京極夏彦の『魍魎の匣』読了。『姑獲鳥の夏』とはまた違ったおもしろさで、後半はぐいーぐいーと引き込まれて一気に読んでしまいました。
小説を読みながら、登場人物のあるひとりが抱いていた夢、というか取り憑かれていた恐ろしい妄想と同じことを考えている実在の科学者のことを思い出しました。この種の小説は、下手なことを書くと犯人やトリック(?)がばれてしまう恐れがあるので、内容に関してはあまり触れることができません。気をつけて書くつもりではありますが、『魍魎の匣』をまだ読んでいなくて、これから読もうと思っている人で、且つ勘の良い方は此処から先は読まないほうが良いかも知れません。もしかしたら、物語の中のトリックがわかってしまうかもしれませんから。
何年前か前に、NHKで『自分とは何か?生命哲学が問い掛けるもの』という番組が放映されました。ホストは哲学者の中村雄二郎さんで、最先端の科学技術と科学者にインタビューをして、現代科学から人間という存在、延いては自分という存在について考える、という内容でした。
こうやって文字にして読むと、くそつまらねーとか思うでしょう?けれど、科学という観点からだけではなく、哲学の観点からも考えるという点で、なかなか刺激的で面白い番組でした。
その中で登場する科学者一人に、ロボット工学や人工知能技術の権威であるマーヴィン・ミンスキーがいます。彼は「心を持つ機械」について、熱く語ります。
ここで言う「心を持つ機械」とは、文字通りの機械、つまり人工知能とそれに付随する工学を意味しますが、ミンスキーはそれとは別に、もう一つの可能性を語ります。それは、人間の脳を生物学的にではなく、工学的に理解し、脳のニューロンとシナプスのネットワークをすべて解析して、それをコンピュータ上に復元し、人間の意識をコンピュータ上に再現するということです。思考の速度を上げたければCPUを高速なものにすればよいし、記憶力を上げたければメモリーを買い足せば良いのだ、肉体的な制限からも放たれ、寿命も数百年、数千年になると彼は言います。
人間の脳というのは、なにも奇跡なんかではありません。人間の心は、何か別の次元のものであると考える必要はないのです。脳は、膨大なコネクションを持った一個の機械で、それが心を生みだしているのです。
アメリカには、事故や病気で死亡した場合に、再び復活する技術が確立するまで、遺体や脳味噌を冷凍保存しておくための企業が多数存在します。彼らが将来復活する際に、生身の肉体を持った人間として復活するという選択肢のほかに、脳の神経細胞が作り上げるネットワークをスキャンして、コンピュータ上に意識として復活するという選択肢もある、とミンスキーは言います。
以前の日記でビル・ジョイのエッセイを紹介したときも書きましたが、このような人間の意識と肉体をコンピュータで再現するという技術は、今日では決して夢物語でも、不可能な話でもありません。世界は、クローン技術のような問題には過敏なほど倫理的に反応するのに、この手の問題にはあまり反応しません。人間が自らの手で人間という物質的な存在を作り上げることが罪であるならば、人間が人間の意識をゼロから作り上げるということもまた罪であるということにはならないのかな。
『魍魎の匣』の中で、京極堂は以下のように言っています。
「意識は脳だけで造り出されるものじゃない。人間は人間全部で人間なんだ。脳髄はただの器官だ。部分的に欠損した場合は幾らだって補えるが、脳だけ取ったって何も残らない。体と魂は不可分なんだ。脳髄は部分だ。脳が人間の本体だなんて考えは、魂が人間の中に入っていると云うのと変わりのない馬鹿馬鹿しい考えだ。この世がなければあの世があり得ないように、肉体がなければ心もない。」
ミンスキーはさらに、宗教が科学の進歩を妨げた、と言って宗教に対する嫌悪感を露にします。古代ギリシアの自然哲学者達は、十分に現代の科学を理解する能力があったが、それを妨げたのが宗教であり、その支配が無ければ、西暦500年には人類は現代の科学技術にまで達していただろう、と言うのです。
宗教は、人々に永遠の生を約束しました。しかし皮肉なことに、科学の発展を阻害し、批判させないようにすることによって、実際には私たちが永遠の生を得ることを妨げ、私たちを早死にさせているのが実情です。人々は、もっと宗教に憤りを感じるべきであり、生きること、死ぬことが自然のサイクルであるという古くさくてばかばかしいアイデアを受け入れるべきではないと思います。
ミンスキーは、人間がほかの動物と異なるのは、文化というものを作り上げる点だ、と言います。しかし、ここで彼が言う「文化」は、「生きる」ということが前提になっています。「少しでも長く生きる」ことを懇願し、「少しでも多くのことを考える」ことを切望し、「すこしでも先へと進歩する」ことを目的として生きている人々による「文化」なのです。ミンスキーが求める科学は、そのような彼らにとっての科学であり、「死」という決して逃れることのできない運命を受け入れ、短い人生を少しでもより良く生きようとする人々にとっての科学ではないのではないか、などと思ってしまいました。
「科学は技術であり、理論であって本質ではない。科学者が幸福を語る時は、科学者の貌をしていてはならないのです。至福の千年王国などと云う科白はーあなたが口にして良い言葉ではない。」『魍魎の匣』で京極堂の決め科白。
生誕百年ということで、最近やたらと耳にする北園克衛さんですが、ふと気がつけば北園克衛.comなんてものまで出来ており、詩集「若いコロニイ」と「黒い火」が公開されております。
さらに生誕百年を記念して、なにやらイベントも開催される様子。キットカットがプチブームです。
北園克衛や西脇順三郎というと、前衛詩人として知られているので、「ああああわわわたしししししはここここことばばばばのうみみみみみみみみ」とか「ちんちんちんこちんこちんちちんこ」とか、訳のわからない詩を書いているのでしょうという誤解を受けていることがありますが、実験的な作品の他にも、皆さんとても素敵な詩を残しているのです。ぼくは学生時代から彼らの詩の大ファンでして、今でも五年に一度ぐらいは詩集を開いて愛読しております。
風が
さはやかな午後のアヴェニュをふいてゐた
あなたの眉は細く
アラビヤの地平線のやうに
かなしかつた
そして
あなたの日日は
僕たちの泪に縁取られた
ゲンスボロオの美しい一枚のミニアチュルでした
ね
ではさやうなら
あなたの優しい皮肉なわらひ
そしてわたしの嘘のセンチメンタルを
いま
なつかしく思い出しながら
秋風の街を僕はあるいてゐる
すこし哀しく
疲れて『ELEGIA』 詩集『砂の鶯』より
この詩なんか、すごく良くないですか。昔、この詩を手紙に書き写して恋人に送ったら、字が汚くてうざいということを言われたことがあるのですが、字の汚さよりも内容を読んで欲しかった。1900年前後に生まれて、戦前のシュールリアリズムやダダに洗礼を受けた前衛詩人さんたちは、みなさんとても良い詩を書いているのです。
たとえば西脇順三郎なんかはこんな詩を。
黄色い菫が咲く頃の昔
海豚は天にも海にも頭をもたげ
尖った船に花が飾られ
ディオニソスは夢見つつ航海する
模様のある皿の中で顔を洗つて
宝石商人と一緒に地中海を渡つた
その少年の名は忘れられた
麗らかな忘却の朝
西脇順三郎『皿』
学生の頃にある先生が、西脇順三郎の詩を楽しむには、「(覆された宝石)のような朝」という一文を読んだときに、「覆された宝石」のような「朝」をイメージ出来ないと駄目だ、と言っていました。さらに、覆された宝石が括弧に入ることによって朝のイメージが変わってしまう、そのような絶妙な機微を味わうことだ、とも言っていました。
高橋新吉さんは、ちょっと男らしいので北園さんや西脇さんほどにははまりませんでしたが、それでもやはり好きな詩人のひとりであります。
留守と言へ
ここには誰も居らぬと言へ
五億年たったら帰ってくる
高橋新吉『るす』
この詩はとても有名なので、ご存知のかたもいらっしゃると思います。素敵でしょう。
この方達、書く詩も素敵ですけど、見た目もとても良いのですよ。やっぱり詩人です。文学者って、なんだかんだ言ってもやっぱり滑稽さが漂うじゃないですか。こいつらは本当にむかつくほどにダンディなのね。
右から、西脇順三郎、北園克衛、高橋新吉なんですけど、カッコつけてるでしょう。高橋さんのしかめ面とか。もう。
ではさやうなら
先日、古本屋でヴィム.ヴェンダースの『アメリカの友人』の原作である、パトリシア・ハイスミスの『アメリカの友人』を購入しました。ヴェンダースの作品『アメリカの友人』は、登場人物などは原作と同様ですが、ストーリーが原作と大きく異なっていて、それ自体でひとつの独立した作品として完成していましたが、もともとはハイスミスの処女作『リプリー』のシリーズの一作として書かれたもので、映画『太陽がいっぱい』でアラン・ドロンが演じ、映画『リプリー』でマッド・ディモンが演じたトム・リプリーというひとりの人物の物語を描いたものです。
さてそれでは読み始めましょうか、と思っていたらいきなりニュースが。
映画の作品名は『Ripley's Game』で(邦題不明)、原作のタイトルそのまんまです。先にも書いた通り、ヴェンダースの『アメリカの友人』は原作と大きく異なっているので、『Ripley's Game』が『アメリカの友人』のリメイクということにはならないようです。『リプリー』はとてもお気に入りの映画なので、『Ripley's Game』もとても楽しみ。
っていうか、『アメリカの友人』って、僕の周りではとても評判が良いのですが、いまだ観ていないので、そちらを先に観ておきます。
渋谷にある素敵な創作和食料理屋さんで、お友達のお誕生日会を行いました。
素敵なお友達のお友達はやはり素敵な方々で、とても素敵な面子でのお食事会となり、素敵の中で浮き足立ったぼくは、お下品な話題は控えめに、ガブガブとお酒を胃の中に流し込み、しこたま酔っぱらっちまいました。それでも気分は悪くならず、なんだぼくはまだまだ若いんじゃん、まだまだ全然いけるじゃん、と調子に乗り、良い気分でカラオケなどを歌い、真夜中に帰宅しました。
しかし、年というものは誤魔化せないものでして、翌日、気がつくといつの間にか目を覚まして天井を見つめておりました。ぼくは一体いつの間に目を覚ましたのだろう。手を動かそうとしても、足を動かそうとしても、思うように動いてくれません。そのままの状態でしばらく天井を見つめ、ようやく体が微妙に動き出した頃にのそりと起きだし、洗面所に向かいました。そして、洗面所の鏡の前に立って驚愕しました。
鏡の中から、五十代とおぼしき七三の初老の男性が僕をじっと見つめていたのです。
よく見ると、それは鏡に映った自分自身でした。お酒を飲んだ翌日というのは、寝起きの顔がひどいものになりがちですが、それにしてもこれはひどすぎる。ああ、ぼくも年を取ったなあ、とつくづく実感いたしました。
そんなことを考えながら顔を洗い、歯を磨いていると、ふと吉田健一の『鬢絲』というエッセイを思い出しました。吉田さんはこんなふうにエッセイを書きだします。
この間、髭を剃っている時に鏡を眺めて、自分も本式に年を取って来たと思った。髪に白髪が混じっていて、その上に二日酔いの朝だったので皮膚から光沢がなくなり、皺も深く刻み込まれて、来年は五十になる人間そのままの顔がそこにあった。年を取るのに、随分掛かったものだという気がする。
エッセイの中で吉田さんは「若い時にうかうかしていると直ぐに年を取ってしまうという種類のお説教も、全く無意味なものに思われた。こっちが早く一人前になろうとあくせくしている際に、何が若いうちが花で、なにがうかうかなのか」と若き日の焦燥を振り返ります。吉田さんのような方でも、五十を前にするまで年を取ったという実感を得ることが出来なかったということを考えると、無為な日々に焦燥も感じることも少ないぼくのような若輩者が、二日酔いの顔を見て年をとったと感じるのはちゃんちゃらおかしい、非常におこがましいことにように思えます。
時間は少しづつしかたって行かなくて、自分がしたいような仕事は大して出来ず、或は、偶に出来ることがあっても、それがすんでしまえばもう別にどうということはなくて、これはもどかしいなどと形容することですむものではなかった。不思議に、今死んでしまったらどうだろうとは考えなかったのを覚えている。いつまでも生きていることになっているようで、それがそう思っていた当時と同じぎくしゃくした月日が無限に未来に向って続いていることを意味したから、その点だけでもうんざりだった。
仕事が出来ずとも大してもどかしさを感じない自分が悲しくなります。精神が成長せずとも、それでも時とともに肉体だけは相応に年をとっていくわけですから。「成長」という言葉は、ぼくにはとても重たく、辛い言葉なのです。果たしてぼくは、五十を前にして、鏡の前で如何に自分の青年期を思うのだろう。
しかしダンディーだな、このおじさん。
今月号のユリイカは「ブロンテ姉妹」特集です。
そんでは『ジェーン・エア』の映画を観てみましょうと、ビデオレンタルで異なるバージョンの『ジェーン・エア』を三種類ほど借りてきました。いやー三本連続はきつかった。
個人的に一番良かったのは、映画としては一番新しいシャルロット・ゲンズブールの演じたジェーン・エアで、個性的な顔をしているけど決して美人ではないというジェーンのイメージにぴったりで、仕草や表情なんかも完全にジェーンそのものでした。観ているだけで気持ちが良い演技というものがありますが、彼女の演技はまさしくそれでして。ああ、素敵。
シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』は、文学史上の古典や名作をほとんど読まないぼくが通読した、数少ない名作のうちのひとつです。昔、好きだった女の子に勧められていやいや読み始めたのですが、あっという間に夢中になってしまいました。ジェンダー的な読み方なんて、これっぽっちもしなかったけど。
また、現在持っているよりも、もっと多くの実際的な経験を欲し、わたしのような種類の人たちと、ここで接しているよりも、もっと多くの交渉を持ち、もっといろんな性格の人たちと、知りあいになりたいと願った。わたしはフェアファックス夫人の美点を尊重し、アデールの良いところを重んじた。けれどもわたしは、この世には、もっと別の存在、もっといきいきとしたよさがあることを信じ、私の信じたものを見届けたいと思った。
映画を観ながら小説の『ジェーン・エア』をぱらぱらと捲っていたら、こんな独白に行き当たりました。映画の中でも、シャルロットが同様のセリフをとても素敵に独白します。そういえばぼくが好きだった人も、よくこのようなことを言っておりました。向田邦子さんもこんなこと言ってたな。ぼくはこういう女性が好きなのかしら。
『嵐が丘』のエミリ・ブロンテと、シャーロット・ブロンテが姉妹だって知ってました?
『インソムニア』を観てきました。
我が家の直ぐ近くにある映画館はいつもがらがらでして、『インソムニア』も公開初日であるにもかかわらず、客席は三分の一も埋まっていませんでした。
映画は、ある事件の調査で白夜の地に赴いたアル・パチーノ演じる刑事が、秘密を胸に六日間眠れなくなってしまうというお話で、そういえば鉄割の勉蔵君も「六日ぐらいは眠らないです」などと良く言っているなあと思い出し、それ以後アル・パチーノが勉蔵君にしか見えなくなってしまい、せっかくの映画が台なしでした。あとで勉蔵君に映画代を返してもらおうと思っています。
クリストファー・ノーランの作品を観るのは初めてだったのですが、話題になった『メメント』よりも、デビュー作の『フォロウィング』の方がとても観たい。
作家志望のビルは、創作のヒントを得るため、通りすがりの人々の跡をつける行為を繰り返していた。
ほら、ストーリーの最初の一行だけですごく面白そうでしょう。
夜、あまりにも暇だったので御友達を吉祥寺に呼びだして、そろそろ人生切羽詰まってきたね、とかいろいろなことを話ながら、朝方まで飲み明かしました。最近ちょっと御酒の飲み過ぎです。
アメリカ文学の翻訳者というと、最近では柴田元幸さんが最初に思い浮かぶかもしれませんが、エッセイのおもしろさでは、青山南さんも相当面白いものを書いています。
ぼくは多分、青山南さんのエッセイは全部読んでいると思うのですが、その中でも特に好きなのは、アメリカの南部に関するエッセイを集めた『南の話』や、過去十年間に書いたエッセイを右ページに載せ、インターネットを情報源として調べた後日談を左ページに載せた『この話、したっけ?—インターネットでこんなに読めるアメリカ文学』、アメリカの短編小説の世界に焦点をあてた『アメリカ短編小説興亡史』などで、アメリカ文学の作品に関する話題だけでなく、作家たちのゴシップ的な話題もたくさん載っています。
特に『アメリカ短編小説興亡史』なんかは、雑誌『ニューヨーカー』の裏話からEジンに関する話題まで、アメリカの短編小説の歴史や流れがとても興味深く書かれていて、何度読んでも飽きません。歴史や流れ、と言っても一本の線を辿るように順を追って書かれているわけではなく、あるひとつの話題から、次の話題へと、ちょっとしたきっかけでどんどんと話が移り変わっていきます。
たとえば、フラナリー・オコナーがヘミングウェイに対して「意味深い瞬間というものに絵のようにアプローチする方法を勉強しすぎた結果、いかにも意味ありげではあるけれど情報が少なすぎるという印象を、ときどきわれわれにあたえてしまうのである」と、軽い批判を投げかけたということが書かれたあとに、絵に関するヘミングウェイの発言へと話題が移り、またあるいは、「短編小説は必要か」というシンポジウムにスランプのジョン・チーバーが出席して終始不機嫌だったという話題から、ニューヨーカーに多くの短編を発表していた三人のジョン、ジョン・オハラ、ジョン・チーバー、ジョン・アップダイクへと話題が移ります。ひとつひとつのエピソードはどれも興味深いし、それらの中で扱われている作品は、どれも読みたくなっちゃいます。
そんな青山さんが監修をしているリンク集が『海外文学の扉』です。
このリンク集は相当役に立ちます。面白いです。興味深いサイトばかりを紹介しています。こういうサイトがただ見られるのですから、本当に良い時代です。
また、同じすばるのサイト内でエッセイを連載されています。
アメリカ文学に関する面白いエッセイを書く人は、越川芳明さんとか、若島正さんとか、他にもたくさんいるのですが、そこらへんはまた後ほど。
■英作家ウィル・セルフ、執筆風景を一般公開へ
■Reality art: Novelist on display
日本では、誰でも覗くことの出来る部屋で生活をするのは横尾忠則かコメディアンかといったところですが、さすがはウィル・セルフ様です。
ああ、だれか、ウィル・セルフをどんどん訳してくれないかしら。そこそこ売れると思うのだけど。
という記事を見かけた記憶があるのですが、どこを探しても見つかりません。
もしかしたら夢だったのかしら。
爆破されていた寺院は、この間の旅行でぼくが訪れたところだと思うのですが。
いつの日か、世界中から争いが無くなりますように。
■モンティ・パイソンとハッカー文化(via Beltorchicca)
Spamメールの語源がモンティ・パイソンのスケッチであることは知っていましたが、プログラム言語であるPhythonの名前もモンティ・パイソンから取ったということは、お恥ずかしながら初めて知りました。こうして読むと、彼らの存在が、コンピュータの世界に限らず、あらゆる分野の人々に影響を与えていることが良く分かります。
それにしてもこのコラム、とても面白いです。ぜひ一読。
職場の方から、『空飛ぶモンティ・パイソン』のDVDボックスを借りているのですが、まだ観ていません。このコラムを読んだら、すんごく観たくなってきたので、今日は家に帰ってパイソン三昧にしませう。
東京芸術大学美術館で開催している『アフガニスタン悠久の歴史展』に行ってきました。
どうせチャリティー目的のやっつけ美術展なのだろう、などと思いつつあまり期待をせずに足を運んだのですが、なかなかどうして、日本の仏像とは異なる美しさを持つ良い仏像をたくさん拝見することができました。
西アジアの仏教美術にはほとんど接したことがないぼくではありますが、それでもアフガニスタンの男らしい、あるいは女性らしい仏像群を観ると、おう、ガンダーラ!と思わず叫んでしまいました。
ぼくは日本の仏像の崇拝者でありますから、このような異国の仏像に対してはついついライバル心をメラメラと燃やしてしまうのですが、展覧会の目玉であるマルロー所有の『弥勒菩薩交脚像』なんかを目の当たりにすると、こりゃ如何にも人を待たせそうな顔していやがる、などと毒づきながらも、その美しさにはすっかり心を奪われてしまいました。悔しいけど、すごくかわいい。
けれども、ガンダーラで出土したという『仏陀説法図』の浮彫なんかをみると、まるでミケランジェロの『最後の審判』を観たときに感じたような、お父さん的な恐ろしさを感じました。説法図なのですから、悪人を罰しているわけでもないのに、どうして怖いのだろう。
また、今回の展覧会で拝した仏像のほとんどに関して感じたことでありますが、その表情の中に衆生に対する慈しみを感じることができないのです。確かに美しいし、悟りを開いたのであろうその表情から感じるところは多々あるのですが、少し控えめに俯いた眼の奥には、自分以外の人を見ていないような、全く別の世界を眺めているような冷たさを感じました。うーん。もっとたくさんのガンダーラの仏像を観れば、また別のことを感じるのかな。
とは言いましても、小さめの菩薩像なんかではすごくかわいいものもたくさんあったりして、なんだかんだですげー楽しんでしまいました。キジル遺跡の壁画だという『飛天図』なんかもとても素敵だったし、敦煌の『宝勝如来図』なんかは、ジュリー・デゥシェーの絵みたいで部屋に飾りたかったです。ポスターにしてくれ。
アフガニスタンという土地は、最近ではおさわがせのイスラム国家となっていますが、その昔は東西を結ぶシルクロードの中継点として交易に栄えたため、宗教の面では仏教に、美術の面ではギリシャ・ローマ文化に影響を受け、その結果ガンダーラ特有の力強い、あるいは壮麗たる仏像群を造り続けたそうです。ちょっと意外だったのは、アショーカ王なんかはカンダハルにいるギリシア人入植者のために、ギリシア語に翻訳した仏教の教義をその地方に刻ませていたということで、一歩間違えば、カンダハルを中継点として仏教が地中海に伝播していた可能性もあったのかしらなどと思いました。
いつか落ち着いたら行ってみたいな、カンダハル
■Nuspelen(via Milk and Cookies)
最近のShockwaveやFlashで作られたゲームには目を見張るものがありまして、以前もこの雑記で書いたかもしれませんが、ファミコンで大人気だったゼビウスなんかもFlashで作られて公開されています。
このNuspelenというサイトは、主にShockwaveで作られたゲームを集めたサイトなのですが、びっくりしますよ。はまりますよ。
アクションゲームからスポーツゲーム、パズルゲームなど、種類も豊富で、ゲームの数もかなり多いので、なかなか飽きません。当然ですがプレイするにはShockwaveとFlashが必須です。
個人的にはまったのは『Table Tennis』とか、『Soccer Fight』とか。
(Table Tennisは、こちらのサイトだとさらに本格的に楽しめます。)
他にもこんなゲームサイトが紹介されていました。
■Zefrank
右下の「Games to Play」からゲームにいけます。
「buddhist」が面白かった。ゲームとしてはつまらなかったけど。
■ORISINAL
すごくかわいらしいほのぼのとしたゲームが楽しめます。
誰かパックワールド作って下さい。
遅ればせながら昨日の夜に京都へ到着。集合は夜なので、昼間は勉蔵君と奈良へ散歩へ行きました。
せっかく大和の地へ赴いたのだから、日本の神々に縁の深いところを歩きましょうということになり、天理から桜井までの、いわゆる「山野辺の道」を歩くことにしました。
空を見上げると、快晴とは言い難いものの雲が掛かっているわけでもない、散歩をするには最適の天気です。
駅で物思いに耽ったり
田圃のあぜ道で微笑んだり
茶屋でおそばを食べたり
お墓の写真を撮ったら
心霊が写ってしまったり
石畳の道で思わず走り出したり
帰りの電車の中で、今日という一日を思い出したり
とても楽しいお散歩が出来ました。
明日はどこへ行こうかしら。
親しい友人達と一緒に南禅寺へ行きました。
友人のひとりは、屏風画に描かれている竹林を観て、「あの竹の間隔がたまらないのだけど」といい、さらに虎を観て「昔の人ってかわいいな」と感想を漏らしていました。彼は、禅寺のどの部屋を見ても「寝てー」と言いますが、石庭などを見てもなにも感じないようです。美味そうなものを見れば食いたくあんり、いい女や男がいれば抱きたくなる、そのような観点から物に接する彼の態度は、誠に正しいものであり、羨ましくもあります。
夜の公演があるので、四時過ぎぐらいに皆と分かれて、ひとり永観堂へ行きました。釈迢空の『死者の書』の挿し絵で見た『山越阿弥陀如図』を拝するためです。閉寺が五時のため、境内には殆ど人の姿がありませんでした。受付で拝観料を払い中に入ると、寺の入り口に売店があり、そこにお目当ての山越の阿弥陀入来図のポストカードが売っていたので、「何処に行けばこの阿弥陀図を見れますか?」と聞くと、「国宝だから博物館に保管してあるので見れません」とのこと。そんなアホなと、と食ってかかっても相手にされず、仕方がないので堂内をうろついていると、有名な「みかえり阿弥陀如来」の部屋を発見、脱力して座り込みました。「永観おそし」などとひとり呟き、思ったよりもずっと小さなみかえり阿弥陀如来を拝み、壁に面した十一面観音を拝み、時間ぎりぎりまで粘って永観堂を後にしました。そういえば、今日行ったのは両方とも禅寺でした。
夜は友人達の頑張る姿を観て、その後京都の町へ繰り出し、死ぬほど飲んで宿屋へ帰り、朝方まで恋の話題で盛り上がりました。勉蔵君が「会いたい、会いたいよ」と泣き出して、大変でした。まるで修学旅行に来たみたい。
プチネタ系です。
■Automatic flatterer(via Koi)
もっと褒めて!
■Wait all day(via 気になるWeb)
ずっと待たせて!
こういうかわいいの大好きです。でも、だれがなんのために作ったのでしょう。
京極夏彦『狂骨の夢』読了。
もー最高です!京極最高!最初は今までの中で一番つまらないかしらと不安になるようなちょっと退屈な始まりでしたが、読むにつれ止まらない止まらない。今まで読んだ作品の中で一番面白かった。
前二作と異なり、物語全体の語り口が三人称で書かれているのですが、それがまたとても良くて、各段落ごとに中心となる登場人物が交互に入れ替わりし、その登場人物のセリフによって見えないところで起こった事件の発端や顛末が別の登場人物、延いては読者に知らされるのです。その語り口がとても巧妙で、なんかね、登場人物の一人になったような臨場感がありましたよ。
いやー、この手の小説を多く読んでいる人からすれば、文句のひとつも言いたくなるような内容なのかもしれませんが、免疫のないぼくは興奮しまくりでした。
内容について書きたくて書きたくて仕方がないのですが、なにを書いてもネタバレになってしまいます。
ラストがね、すごい良いのです。今まで読んだなかで一番読後感が良い作品でした。
あまり深くは書きませんが、『狂骨の夢』では事件の発端に複数の信仰が絡みあいます。その中で重要な役割を果たすのが真言立川流です。淫祠邪教などと呼ばれ、その教義の性の部分ばかりがクローズアップして取り上げられ、邪教と考えられがちな宗教ですが、物語の中で京極堂が言う通り、「平安時代末期崇徳院の護持僧を務めた醍醐三宝院の仁寛を流祖とする」立派な宗派です。だと思います。ぼくも良く知らないので。
それで思い出したのが、以前に別の本で読んだインドのタントラという修業方法です。立川流も、江戸時代にはタントラの流れを汲む左道密教の密議などと習合して幕府に弾圧をされたそうですから、まったく無関係というわけではありません。
タントラはヨーガと同様にインドで発展した修行法のひとつなのですが、一口にタントラと言っても左派、右派とありまして、違いは簡単に言うと性的な結合を肉体的と見るか精神的と見るかということですが、その両派ともにシヴァ神のシャクティ(性力)を崇拝しているため、その修業法も性的なものが多く含まれます。
そんでタントラの修行法を描いたこんな絵を見ると
ひとりフェラチオです。この絵を見ると、ちんちんの長さとかが不自然な感じがするかもしれませんが、鉄割の勉蔵君なんかはオナニーをするときはひとりフェラチオをよくしているそうだし、奥村君なんかも、外出するときには大抵の場合ちんちんを肩にかけているので、この絵もあながち大げさと言うわけではないと思います。
などとアホなことを書いていると怒られてしまいそうなぐらい、『狂骨の夢』の中での立川流の役割はすごいですよ。毎日セックスできていいじゃない!なんて言ってられません。是非ご一読を。
それにしても、『狂骨の夢』を読んで事件の謎を推理できた人っているのでしょうか。
■龍安寺の石庭 見ていると自ずと人は快く- 京大研究員ら 認知科学で仕掛け解明
なんなんでしょうね、こういう研究結果を最近よく目にしますけれど、人がなにかを見て心地よさを感じたり、感動したりする原因を認知科学で説明するというのは、どうも抵抗がありまして。
誰かが、映画を観たり絵画を観たりして感動したことを、「理由」を中心に説明しているのを聞くときに感じる違和感に似た感覚というか、恋愛なんかでもそうですけど、その人を愛している「理由」を説明できるうちはまだまだ本当の恋愛ではないのではないか、などと勝手に思っていまして、「〜だから面白い」とか、「〜だから好き」とか、それは好きであったり感動したりした要素のひとつではあっても絶対ではなくて、何かに感動したり愛したりするのは、ちょっと気取らせていただきますと、「魂が魅かれる」ような感覚で、「理由」なんて言葉では表現できるものではないのではないか、と。
ですから、認知科学の重要性は認識しつつも、現代では脳のどの部分をいじれば悲しくなるかとか、怒りだすとか、そんなことまで解明されているということを考えると、逆にそれを越えた感覚の世界の存在を強く夢想してしまいます。脳という檻の中で生きている僕たちは、結局は生物的な物理的法則に則って世界を生きているのかとか悲しくなったりもしますけど、そんな当たり前のことはどうでもよくて、問題なのは認知科学のような「心の原因」の科学の精神が間違って巷間に流布したときのことで、ぼくが何かに感動したり、誰かを愛したりしたときに、その「理由」を得意げに説明するような輩がいたら、指浣腸をしてやります。
けど、このような話は結構好きです。
■米国人タリバン兵、映画「マルコムX」でイスラム教に心酔=米誌
ぼくの友人にも『マルコムX』を観てイスラム教に心酔した方がいます。彼は、みんなで旅行に行ったときに、次の日に食べようと思って冷蔵庫にいれておいた豚肉を、夜中のうちにたばこの灰をまぶして、ごみ箱の奥底のほうに突っ込んで食えないようにしておりました。一時はあごひげを生やして、一日五回メッカの方角へお祈りを捧げたりしておりましたが、今ではすっかり熱も冷めて、鉄割の脚本なんかを書いていますけど。
映画の力は、すさまじいものです。