03年12月01日(月)

 目覚めてみたら熱は下がっているようすなので、少し陽を浴びようと思って外に出たら雨が降っていました。秋雨に肩を濡らしながら少しだけ散歩、そのまま映画館に行って『阿修羅のごとく』を観ました。とても良い映画で、はああと幸せのため息をひとつ。良い映画を観た後は、幸せのため息がもれるのです。

 特に良かったのは、三女(深津絵里)のお昼休みのシーンで、公園のベンチで持参の麦茶を横に置いてお弁当を食べている深津絵里の姿はあまりにも素敵すぎて、以前からこの人はもしかしたら世界で一番かわいいのではないかと思っていたのですが、その思いは確信に変わりました。

 映画の舞台となっているのは、昭和五十年代で、ぼくの記憶にかすかに残っている時代です。帰り道に、ぼくの幼年時代はもはや郷愁を感じるような遠い時代になってしまったのかあとしみじみ。変化の多い現代だから、ほんの二三十年で時代は移り変わり、幼年の頃に郷愁を感じたりもするけれども、時の変化の少なかった江戸時代の人たちは、自分の幼年期に時代の郷愁を感じたりすることはあったのかしら、でも郷愁というものは、時の変化ではなく気持ちの変化に感じるものなのかもなあなどと考えながら、薄暗い夕方の雨の中を歩いていたら、靴がびりりと破けました。

 先月はあまりにも出不精が過ぎました。今月は少し活発にあちらこちらへ見聞を広げるために遊びに行こうと思います。思います。思うだけかも。

03年12月02日(火)

 床に就いて本を広げるとき、間違って面白い長編小説なんかを読み始めると、さあ大変です、読みが止まらないのでいつまでたっても眠ることができません。明日が早いときや用事があるときは、できるだけつまらない本か、あるいは短編小説を読むようにしているのですが、先日読んだロアルド・ダールの『あなたに似た人』という短編集は、最初の一編を読んだら面白くて読みが止まらずに、もう一編もう一編と結局、明け方まで読み耽ってしまいました。

 解説から、作家都筑道夫氏によるロアルド・ダール氏の紹介文を引用しておきます。

アフリカの土語スワヒリ語とノルウェイ語を、英語と同じように話し、《ニューヨーカー》誌に、賭に熱中する男たちの物語を書き、飛行機のことならなんでも知っている、ノッポのイギリス人—これぞ、ロアルド・ダール

 確かにこの短編集の中にも賭に関する作品が多く、そのいずれもがわくわくさせてくれてとても面白いのですが、賭が登場しない作品も相当に面白くて、例えば『韋駄天のフォックスリイ』という作品は、主人公である男性の満ち足りた通勤生活の独白から始まります。この主人公は、この三十六年間の週に五日、八時十二分の汽車でロンドンに通っています。何年間も同じ道のりを毎朝のように行き来していれば、普通に考えれば飽き飽きしそうなものですが、この男性は毎日のこの通勤生活を心から愉しんでいます。「この小旅行の、あらゆる面が、私を愉しませてくれる」。

 しばらくはこんな感じに、男性の通勤生活がいかに愉しいかという記述が続きます。ところがある日、その快適な通勤生活に「いささか尋常とはいえないようなこと」が起こります。いつもであれば駅のプラットホームには、見慣れた通勤者仲間しかいないはずなのに、見知らぬ人が立っているではありませんか。次の日も、その次の日もその見知らぬ人は現れます。そしてある日、主人公の男性はこの見知らぬ人が、子供の頃にこの男性をひどい目に遭わせた学校の先輩「韋駄天のフォックスリイ」であることに気付きます。

 このあと、主人公の男性がこの「韋駄天のフォックスリイ」からどれだけひどい目にあわされたか、その思い出の記述が続きます。最初は愉快な通勤生活、次は見知らぬ他人が自分の通勤生活に割り込んできたことへの戸惑い、そして子供の頃の苦い思い出、男性の独白は次々と変化していくのですが、これが最高に面白いくて、ロアルド・ダールの短編のすべてに関して言えることですが、登場人物はみな必死なのに、読んでいる側からするとそれがとても滑稽で、ユーモラスなのです。それはもしかしたら、短編集の表題でもある『あなたに似た人』、つまり登場人物の滑稽な様子が、どこか自分や自分のまわりの人を思わせるからかもしれません。

 それから、短編の要であるラストのすばらしさも忘れてはいけません。『韋駄天のフォックスリイ』に関して言えば、ぼくは本当に声を出して笑ってしまいました。どの短編も2,30ページ程度なのですが、ラストが最高に素晴らしくて、期待を裏切りません。

 このロアルド・ダールの『あなたに似た人』は、何年か前に戌井さんに借りたままずっと本棚の奥に眠っていたのですが、この感じだと、ぼくの本棚にはまだまだ面白い小説がたくさん埋もれているようです。困った、いつまでもたっても夜が眠れませんよう。

03年12月03日(水)

 先日、ある機会で友人とふたりでぴょんぴょんとジャンプをしながら往来を行き来したのですが、体力を使うことを日常としている友人は余裕でぴょんぴょん飛んでいるのにもかかわらず、ぼくはといえば、ほんの五十メートルもジャンプしただけではあはあと息が切れるありさま、これはいけない、体力をつけなくてはと本日、久しぶりに夜に大きな公園を走ってきました。

 帰りのこと、家のすぐそばの小さな公園で鉄棒を発見、足でぶら下がって腹筋の五十回もやってやろうとばかり、ぶらりぶらりとなったは良いのですが、思いのほか足への負担が大きく、体を押し上げて腹筋をすること三回でどさりと鉄棒から落っこちる始末。みれば空には月が、鉄棒腹筋の十回もできなくて、冬山に挑戦とはなんと烏滸がましい、こんどこそと鉄棒にぶらさがり、そのまましばらく風に身を任せていたのですが、逆さになっているとやけに心が落ち着きます。おならをしたりはなくそをほじくったり、ひとりで世の不条理に悪態をついたりしていたら、なぜか歌を歌いたくなって、どうせ夜中ですからと好きな歌を歌って、再度腹筋をチャレンジしたのですが、やはり三回でどさりと落っこちました。やばいやばい、こんなんで冬山に登れるのかしら。

 そういえば、今月号の「ヤマケイJOY」の特集は「保存版、雪山Q&A」です。鉄割登山隊の方々、各自で購入して熟読しておいてください。経験者と一緒だからといって安心しているとまじ死にます、これを読んで個人でも充分に心を構えておいてください。それから、アイゼンだけでなく、靴も新しいものを買う必要がありそうです。特にぼくと憲の字。

 夜、『Sweet Sixteen』を観て感動。ケン・ローチの映画ってまじ最高だよね!この映画しか観たことないけど。本当に良い映画でした。

03年12月04日(木)

 とても天気が良かったので、本屋さんで偶然に見かけた斎藤兆史著『英語達人列伝』という新書を読んでみたところ、目からウロコが落ちちゃいました。明治初頭から昭和にかけての、現在のように英会話教室が街に氾濫し、英語の教材が本屋に溢れているような状態ではなかった日本にいながらにして、「英米人も舌を巻くほどの英語力を身につけた達人」たちと、彼らの勉強方法を紹介しています。

 紹介されているのは、英文で『武士道』を書いて西洋に日本の文化を伝えた新渡戸稲造、同じく英文で書いた『茶の本』で日本のわびさびを外国に伝えた岡倉天心、英米人も驚嘆するような辞書・文法書・注釈書を残した斎藤秀三郎、禅を世界に伝えた鈴木大拙、巧みな英語を駆使して戦後処理に奔走した幣原喜重郎、「英語の神様」と言われ、多くの優れた辞書を編纂した岩崎民平、文学に目覚めた十七歳から二十年以上、英語で詩を書き続けた西脇順三郎、その他、野口英世、斎藤博、白州次郎などなど。注目すべきは、最後の白州次郎を除いて、全員が日本にいながらにして英語の達人になっているという点です。

 それぞれの生涯を紹介しながら、彼らがどのように英語を勉強し、どのように身に付けていったのかが書かれているのですが、それと並行して著者である斎藤氏の英語の学習に対する考え方が述べられています。斎藤氏の言っていることは単純明快で、学問に王道はなし、楽して身に付く英語などありえないということで、話すことばかりに重点をおいて、読むことや受験英語(つまり文法)を軽視している現在の英語教育の風潮に対して、かなり批判的に書かれています。

 同じ斎藤兆史氏による『英語達人塾』は、『英語達人列禅』の続編のようなかたちで、『英語達人列禅』で紹介されていた人々の学習法を参考に、音読、素読、文法解析、辞書活用法、暗唱、多読、丸暗記、作文などについてその方法を具体的に取り上げて実践します。もちろん、学問に王道はなしですから、そのいずれもがハードな道程になることは間違いありませんが、この種の本を読んでこれほどまでにわくわくしたことはないというぐらいに興奮してしまいました。

 斎藤氏は、序文(入塾心得)で次のように書いています。

よく「英語でものを考える」とか「英語脳」とか軽々しく言うけれども、すべての論理的思考や感情的思念において、母語と同程度に英語を操るなどそう簡単にできるものではない。
(中略)
自分は英語を話すときにどうしても最初に日本語を思い浮かべてしまうといって学生が相談に来たときなど、それは大いに結構なことだと言って励ますことにしている。
(中略)
日本語と英語がまったく違った語族に属し、書記体系も音韻体系も統語構造も、さらには言葉を用いるときの理念的な前提がまったく異なる以上、日本語を母語として育った人間がそうそう簡単に英語を使いこなせるようにはならない。

 英語に限らず、なにか学ぶときの「方法」というものは、各個人ごとに異なるのが当然で、誰かがこうやっていたから、誰かがこう言っていたから、こうやれば間違いない、などということはあり得ないと思います。ですから、ぼくがこの『英語達人塾』を読んで興奮したのも、それが正しい方法だと思ったからではなく、単にそれが自分に合っている、自分が望んでいた学習方法だったからというだけの話で、英語を学ぶ人の中には、文法なんてものは必要ないという人もいるだろうし、もっと楽して英語を身に付ける方法があるはずだと考える人もいると思います。そういう人にはこの本はあまり向いていないかもしれません。

 岡倉天心は、九歳にして英米人に引けをとらないほどの会話力を身に付けていながら、母語である漢字を読むことができませんでした。父親はそんな彼を心配して、国語国文を学ばせるために人手に預け、天心は神奈川県の長延寺で漢学の手ほどきを受けます。斎藤氏は、幼年期の岡倉天心のこのエピソードをひいて次のように書いています。ぼく自身の戒めとして、以下に引用。

後年の天心の卓越した英語力が論じられる際、とかく彼が幼少期に英語を「耳から」覚えたことばかりが強調されるけれども、僕はこの漢学修業が彼の英語習得を促進させたと考えている。
言語習得に関する科学的根拠があるわけではないが、英語の苦手な学生が往々にして日本語の表現力に乏しいのを見るにつけ、話し言葉にせよ書き言葉にせよ、言葉そのものに対する感受性が語学力を左右するように思われるからだ。

 肝に銘じて。

03年12月05日(金)

 お給料日ではありますが、せっかくもらったお給金も、あちらの支払いこちらの借金、勝手に引き落とされたりオンラインバンキングで振り込んだりでどんどんとお金が減っていき、ぼくの一ヶ月の報酬は一度も姿を見せないまま、あっという間に半分以下になってしまうのです。自分の子供を一目も見ずに他人様へ養子に出すようで、非常に心が苦しいのです。

 待ちに待った西原理恵子著『できるかなv3』を購入しました。帰りの電車の中でちょこっと読んでみたのですが、もう最高におもしろくて、公の場で読むと声を出して笑ってしまいそうなので、走って帰って自宅で読みました。「登山できるかな」でゲッツが高尾山で挫折していたのには感動しました。今までの「できるかな」の中でも、V3は飛び抜けて面白くて、うんこしながら思いだし笑いをしてしまうほどです。立ち読みをすると笑って周りに迷惑をかけるので、購入するしかありません。

 ところで、先日妊娠を公表したグイネス・パルトロウの次の新作はシルヴィア・プラスの伝記ものだそうです。シルヴィア・プラスというとオーブンに頭を突っ込んで自殺をしたというイメージが強くて、詩人としての彼女のことはじぇんじぇん知らないので、この映画を観て勉強しましょう。ミゲル・ピニェロの生涯を描いた『ピニェロ』ももうすぐ日本で公開されるそうで、こちらも楽しみ。伝記物の映画って、うんこみたいなものが多いので、ちょっぴり不安ではありますが。

03年12月06日(土)

 『ブッダの夢』に続く河合隼雄氏と中沢新一氏の対談集『仏教が好き!』をちょうど半分ほど読み終えたのですが、とても面白い。特に仏教における性に関する章がとても面白くて、もともとの原始仏教以前のブッダがいた頃の教団は、独身者のみの集団で、もちろんセックスは禁止されていたわけですが、ブッダの教えを破らないような形で、要するに教義の抜け道を探してどうにかして性的な欲求を満たそうとするものが続出したそうです。そこでそのような性的な欲望を禁止する戒律を規定して、「律蔵」というものを作ったのですが、これがほとんどギャグとしか思えないようなもので、おおまかに言うと次のようなものです。

人でも、動物でも、女でも男でも去勢者でも、三道、つまり大便道でも、小便道でも、口でも交われば教団追放である。たとえば、去勢した動物の大便道や口にペニスを入れても教団追放である。その相手が、眠っていても、酔っていても、狂っていても、死んでいても、死んで、鳥獣に喰われていても、その三道で交われば教団追放である

 ここまで細かく規定しているのは、現にそのそのような行為をしているものがいたからで、これがもうめちゃくちゃなのです。その一部を引用します。

ある時、ひとりの修行僧が林のなかで食物で猿を誘い、獣姦した。その後、その猿は僧院に現れ、件の修行僧に食物を求め、彼がそれに応えると、他の修行僧の見守るなかで尻をあげてヴァギナをあらわにした。修行僧はその猿と交わる。他の修行僧から、それは釈尊の教えに反すると詰問されるが、彼は「しかし、釈尊は人間の女性との性交を禁じただけで、動物との性交は禁じていない」と答える。

 みんなが見ている前で猿とセックスするやつがおかしいのは当然として、それを見たやつも「それは釈尊の教えに反する」って、つっこみが間違っています。ちなみに、鉄割の中にも初体験の相手が猫という人がいますが、彼もそうとうに気がおかしいです。

ある時、ペニスの長い修行僧があって、淋しさに自分を失い、つい自分のペニスを大便道に入れてしまった。釈尊は「彼、楽しみを覚えたのならば、教団追放である」と宣した

 「淋しい」ということと、「自分の肛門にちんちんを入れてしまった」ということが普通に結びついているところが素晴らしい。それにしても、奥村君(ちんちんが肩にかかるほど長いのです)が紀元前のインドにいたとは驚きです。

ある時、ひとりの出家修行者が死体を見つけた。その死体のヴァギナのまわりに傷があった。「これなら罪を犯したことにならないだろう」と推察し、ペニスをヴァギナに入れて、傷より出した。傷より入れて、ヴァギナから出した。彼の後悔の告白を聞いて、釈尊は告げる。
「教団追放だ」
ある時、ひとりの出家修行者が墓所に行って、死体から切り落とされた頭部を見つけた。修行者はその開いた口の中にペニスをいれ、その口で楽しみを覚えた。彼の後悔の告白を聞いて、釈尊は告げる。
「教団追放だ」

 いわゆる死姦です。ちんこをまんこに入れて傷から出して、傷から入れてまんこから出して。相当に倒錯しております。

ある時、ひとりの出家修行者が、バッデヤの林にて昼寝をしていた。彼のペニスは風に揺られて勃起していた。ひとりの女性がそれを見つけ、勝手にペニスにまたがり性交して去った。他の修行者がペニスが濡れているのを見て、釈尊に問うた。釈尊は答えた。
「(中略)かの修行者は欲望によりて勃起したのでもなければ、楽しみを覚えたわけでもない。彼は罪を犯していない」と。

 風に揺られて勃起したペニスって、なんだか牧歌的で素敵です。歌とか聞こえてきそう。

 他にも、女性の死体の骨をすりつぶして、それでまんこの形を作ってそこにちんこをいれるやつとか、肉親ならよいだろうと母親とか妹とやるやつとか、みなさん本当にどうにかしてセックスがしたかったようです。まあ、時代的には、動物とやったり死体とやったりすることがタブーではなかったのかもしれませんけれど、インドだし。ようするに、ブッダのいたころの教団も、現代の鉄割も、メンバーのやっていることはほとんどかわらないのですね。という結論。

 さて、続きを読みましょう。

03年12月07日(日)

 久しぶりに内倉君に会ったら、完全にM字はげになっていて、でこが光ってました。という夢をみました。

 T.R.ピアソンの初めてのの翻訳『甘美なる来世へ』を購入しました。ずっと以前に「Esquire」でこの人のインタビューを読んで以来、楽しみにしていたのでめちゃ嬉しい。ページを開くと、始まりからいい感じ。「それは私たちが禿のジーターを失くした夏だったが禿のジーターはジーターといってももはや大半ジーターではなく大半スロックモートンにたぶんなっているというか少なくとも大半スロックモートンになっているとたぶん思われていてそう思われることが大半ジーターだと思われることより相当の向上ということになるのはジーターには対した人間がいたためしがないのに比べてスロックモートンたちはかつてはひとかどの人間だったからであるがただしそれも金がなくなり威信も消えてしまう前の話であって今となっては空威張りと汚名と漠たるスロックモートン的風格が残るばかりでありそんなものは全部合わせたところでおよそ騒ぎ立てるほどの遺産ではないのであるがそれでも空威張りにせようんぬんかんぬんうんぬん」。この種の文章は、一度はまるとたまらないのです。読むのが楽しみい。

03年12月08日(月)

 今週末は鉄割電子映画の上映会です。みなさま、御来場お待ちしておりますので、是非ともお越しください。忘年会なども兼ねて。

 先日、思うところあって、内村鑑三の『代表的日本人』を読んでいたのですが、西郷隆盛の最後が、次のように書かれておりました。

 一八七七年九月二四日の朝、官軍の総攻撃が城山に向かって開始されました。西郷が同志とともに迎撃のために立ち上がったとき、一発の銃弾に腰を撃たれました。まもなく少数の味方は全滅、西郷の遺体は敵方の手におちました。
  「無礼のないように」
 敵将の一人が叫びました。
  「なんと安らかなお顔のことか!」
 別の一人が言いました。西郷を殺したものがこぞって悲しみにくれ、涙ながらに葬りました。今日も西郷の墓には、涙を浮かべて訪れる人の群れが絶えません。
 もっとも偉大な人物が世を去りましたが、最後のサムライであったのではないかと思われます。
内村鑑三の『代表的日本人』

 そういえば映画『ラストサムライ』は西南戦争がモデルになっていると、どこかで読んだことを思い出し、早速観てきたのですが、いやはやびっくりしました、 もろ『ダンス・ウィズ・ウルブス』じゃん。西洋人がアジアの人々の生活に触れて開眼するパターンの映画、いい加減にやめてください。それに、『キルビル』でようやくアメリカ映画での日本の描き方がまともになってきた と思っていたのに、ぜーんぶぶち壊しです。こんなの見て「やっと日本が正しく描かれた」とか言って喜んでいるあほうは誰ですか。

 とはいえ、個人的な感情を抜きにしたら、とても面白い映画でした。はは。心から愉しんでしまった自分がとても口惜しくて。役者さんもみなさんとても良かったし。

どなたか、『武士道』ではなくて、鈴木大拙の『日本的霊性』をもとに日本の映画を作ってください。

03年12月09日(火)

 最近パラドックスとか論理パズルとかにはまってしまって、そのような本ばかりを読んでいるのですが、さてここで問題です。

 あなたは鉄割アルバトロスケットという劇団のリーダです。長年にわたって地道に活動を続けてきましたが、劇団が売れる気配はいっこうにありません。そんなとき、あなたの目の前に神様が現れて、こう言いました。

「お前は売れない劇団をよくもまあ飽きもせずにやっておるなあ。あまりにも不憫なので、一度だけチャンスをやろう。ここにふたつの玉がある。ひとつは鉄割があっという間に売れる玉。もう一つはお前が逮捕される玉。お前は今からこのふたつの玉のどちらかを選ぶことができる。正しい玉を選べば、鉄割は今年の終わり頃には大ブレイクするだろう」

「ここにべんぞう君とキリンちゃんがいる。ふたりはどちらの玉を選べば鉄割が売れるかを知っている。お前はこのふたりに、一度だけ質問をすることができる。どちらの玉を選べば良いのかが分かるように、聞いてみなさい」

「ただし、このふたりのどちらかはナチュラルボーン嘘つきで、必ず嘘をつく。もうひとりは、天使のようにピュアなので、必ず本当のことを言う。どちらが嘘つきでどちらが正直者なのかは、わからない」

「お前はこのふたりに一度だけ『はい』か『いいえ』で答えられる質問をするのだ。いいか、一度だけだぞ。二度聞いたら、お前はすぐに逮捕される。では、ふたりのどちらかに、ひとつだけ質問をしなさい」

今、あなたは目の前の玉のうちのひとつを選ばなくてはなりません。
正しいほうを選べば鉄割は売れますが、正しくないほうを選ぶと逮捕されてしまいます。
目の前にはどちらの玉が正しいのかを知っているふたりの人物がいて、片方は必ず嘘をつき、片方は必ず本当のことを言います。
あなたは、ふたりのうちのどちらかに一度だけ質問をすることができます。
どのように質問をしたら、あなたは無事に正しい玉を選び、鉄割をブレイクさせることができるでしょうか。

 答えはまた後ほど。

03年12月10日(水)

 書籍についてきたしおりに吉田松陰さんのこんな言葉が記されておりました。

書を読みて己が感ずる所は抄録して置くべし。 今年の抄は明年の愚となり、明年の録は明後年の拙が覚ゆべし。

 今年の抄が明年の愚となって、明年の録が明後年の拙に思えれば良いのですが、ぼくの場合、数年まえの書き込みなどを読んでも、今と考えていることが変わっていなかったりして、あれれぼく成長していないじゃないなどと焦ったりするのです。

 さて、しつこくて申し訳ありませんが、今度の日曜日は鉄割電子映画上映会ですよ。肉ジャガとかポップコーンとかお酒を用意しておりますので、是非ともいらっしゃってくださいな。予告編などもあったり。

03年12月14日(日)

 さて、鉄割電子映画上映会の日です。目覚めてみると午前十一時、集合時間は十二時、やばいやばいお寝坊してしまいました、急がなくてはと焦って顔を洗って歯を磨いてパンを焼いてコーヒーを入れて目玉焼きを作って食べながらWebでニュースなどを確認して今日も世界が平和でありますようにとお祈りをして大麦青葉を牛乳に混ぜて飲んで、部屋の掃除をして洗濯をして腹筋と腕立て伏せを五十回ずつして軽く汗をかいたのでシャワーを浴びてさっぱりしたところで読んでいない本を一ヶ所に集めて読みたい本をリストアップして友だちに手紙を書いて英単語を十ほど覚えて、必要なかったけれども暇なのでエアコンのフィルタ掃除なんかもしていたら一時を過ぎているではありませんか、急いでバイクに乗って家を出るとあまりの天気の良さにこんな日は予定を決めずにぶらぶらとお散歩をするに限るのになどと思いながら、涙を呑んで根津は宮永会館へ。

 途中、会場で配るポップコーンの素を買いにスーパーへ。爆裂種コーンが見当たらなかったので、店員さんに「ポップコーンの素はどこでしょう」とお尋ねしたところ、「何に使うのですか」と聞かれたので、「ポップコーンを作るのです」と答えると、「なんで?」などとプライベートなことまで聞いてきたので、ちょっとかちーんと来きて「食べるのです」と横柄に言ったところ、向こうも横柄に「はあ?」などというのでまじでぶちぎれてぶっ殺そうかと思いましたが、大人ですから我慢しました。

 午後二時ぐらいに宮永会館に到着したものの、開演は十六時から、時間がたっぷりと余っていますので「えろい話でもしませんか」と中島君を誘ってモスバーガーへ、一時間ほどはなしをして、宮永会館に戻ると美味しそうなジンジャーコーラやら肉じゃがやらが出来ておりまして、負けてはならないとぼくもポップコーンを作リ始めたのですが、すぐに飽きてしまってきりんちゃんにポップコーン作りの全権を委ねました。だって思ったよりも面倒くさくて。

 上映会に御来場下さった皆様、ありがとうございました、心より。久しぶりの宮永会館だったので、つい嬉しくてへろんへろんに酔っぱらって失礼いたしました。来年の鉄割アルバトロスケットは猪突猛進、追いつめられたいのししのごとく、二三人の逮捕は覚悟の上で向うを見ずに突っ走る所存でございます。今後とも、よろしくお願いいたします。

03年12月25日(木)

 今年も本日でお仕事納めです。一年間ご苦労さまでした。年始年末は少しお勉強をするつもりで、職場からパソコンの本をたくさん持ち帰りました。トートバックがぱんぱんですよ。

 歳とともに光陰が矢よりも早くなっているように感じるのは気のせいでしょうか。気づいたら何もせずに年末、おったまげますよ、まじでー。この調子でいくと還暦もあっという間でしょう、素敵な老後を迎えるためにも、いつまでものらりくらりとしてはいけません、来年こそは精進精進。などというようなことを去年の末にも考えた記憶があるのですが、今年もやはり同じようなことを考えております。

 なんか、なんでも良いのですけれど、ぱこーんとしたことないかしら。この惰性を抜けられるような。勉蔵君が切腹するとか。ぱこーんとしたなにか。

03年12月26日(金)

 午後一時起床。怠惰。陰鬱な気持ちでシャワーを浴びてシャドーボクシングを二十分して駅前へ。お茶を飲みながら読書。難しい本を読んでやろうと思ってとびきり難しい本を読んでいたら眠くなって、そのままカフェでお昼寝。幸せな夢をみる。友人からのメールで目覚め、ああ怠惰。

 気を取り直して戌井さんに借りたコリン・デクスターの『ウッドストック行き最終バス』の続きを読む。読了。とても面白かった。先日、まだ最後まで読み終えていなかったにもかかわらず、残り三十ページぐらいだったので、戌井さんに「『ウッドストック行き最終バス』読みましたよ!」とはったりかましたところ、「あれ面白かったでしょう、まさか**が犯人なんてねー!」とあっさりと犯人を教えられてしまったという心苦しい事件もあったけれど、それを考慮しても面白いミステリ小説だった。ジン・アンド・トニックスを飲みながらフィッシュ・アンド・チップスが食べたくなった。しかし、ぼくにバーは似合わない。

 夜、デンゼル・ワシントン主演『青いドレスの女』を観る。これまたハードボイルドタッチのミステリ。観ながらわくわく。なんだろう、ぼくは探偵にでもなりたいのか。怠惰で惰性の日常を、探偵になることで吹き飛ばしたいのか。

 夜中、走る。精進精進と思いながら走る。こんな時期なのに、三宝寺池から蛙の鳴声が聞こえてきたのは、気のせいだということにして。

03年12月27日(土)

 午前十時起床、新大久保へ。約三年ぶりの新大久保。会場に着くとぼく以外の全員がスーツ。そうだ、世間というものはこういうものだった。こころの中で中指立ててつば吐いて、気持ち的に颯爽と途中退場。

 帰りに新大久保のお店に立ちよって、数冊の雑誌を購入。文藝別冊の『内田百けん』も一緒に購入。百けんさんの娘さんの伊藤美野さんの文章が嬉しい。百けんさんにも家庭があって、子供もいたということが、当たり前なのに何となく不思議な感じ。

 古本屋さんで森島恒雄著『魔女狩り』を購入。途中のお茶屋さんで読書。読みながら、涙が止まりません。カール・セーガンは、『人はなぜエセ科学に騙されるのか』の中で、魔女狩りに触れて次のように書いている。「人間とは何をどこまでやるものなのか—それを知らなければ、われわれは自分自身から自分を守る手だてを正しく見抜くことはできない。(中略)魔女狩りは、人間が自らを知るための窓なのだ」。

 『魔女狩り』の中で衝撃的なのは、人々が受けた肉体的な拷問などの残酷な記録よりもむしろ、人々の行動の記録、あるいは書簡や著作の内容、つまり人間の精神面に関する記録で、その中には裁く側の記録だけではなく、裁かれる側、魔女として逮捕され、拷問を受け処刑される人々の数少ない書簡などもあります。何の根拠もなく逮捕され、拷問を受け、宗教が世界の秩序を成立させていた時代に、自らが魔女であることと認めさせられ、無理やりに知人の中から無実の共犯者を自白させられ、最後には火に焼かれる人々の悲痛な叫び。思わず目を閉じてためいき。

 ニコラ・レミーに関する以下の文章を読んだときには、思わず本を閉じてしまいました。

 裁判官であるニコラ・レミーが晩年に痛切に後悔したことは、彼が幼い子供に「寛大でありすぎた」こと、そのために、その子供たちを「焼かずにすました」ことであった。魔女を撲滅するためには、悪魔の血を受けた子供を生かしておいてはならなかったからである。

 でも読まなくちゃ。最後まで。生涯において、自分と、自分のまわりの人が、ニコラ・レミーにならないためにも。

 本文中で何度か引用されているパスカルの言葉を、ここでも引用しておきます。ここでパスカルが述べる「宗教的信念」という言葉は、そのまま「科学的信念」という言葉にも、あるいは単なる「信念」という言葉にも置き換えることができると思います。ばかとはさみは使いようによっては切れますが、使い方を間違えれば大けがをします。宗教と科学も、同じようなものですから。

人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行うことはない(『パンセ』)

 信念を持つことはとても良いことですが、柔軟に、柔軟に。ちょっとぶつかったらすぐに割れてしまう程度の信念が、ちょうど良いのかもしれません。

03年12月28日(日)

 午後二時、起床。寝惚け眼で部屋を見回すと、まるでいにしえの頃の天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき、渾沌れたること鶏子の如くして、ほのかにして牙を含めりときのように、ぐちゃぐちゃのカオス状態。お部屋を掃除しましょう。

 むっしょーにリチャード・ブローティガンの小説が読みたくなって、古本屋さんで買おうかと思って調べたところ、翻訳の値段がプレミアがついてめちゃくちゃ高くなっている。仕方がないので、Amazonで「A Confederate General from Big Sur」と「Dreaming of Babylon」と「the Hawkline Monster」が一冊になっているぺーパバックと、「Revenge of the Lawn」と「the Abortion」と「So the Wind Won't Blow It All Away」が一冊になっているぺーパバックの二冊を注文。二冊で三千円ちょっとだけれど、実質的には六冊分なので、お買い得でしょ。

 夜、ひまひまちんちんでたるんでいる精神に気合いを入れるために『フィアードットコム』と『The Eye』というこわい映画を連続で観る。どちらも全然こわくなかった。『The Eye』は、ラストにびっくり。

03年12月29日(月)

 午後一時、起床。寝惚け眼で部屋を見回すと、清陽なるものは薄靡きて天になっていて、重濁れるものは淹滞ゐて地になっていて、精妙なのが合へるのは摶り易いし、重濁れるが凝りたるは竭り難いので、天先づ成りて地後に定っていてびっくりした。そういうわけで、カフェへ。

 このお休み中に、少しは勉強もしようと思って、お仕事場から持ち帰った本を読む。三分読んだら眠気に襲われる。眠気覚ましに、ジョン・リドリーの『地獄じゃどいつもタバコを喫う』を読む。めちゃ面白い。あっという間に一時間経過。やばいやばい、勉強勉強。お仕事場から持ち帰った本を読む。三分で眠気。眠気覚ましにジョン・リドリー。あっというまに三十分経過。やばいやばい、勉強勉強。お仕事場から持ち帰った本を読む。三分で眠気。眠気覚ましにジョン・リドリー。あっというまに三十分経過。やばいやばい、勉強勉強。お仕事場から持ち帰った本を読む。三分で眠気。眠気覚ましにジョン・リドリー。あっというまに三十分経過。やばいやばい、勉強勉強。お仕事場から持ち帰った本を読む。三分で眠気。眠気覚ましにジョン・リドリー。あっというまに三十分経過。気付いたら、夕方です。新宿へ。

 本日は、一年の締め括り、鉄割の忘年会です。めがね焼きをいただきながら、来年もよい年であると良いですね、と口々に。

 久しぶりに朝方までお酒を飲んで、倒れるように帰宅。

03年12月30日(火)

 起床。午後二時。寝惚け眼で部屋を見回すと、クニノトコタチ尊とクニノサツチ尊とトヨクムノ尊の三人の神様が誕生している。陽気だけで生じたので、全員が男なのがちょっぴりいや。

 カフェへ。昨日途中まで読んだジョン・リドリーの『地獄じゃどいつもタバコを喫う』(Everybody smokes in hell)が面白すぎて、一気に読了。いわゆるパルプ・ノワール系のノベルなのですが、この種の作品にはまりそうです、まじで。ジョン・リドリーの他の作品『The Drift』と『Those Who Walk in Darkness』と『A Conversation With the Mann』も即効で購入。米Amazonのカスタマレビューをみても、ほとんどが四つ星以上。たーのーしーみー。

 以前にもちょっとだけ書いたけれど、ジョン・リドリーはもともとは映画の脚本家(もっと前にはスタンドアップコメディアン)で、最近の仕事では、スパイク・リーのいとこのマルコム・リー監督の作品『Undercover Brother』の脚本なんかを書いているらしい。ストーリーはといえば、「洗脳をたくらむ白人たちの陰謀から世界を救う、アフロヘアが自慢の秘密エージェント」が主役のおばかアクションコメディ。うー、これもとても面白そう。

 夜、クシシュトフ・キェシロフスキの『アマチュア』を観る。とても良い映画だった。どうして映画の中で作られる映画とか、小説の中で描かれる小説とか、舞台の中で上演される舞台というものは、これほどまでに魅力的に映るのだろう。とても感動したので、今日は気持ち良くねむることができそうです。

「私のあだ名を知ってる?」
「いいや」
「アマチュアよ。当たってるわ。今まで一度だって本気で何かをやったことがないの」
映画『アマチュア』より
03年12月31日(水)

 大晦日です。

 今年は、カウントダウンの三十分ほど前に家を出て、走りながら新しい年を迎えました。大晦日といえども、石神井の公園はやはりいつもの如く静寂。空を見上げると、空の星星がびっくりするぐらい綺麗で、来年こそは音楽を聴くことができますようにと祈って、いつもよりも少しペースを上げて走りました。うんこを踏みました。

 来年こそは音楽を聴くことができますように。みなさま、良いお年を。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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