいろいろな意味で強く感銘を受けました。
覚三さんは、「琴ならし」という道教徒の話を紹介した後に、続けて次のように書いています。
われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する。美術鑑賞に必要な同情ある心の交通は、互譲の精神によらなければならない。美術家は通信を伝える道を心得ていなければならないように、観覧者は通信を受けるに適当な態度を養わなければならない
ここで書かれている「同情(sympathetic)」という言葉は、そのまま「共感」という言葉に、「交通(communion)」は「交感」に置き換えられると思います。共感、そして交感。共感と言うのは、自分が良いと思う作品を良いと思うことではなく、交感と言うのは、自分が感じることのできる作品を感じることではないように思います。それはあくまでも作品と接する自分の態度の問題なのではないでしょうか。
ついこの間まで何も感じなかったものが、今日には強く共感するものになっている、そのようなことに最近よく気づきます。共感の対象は、小説であったり、絵画であったり、音楽であったり、あるいは作品ではなく人そのものであったりするのですが、どうしてそのように共感を覚えるようになったのかといえば、それらの対象に接する仕方が、以前と比べて変化したせいかもしれません。ある対象と対峙して向き合う場合、以前であれば、その対象はあくまでも自分とは別の空間に存在するという前提があり、少し離れた場所からそれらに接するような感じでした。それが最近では、まず始めにその対象の内側へ忍びこんで、自分自身をその中へ置き、自分を包みこんでいるものの手触りの感触を確かめて、その場所の居心地の良さを感じる、そんな風に変化したのです。イメージで言うと、子供の頃に遊園地などによくあったバルーンハウスのような、ぷよよよーんって感じ。それが覚三さんのいう「同情ある心の交通」なのかどうかはよくわからないけれど、『茶の本』を読んでいると、なんとなく書いてあることが身に入るように感じます。
覚三は、宋のある有名な批評家の言葉を引用します。
若いころには、おのが好む絵を描く名人を称揚したが、鑑識力の熟するに従って、おのが好みに適するように、名人たちが選んだ絵を好むおのれを称した
コーヒーを飲んで、ほっと一息つきましょう。
「The Book of Tea」のオリジナルの英文テキストは、Project Gutenbergで読むことができます。ぼくが読んだ訳とは異なりますが、日本語訳の全文は こちらのサイトで読むことができます。このサイトの訳の方が、ぼくは好きです。
ところで話は変わりますが、ぼくの読書の趣味は、ほとんどが偶然によって構成されています。と申しますのは、ぼくの場合、本の大半は古本屋さんで購入するため、本を選択する際に優先されるのは、特定の本を読みたいというぼくの願望ではなく、その古本屋さんに何が置いてあるかという現実の方です。どのような本に出会うかは、ぼくの力ではどうしようもない偶然によって決定されるのです。もちろん、新刊本店でも偶然に本に出会うことはありますが、大抵の場合、それらの本は後からでも購入することが可能です。けれども、古本屋さんで偶然に見かけた本はまさに一期一会、その時に購入をしなければ、もう一生出会うことができないかもしれません。なんてスリリング。
けれども、その制約によって、ぼくは「自分で本を選ぶ」と言う意図を越えて新しい本に出逢うことができるし(もちろん、限定された本しか置いていない古本屋さんで、どの本を買うのかを選んでいるのはぼく自身ですが)、普通に書店で本を買っていては出合わないような本、目に止まらないような本に出逢うことができるわけで、やはりぼくは古本屋さんで本を買うことによって、金銭的な問題以上の恩恵を受けているのだと思います。『茶の本』にしたって、普通に本屋さんに売っていたらぜーったいに買わなかったし。だから好きです、古本屋さん。
帰りは少し遠回りに、ゆっくりと散歩をしました。段々と、夕方の空気が碧みをおびてきましたね。皆さん、いかがお過ごしですか?
今週末から、鉄割関西公演が始まります。関西の方はもちろん、東京で暇ぶっこいている方々も、是非ともご来場をお待ちしております。ぼくは京都公演の方へ行って、公演は観ずにひとりで奈良を散索するつもりです。時期的に、梅雨にぶちあたりなのですけど、雨音に耳を傾けながらの石仏巡りも、なかなか良いものでしょう。
本屋さんで『釈迦と十大弟子』を発見、即購入。十大弟子さん方、かっこよすぎます。すっかりとりこになってしまいました。大報恩寺にある快慶の釈迦十大弟子の像がめちゃくちゃ素敵。行きてー!!
夜は公園をジョギング。空を見上げればきれいな満月。空気も気持ちいい。こころなし、公園の木々も喜んでいるように感じます。ベンチに座っている猫が、走るぼくの姿をじっと見ています。今の生活がいつまでも続きますように、と猫にお祈りしました。
先日、YBBの個人情報流出で逮捕された犯人が、実はBEAMZという名前でセキュリティ関係の書いていたフリーライターだった、という記事です。個人的にはこの事件に興味も何もないのですが、この記事が目に止まったのは、このBEAMZという方が、以前にどこかの雑誌のハッカー向け技術書籍紹介の特集で、彼ひとりだけ井筒俊彦氏の『意識と本質』をとりあげていたからで(だからぼくも彼の名前を覚えていたのですが)、紹介文では「ハッカーになりたいのであれば、この本を読んで精神的にも鍛錬し、無碍の境地へと達して欲しい」というようなこと(うろ覚え)を書いていました。技術書の紹介で『意識と本質』をとりあげることだけでも、関係ないじゃーんと突っこみたくはなりますが、それはともかくとして、無碍の境地も勘違いして会得するとおばかちんなことをしてしまうようです。この書をしっかりと読んで、日々の生活を精進できるように心がけようと思いました。
たまには自炊でもしましょうと、夕食にパスタ・ジェノベーゼを作ることになりました。まず始めはスーパーでお買い物。買い物かごを片手に、必要な食材をみつくろいます。久しぶりの楽しいお買い物です。ところが、前方からタンクトップのマッチョマンが歩いてきたので吐き気をもよおしてしまい、買い物は中止、カフェへ駆け込んでエスプレッソのダブルショットを五杯注文して一列に並べ、右から順に一気飲み、どうにか心を落ち着けることができましたよ。そうか、もうタンクトップマッチョの季節なのですね。おちおち買い物もできやしません。西東三鬼さんは「おそるべき君等の乳房夏来る」などという句を詠んでおりますが、ぼくにしてみれば「おそるべきマッチョの乳首夏来る」です。しばらく読書をして、書に引用されていたゲーテの『五感は誤らない。誤るのは判断である』という言葉にいろいろなことを思い、すこし切ない気持ちで帰宅しました。
今日も満月です。
以前から読みたいと思いつつ、その存在すらすっかりと忘れていたジュノ・ディノズの『ハイウェイとゴミ溜め』を古本屋さんで発見、即購入、帰りの電車の中で読んでみたらとても面白かったので、そのままお茶が飲める場所に立ち寄り、一気読みしました。ドミニカ共和国のスラム出身の彼による、十篇の短篇集。ぼくはジャパンの田舎出身ですが、ノイズな感じに通じるものを感じてしまいましたよ。それにしても、一時期はアメリカのみならず日本でもかなり話題になった彼ではありますが、最近はすっかり名前を聞かなくなりました。著作も今だこの一冊だけのようですし。以前に読んだ新元良一氏によるインタビューでは、次回作は『AKIRA』の黒人版を書きたいなどと言っていましたが、どうなったんでしょうね。是非とも読みたいのですが。
今頃、鉄割の野郎共は関西で暴れているのだろうなーなどと考えると寂しく虚しく悲しくなるので考えないようにして、本日はカフェでゆっくりと読書の日。
まず一冊目は、白洲正子著『かくれ里』。今から五・六年前、彼女の著作『十一面観音巡礼』におさめられている「湖北の旅」を読んで感動し、そのまま湖北へ十一面観音巡礼の旅行に行きました。そして旅先で恋に落ち、心に傷を負って帰って来たのです。というのは嘘ですが、今回はこの『かくれ里』を読んで、奈良の葛城あたりへ行こうかと思っております。京都はどこへ行っても人がごみごみとしているのでいけません。奈良の、観光地から離れたあたりの小さな村を、ゆっくりと散索したいと思っています。雨だけど。
二冊目は久住昌之作・谷口ジロー画『孤独のグルメ』。本屋さんのお薦めコーナーに平ずみになっていたので買ってみたのですが、やられました。素晴しい作品です。物語は、主人公である井之頭五郎が、仕事で訪れた先の町々の飲食店で食事をするというだけのものなのですが、これが最高におもしろくて、最高にうまそうなのです。登場するお店は大仰な店ではなく、ほとんどがグルメ雑誌などには載らないような飲食店ばかり。井之頭五郎は常にひとりで、何を食べようか考えながら町をぶらつき、その時に思い付いた一番食べたいものを食べます。ぶた肉いためライス、廻転寿司、豆かん、焼きまんじゅう、シュウマイの駅弁、たこ焼き、焼き肉、江ノ島丼、ウィンナー・カレー、コンビニ・フーズ、デパート屋上のさぬきうどん、などなど。そして心の中でこっそりと(うまい)と思うのです。声には出さずに、余計な修飾語を付けずに。読んでいて面白いのが、この、食堂にたどり着くまでの、そしてたどり着いてからの井之頭五郎の心の中で、あれにしようかこれにしようかと考える心の独白を読んでいると、それだけでお腹が空いてきます。はらへった。
うれしかったのが、井之頭五郎が石神井公園にも来ていることで、彼は公園を歩きながら「こりゃあ井之頭公園や代々木公園とはまるで違う雰囲気だ。やぱりどこの駅からも遠いし、近くに大きな繁華街がないせいかな。来ている客層が違うよ。年齢層もファッションも」などと思い、公園の休憩所「豊島屋(作品中では豊玉屋になっていましたけど)」でカレー丼とおでんを食べます。そして食後に一服、眠くなるのをこらえながら公園を後にし、帰りのバスのなかでうたた寝する。これです。石神井公園の正しい楽しみ方。なんだかうれしくなっちゃう。
さらに巻末に掲載されている、「入ったことのない飲食店に入る時、ある種の『勇気』がいるのはなぜだろう」という書き出しで始まる久住昌之氏の『釜石の石割り桜』というエッセイがまためちゃくちゃ素敵です。この本、十冊ぐらい買って友だちに配ろうかしら。と思うぐらい、面白い本でした。全一巻じゃ物足りないよ。
さて、ちょっと一休み。今号の『ku:nel』を読みます。宮脇彩という主婦の方の「ただいま食事中。」というフォト日記がとても面白い。というよりも、美味しそう。ああ、料理ができたら、ぼくの人生はもっともっと充実していたのだろうに。無器用で味覚音痴のこの身がうらめしい。
その後はいろいろと調べ物や勉強の時間です。まったり、まったりと。一週間のうちで、一番に脳を酷使するとても楽しい時間。
夜、今年初めての桃をいただきました。うまい。鉄割のやつらは今頃、まさにこの時、関西で暴れていることでしょう。悲しい。でも、桃がおいしいので幸せ。
どうやら梅雨が始まったようです。さっさと安吾に入りたいものですが、日々の繁雑な生活に追われる身としては、そういうわけにはいきません。本日も繁雑な私用のために銀座へ行きました。
用事をすませた後、時間があったので、なにか映画でも観ましょうかと銀座をぷらぷら。最初にみつけた映画館で『みなさん、さようなら。』を観ました。映画としては、人によってかなり意見に相違が出る作品だと思います。映画の登場人物たちの人生や行動、主人公であるレミの最後の選択、あるいは全体に漂うスノッブな雰囲気などなど。けれども、ぼくはとても感動しました。
物語は、余命いくばくもない父親レミと、破天荒な父の人生を許すことのできない息子セバスチャンと、その友人たちのお話。しんみりとしたお話かと思いきや、出てくるおじさんはホモとか巨乳好きばかりだし、出てくる女性も元やりまんだったりジャンキーだったり。主人公であるレミも、元は大学の教授ですが、手を出した女生徒は数知れずというやりちんおじさん。大学では歴史学を教え、キリスト教とナチスが大嫌いという素敵なじじいです。レミは、収入は少ないけれど、ワインと映画と書物と女性に囲まれた、とてもうらやましい人生を送ってきました。そして、とてもうらやましい最後を迎えます。
前半は、レミとセバスチャンのやりとりがとても面白く、後半はレミの友人たちとの会話が絶妙です。雑談のひとつで、レミは人生で愛した女性について述べます。初恋の相手はイネス・オルシーニ。ムッチリとした白い太股を持つイタリアの女優。次に愛したのが、フレンチ・ポップスのアイドル、フランソワーズ・アルディ。次が女優のジュリー・クリスティ。その次がテニス・プレイヤーのクリス・エヴァート。そしてバレリーナのカレン・ケイン。頭の中で彼女たちと愛し合い、まあようするにオナニーをして、とても幸せだった、とレミは言います。ああ、なんかいいなあと思いました。そして最後、レミは薄れて行く意識の中で、イネス・オルシーニの映画のワンシーンを思い浮かべます。海に入って行くイネス・オルシーニ。はずかしげにスカートを捲くり上げ、その奥から美しい太股があらわれる。レミが初めてオナニーをした映画のシーンです(たぶん)。ただのえろおやじと言われてしまえばそれまでなのですが、その場面がとても良くて。うう。
ちょっとだけ気になったのは、不治の病(劇中で病名は出てきませんでしたけれど、おそらく癌)におかされているはずのレミが、まるまると太っていてとても健康そうだったこと。それから、レミのために集まってくれた仲間たちにはこれから順にお迎えが来るわけですが、最後のひとりになってしまった方はとても寂しいだろうなとも思いました。それは、いやだなあ。
帰りに、駅の構内から外を眺めると、空は晴れているのに小雨が降っています。雨の降り方がいい感じ。キツネの嫁入り、ってやつですね。
明日からの旅行にそなえてというわけではないけれど、堀辰雄の『大和路・信濃路』を読みました。もう何度読んだのか知れないほどに読みかえしたこの随筆(と恋人への手紙)は、今でも読む度に新しい感動を与えてくれます。ぼくにとって、とても大切な一冊。今の時代では、堀辰雄と言う作家はダサい作家の分類に入っているのかもしれませんが、ぼくはあらゆる意味において、未だにこの方の影響から抜け出すことができません。『雪の上の足跡』なんて、ほとんど暗記できるほどに読んでいるけれど、何度読んでも涙なくしては読めましぇん。こんなキザなチビが身近にいたら、絶対にいじめてしまうと思いますけれど。
さあ、わたしもあの石仏のことは何もきいておりませんが、どういう由緒のものですかな。かたちから見ますと、まあ如意輪観音にちかいものかと思いますが。……何しろ、ここいらではちょっと類のないもので、おそらく石工がどこかで見覚えてきて、それを無邪気に真似でもしたのではないでしょうか?『大和路/樹下』
「石工がどこかで見覚えてきて、それを無邪気に真似でもした」ような石仏に、奈良で出会えますように。そして恋人に手紙を書きましょう。未来の恋人に。
奈良をお散歩。一日目は石仏の里と呼ばれる当麻のあたりをぶらぶらと歩きました。一日中、どんよりとした天気ではありましたが、小雨の中、人のいない畔道を歩くのはなかなか楽しくて、ちっとも苦ではありません。浄瑠璃寺奥之院不動へ至る山道と、浄瑠璃寺から岩船寺へと続く畔道に点在する石仏がとくに良かった。
二日目はかくれ里葛城を散策。出発点となる風の森まで、京都から乗り継ぎに乗り継ぎを重ねて、約三時間(ちなみに、東京から京都まで新幹線で二時間ちょい)。昨日とはうってかわっての快晴。高鴨神社からさんざん歩いて素敵な家並みの坂を上って八幡神社で一休みして、高天原を経由して人のいない山道を登って蜘蛛窟で少し淋しい気持になって、高天彦神社で紫陽花を堪能して、続く畔道に心が嬉しくなって橋本院を経由して極楽寺はいまいちで、住吉神社もいまいちで、途中の冗談みたいなコンビニで魚肉ソーセージとチョコレートを買って食べて、一言主神社では一言だけ願いを叶えてくれると言うので「愛をください」とお願いをして、高丘宮跡で夕方の風に吹かれたら泣きそうになって、九品寺でびっくりするぐらいのお地蔵さんに囲まれて、下に拡がる街並みを眺めていたらすっかり陽が落ちて来たので少しペースを早めて、駐車場の一画の六地蔵石仏まで辿り着きました。足が痛い。昨日の雨にすっかり油断していたので、からだ中日焼け気味です。
夜は京へ戻って、疲れている様子の役者どもと一緒にお酒を飲んで、中島弟君を罵倒してスッキリしたところで眠りにつきました。
昼間は歩きまわってくたくた、そんで夜は鉄割アルバトロスケットの公演です。今回は男六人だけの少人数公演。この人たちが面白いのかつまらないのか、あまりにも深く関りすぎているので客観的な意見を何も言うことができませんが、彼らが舞台の上で傍若無人に騒いでいるのを観ていると、(特に少人数のときは)やっぱりぼくも一緒にやりたいなあと思ってしまいますな。やらないけど。
上演したのは以下の演目です。この他にも二、三ありますが、写真を撮っていないので省きました。写真と演目が異るものもありますが、面倒なのでこのままにしておきます。
「ケンちゃん曼陀羅」
「けんちゃんは神様」
「もう一回!」
「けんちゃんは神様」
「もう一回」
「けんちゃんは神様」
「死んだカナリア」
「死んだカナリアはいりませんかあ〜」
「死んでるの」
「死んでます」
「そう」
「静かです、鳴きませんから」
「流行ってるの」
「流行ってません」
「鴨の踊り」
「向こうの畔に 鴨がひゃっぱっぱ 子鴨がひゃっぱっぱ なんでもあの鴨とらまえよう」
「ズバット本質」
「おいおいおい、ズッバッと本質つかめよ、トータルコーディネートだとか色合いとか、蕎麦の食い方やイタリアンなんて、どうだっていいじゃねえか!ズバッと本質だよ、今、てめえは何を食いたいのか、食っちまえよ油揚!裸になりたいのか、なっちまえよ裸!」
「光の束」
「オヤオヤオヤ、さっきからミ〜ンミ〜ン聞こえるやろ」
「なるほど、耳鳴りですか」
「ちゃうで、この場の空気を感じてるんや、そんで、なんだか光の束がコ〜ウ一直線に目の中に入ってきてるねん」
「お部屋訪問」
「うわ〜、凄い奇麗じゃないですか」
「いや、だからね、あの〜、・・・・・・掃除をした結果こうなった」
「凄いじゃないですか、チリ一つ落ちてませんよ」
「いやだからね、あの凄かったの本当は、だからね、つまり、あの掃除をした結果こうなった」
「世界のフライトショー」
「只今、飛んでまいりましたのが、ガンジャバードでございます、プカリプカリと煙りの如く、ゆるやかにゆるやかに、飛んでおるのでございます」
「上野発の夜行列車」
「体操大会」
「ワンツ〜サンはい! 右行って左行って、ぐるっと廻って、そのままお前等は笑ってろ!」
「ジョン刑事とニック警部」
「事件だ〜あ」
「玄海灘」
「あ〜エンヤットット」
「玄界灘でとれるっしょ!」
「エンヤットットエンヤットット」
「ゆでたまごの秘密」
「お〜う、見てくれ、卵だ、いまから、コレの不思議について、少しばかり講釈すっからな〜、まずコノ卵、そちらの方に、おもいっきし投げつけるから、いいか〜覚悟しろよ〜、行くぞ〜、これ割れたら事だからな、ビシャッテ、黄身が散って、ヌルヌルだからな、行くぞ〜、ワン、ツー、スリー!」
「世界の隅」
「・・・、え、このTシャツはパティスミスなのポールスミスなの」
「いやあ、わからん」
「えっ、だって、何処で買ったの?」
「カメラのキムラ」
「えっ、なに、カメラでかったの」
「200円、ワゴン」
「めん」
「パーマかけたんだけど」
「・・・・・麺じゃん」
「麺パー」
「なんだよそれ」
「こうしてる俺、エロスとタナトスの狭間で、これこそパーマネントではなかろうか、俺、永遠に生きるような気がしてるんだ。今!」
「けいさんさん」
「イェーイェー」
「6」
「ん〜、三たす三」
「8」
「ん〜、5+3」
「3」
「2+2 あ、ひく1」
「指切りあんま」
「いまから俺が指を切り落とすから、一本につき、お前一万払え」
「えっ今から」
「ああ」
「病院の手配とかした?」
「お前がしろ」
「わかった、け・ど、えっ、一本に付き百円?」
「ドントピスアラウンド」
「映画制作」
「あの俺、監督になっちゃったから」
「かんとく〜」
「うん」
「なんの監督だ弁当屋の監督か、さしずめ、鯖寿司、寿司ズメ次郎」
「・・・これだよ」
「を、それは300分の1スケール戦艦ヤマトのプラモじゃねえか」
「歌合戦」
「有象無象のはびこる世の中、その有象無象の究極系が穀潰しともうしましょうか、この世の中においって全く役に立たない輩どもがおります、しかしながらそんな奴らにも一応主義主張というものがありまして、本日はそんな奴らの主義主張を唄にして歌っていただき、誰の主張が一番心に響いたか、皆様に審査していだこうと思います、では、穀潰しども出て来い」
そういうわけで、次回の公演は7月11日になります。よろしくお願いします。
東京都美術館で開催されている『栄光のオランダ・フランドル絵画展』へ行き、フェルメールの『画家のアトリエ』を鑑賞し、その後銀座で『真珠の耳飾りの少女』を観ました。人気ゲームがアニメになったみたいな、ちょっとした異和感を感じつつも、フェルメールのファンのために撮ったような映画ですから、つまらないはずがありません。全体に漂うフェルメール絵画の光を意識した映像はとても美しいし、16世紀のデルフトの雰囲気も最高だし、物語も面白いし、大満足。
フェルメールの作品は大好きなので、できれば往生するまでに彼の絵画をすべて鑑賞したいと思っています。今までに観ることができたのは、現存する(といわれている)36作品中、今日の『画家のアトリエ』を含めて13点、そしてその中のひとつが映画のタイトルにもなっている『真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)』です。それまでも作品集やレプリカなどで何度も観てきた作品なのですが、実際に眼の前にしてみると、ターバンを捲いている少女の表情が印刷物のそれとは全然違っていて、あまりのかわいらしさに絵の前から動くことができませんでした。映画の中で、主人公の少女を演じるスカーレット・ヨハンソンがフェルメールから唇を濡らすように指示をされるシーンがあって、そのシーンがとても良かったのですが、ひとつだけ不満を言うと、ヨハンソンの唇はちょっと分厚すぎます。この『真珠の耳飾りの少女』の唇はほんとうにかわいらしくて、日本人には結構多いタイプの唇なのですが、上唇は下唇よりも薄くて、下唇はぷにっとしていて、薄く輝いていて、それがとんでもなくかわいらしい。ヨハンソンはとても美しいし、映画の中でもとても自然に主人公の少女を演じていたし、大好きなのですけれど、絵画の少女と比べてしまうと、少しだけ唇が下品なのです。あれ。どうしてだろう、涙が出てきた。
夜は自宅で『ヒヤシンス・ブルーの少女』を読みました。とても充実したフェルメールな一日。おやすみなさい。