03年01月01日(水)

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくね。

 1909年の本日、1月1日に、マルセル・プルーストは、紅茶にトーストを浸した瞬間に、頭の中に幼年期の記憶が甦るという体験をしました。

 この体験から彼は、「現実は記憶のなかにのみ形づくられる」という命題を得て、14年をかけて『失われた時を求めて』全七巻を書きあげることになります。当初、第一巻『Swann's Way』はどの出版社からも刊行を拒否され、プルーストは後に二十世紀を代表する作品となるこの小説を、自費で出版をしました。

 モンティ・パイソンの「the All-England Summarize Proust Competition」というコントでは、「全英プルースト要約選手権」に出場した三人の選手が、『失われた時を求めて』を15秒で要約することを競い合います。もちろんそんなこと出来るはずもなく、結局はおっぱいが一番でかい女性が優勝します。

 ということが、文学史上の「今日」を紹介する「Today in Literature」というサイトで紹介されています。このサイト、ぼくもちょくちょくチェックしているのですが、とても面白いですよ。

■Today in Literature

失われた時を求めて』はずーと読みたい読みたいと思いながら読んでいない作品です。入院したり、監禁されたり、無人島に遭難したりとか、とにかく時間が死ぬほど余る機会があったら是非とも読んでみたいのですが、なにかと慌ただしい日々を過ごしているため、なかなか読む機会がございません。余裕のない生活って嫌ね。

03年01月02日(木)

 東中野で『チェ・ゲバラ -人々のために-』を観てきました。

 今更改めて言うまでもありませんが、チェ・ゲバラ(本名エルネスト・ゲバラ・デラセルナ)はカストロとともにキューバ革命で活躍したアルゼンチン出身の革命家です。この作品は、生前のゲバラを知る人々の証言を集めて彼の実像、一般には知られていない彼の姿を探るという、言ってしまえば有り勝ちなドキュメンタリー映画なのですが、キューバ革命をゲバラと共に生き抜いた証言者たちはひとりひとりの発言はとても力強く、言葉に重みがあり、ゲバラの実像を探ると共に、革命家としての彼らひとりひとりの存在に強く魅かれました。すげーかっこいいんだもん、この人たち。

 映画を観て再確認するのは、ゲバラがどれだけカリスマ性を持った人格者であったか、ということで、サルトルをして「20世紀で最も完璧な人間だった」と言わしめたキューバ革命の英雄は、1997年7月12日にその遺体がキューバに返還されると、国を挙げて迎え入れられました。その様子も映画に収められているのですが、如何に彼がキューバ国民に愛されているかが、映像を通しても伝わってきます。

 映画の中で登場する証言者のひとり、確かオスカー・フェルナンデス・メルという方だったと思うのですが、その方がこんなことを言っていました。

私たち全員がカストロを勇敢だと認めていた。カストロにそのことを言うと、彼は『自分よりもゲバラの方が勇敢だ』と言った。私はチェに尋ねた。貴方は、恐怖を感じることはないのですか?ゲバラは答えた。『もちろんあるさ』

 うろ覚えなので、ところどころ間違っているかも知れませんが、概ねこんな感じの事を言っていたと思います。そして、フェルナンデス・メルは「恐怖」についてこう語ります。

恐怖を克服するためには、より多くの恐怖を経験することです。そうすれば、恐怖の感情は徐々に薄れてくる。

「祖国を守るため」という大義のために戦ってきた革命家たちの、このような言葉を聞きながら、ぼくは恐怖という感情に対して、どれぐらい距離を置いて生きているのだろうか、と考えました。ぼくが最後に恐怖を感じたのは、一体いつのことだろう?

 舞城王太郎氏の始めての短編集『熊の場所』に収められた表題作『熊の場所』という作品の中で、主人公である小学生の沢チンは、同級生のまー君がランドセルの中に切り取られた猫のしっぽを入れていることを知り、まー君の猫殺しに気がつきます。そのことを本人に聞こうとすると、まー君は「あっち行け阿呆、殺すぞ」と沢チンを恫喝し、沢チンは恐怖のあまり逃げ出してしまいます。逃げ出した後に、沢チンは父の話を思い出します。

 沢チンの父が大学生の時の事です。「遠征」と称して訪れたユタの原生林で、父は熊に遭遇しました。恐怖のあまり、一緒にいたオーストラリア人を置いて逃げ出してしまった父は、国道に止めた車の所まで辿り着き、ドアの全てをロックし、前のめりになってハンドルに頭を乗せて、考えます。

「あーこのままやったら、俺もうこの林ん中には二度と入れんなあ。それどころか、下手したら、もうどの山にも林にも、独りでは怖うて絶対入れんようになるやろう」

 そう考えた父は、ダッシュボードの中の銃をとりだし、弾が装填されていることを確かめ、予備の弾丸と、おそらく死んでいるであろうオーストラリア人を埋めるためのスコップを持って、熊の現れた場所へと舞い戻ります。

 最終的に父は、熊をスコップで殴り殺し、自らの恐怖を克服するのですが、その父が沢チンに言った言葉が、「恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐに戻らねばならない」でした。沢チンは父の言葉を思いだし、夕方にちゃりをこいでまー君の家へと向かうことを決心しました。

 と、こんな感じで物語は続くのですが、この小説を最初に読んだときに思ったのが、小学生の頃に感じた、「あの」恐怖心のことです。昔は同級生や先輩に対して時には本気で恐怖心を抱くこともあったのに、あの恐怖心は何処に消えてしまったのだろう?沢チンがまー君に対して感じたような、あの恐怖心は一体どこへ消えてしまったのだろう?人以外にも、夜の森林や、あるいは昼間の墓場など、恐怖を抱く要素は世界に満ちあふれていました。子供の頃は、恐怖を感じ、それを克服することによって、生きているという感触を直に味わっていた気がします。その「恐怖」が転じて「生」に変わるという感覚を忘れてから、どれくらい経つのだろう。そして、ぼくの中から正しい意味での「恐怖」の感情が無くなって、どれくらい経つのだろう。

 この「恐怖」の感覚、小学生から高校生ぐらいにかけてぼくが身近な人間や物、場所に対して抱いていた「恐怖」の感覚を笑う人もいるだろうし、理解してくれない人もいると思います。薄ら笑いを浮かべて「そんなもの感じないでしょう」とかね。そう言う人に対しては、「自分の経験したことだけで世界を見ようとするその狭い視野を死ぬまで持ち続けて下さい」と心の中で願うしかないのですが、それでもぼくは当時の「恐怖」を感じたという記憶を克明に持っているし、その恐怖の感覚を、今でもどこかで感じたいと思っています。と言っても、やくざとかと関わるのは嫌ですけど。

 友人や先輩などに抱いた恐怖の感情は、時には尊敬に転化することもありました。恐怖の感情が薄れている今のぼくには、そのような尊敬の感情すら存在していないようです。っていうか、感情が欠落しているのではないか、と思うことすらあります。なんつーか、生きてるって気がしません。

 ともかく、『チェ・ゲバラ -人々のために-』は良い映画でした。ゲバラのことを知らない人にもお勧めの映画でございます。

03年01月03日(金)

 アメリカではもう『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』の公開が始まっているのですねえ。うらやましい。

 以前にもちょいと書きましたが、ロード・オブ・ザ・リングの字幕のことで、いろいろと騒動が起きております。簡単に経緯を説明すると・・・

ロード・オブ・ザ・リング』が日本で公開されると、一部『指輪物語』のファンやある程度英語のヒアリングが出来る人々の間から、実際のセリフと字幕スーパーのセリフが違いすぎるという指摘が頻発しました。有志による抗議サイトがいくつか立ち上げられ、実際に問題のある字幕などを提示し、一般の人々に訴えかけるとともに書名を集め、日本ヘラルドへも公開質問状を送るなどの抗議行動が行われました。

 日本ヘラルドは、公開質問状に対して以下のように返答しました。劇場公開版では字数に制限があるため、あのような字幕になった、DVD版の『ロード・オブ・ザ・リング』に関しては、字数制限が緩和されるため、字幕を修正する。さらに、第二部以降に関しては、引き続き戸田奈津子氏に字幕を依頼するが、原作訳者の田中氏と、原作出版社の評論社にも協力をお願いする、と。

 その後、発売されたDVDの字幕は実際に修正されていたようですが、公開となった第二部『二つの塔』の予告編の字幕に、再び誤訳があるという指摘がされました。このことが、『指輪物語』のファンに再び不安の念を抱かせ、ピーター・ジャクソン監督に直接書名を運動が開始されました。

 12月12日、なんとピーター・ジャクソン監督本人の口から、「日本の翻訳者を交代させた」という発言があったというニュースがThe One Ring Netに掲載されました。この知らせに、これまで字幕改善運動を行ってきた有志を始めとしたファンは歓喜しましたが、しかし・・

 現在、『ロード・オブ・ザ・リング』の日本版公式サイトでは、「全訳を田中明子氏(原作本の共同翻訳者)にお願いし、全訳から日本語字幕版原稿の作成を戸田奈津子氏」が担当する旨が掲載されています。さらに、ピーター・ジャクソン監督の発言に関しては、「全く寝耳に水」であり、現在確認中とのことです。前回に引き続き戸田奈津子氏が字幕を担当することと、予告編『二つの塔』の字幕に対する不満から、有志の間では再び不安と懸念が抱かれています。

 ぼくは字幕をひとつひとつ検証したわけでもないし、また検証してもそれがどれだけ誤訳であるかを判断することはできません。これらの経緯に関しても、ほとんど有志のサイトを経由してのみの情報しか知らないので、この問題に関心を持った方は、自分で詳しく調べてみることをお勧めします。

■魅惑のFotR日本語字幕版

 なんにしても、あー、早く『二つの塔』が観たい!

03年01月04日(土)

 なんでも明日というか今日というか、1月5日に鉄割がイベントに出るそうです。 詳しくはスケジュールのページをごらん下さい。

 そんで本日は、そのリハーサルに行ってきました。お芝居をやっている方々などもたくさんいて、みなさんちゃんと腹から声を出していて、とても偉いなあと思いまんした。あと、セリフもちゃんと覚えていて偉いなあと思いまんこした。鉄割では、本番中でも疲れてくるとセリフを言うのをやめたりすることがあるのですが、実はそれはいけないことなのかしら、と反省しまんた。これからはちゃんとセリフを覚えます。嘘です。いえ、本当です。

 出番待ちのうたこさんです。

うーちゃん

出番待ちの中島兄弟です。

なかじー

 リハーサルが終了して、お酒を飲んで、お友達の家でプレステ2をやって、先程帰宅しました。もう、絶対にプレステ2買います。明後日。あの、太鼓のゲームとか。

 この文章を書いているのが、明け方の四時過ぎなので、皆さんがこれを読むころにはイベントも終了しているかもしれませんが、もし間に合うようでしたら、是非ともいらして下さい。

03年01月05日(日)

 渋谷クロコダイルのイベントに参加してきました。

 演目は「ビンゴゲーム」「ケンちゃん曼荼羅」「問題のある家族対抗歌合戦」。本番ぎりぎりまで自分の荷物を探してあちらへうろうろこちらへうろうろしている渡部さんがとても迷惑で邪魔でした。

 本番直前の中島兄弟です。

ぶらざー

 16:00本番終了。16:00に渋谷におっぽり出されてもなにもやることがないので、パルコブックセンターへ行ったところ、内装が完全に変わっていて度肝抜かれました。何冊か本を買った後、まだ帰宅するには早い時間だったので、漫画喫茶に行って藤子・F・不二雄短編集をまとめて読んで感動して、楳図かずおの『猫目小僧』と『アゲイン』を読んで感動して、ジョージ秋山の『ゼニゲバ』を読んで感動していたら、空が程よい暗さになったので、ビックカメラに寄ってプレステ2を購入して帰宅しました。これでやっとDVDが観れる!

 ゲームもいくつか買ったのですが、その中にサッカーゲームが混じっておりまして、これにすっかりはまりました。けどぼく、現実のサッカーのルールも良く分かってなくて、オフサイドってなに?って感じなので、まずは現実のサッカーの勉強から始めたいと思います。本当は、たいこのゲームが欲しかったのですが、品切れで手に入らなかったので、替わりに中古屋で『パラッパラッパー』を買いました。すげー面白くてびっくりしました。とうとうプレステ2を買ってしまいましたが、ラチェット&クランクの攻略本を買うようなカップルにだけはなりたくないと思います。

 明日で正月休みもお終いです。うう。悲しいよう。

03年01月06日(月)

 先日テレビを見ていたところ、タイのある新興宗教の教祖が、自分が無敵であることを証明するために、刀を片手に軍隊へ突入する映像が流れていました。教祖さんは思いっきり銃で蜂の巣にされて、あっというまに死亡しておりました。うわーすげーまじじゃん、こいつマジで自分のこと無敵だと思ってんじゃん!と感心してしまいましたよ。

 貧困な想像力しか持ち合わせていないぼくは、「新興宗教」と聞くとどうしても、金もうけ主義の黒幕とその操り人形である教祖、という図式を想像してしまいます。映画『教祖誕生』とか、『マルサの女2』みたいな。けれども、実は大半の新興宗教の教祖さんは、自分のことを本気で神様だと思っているようで、人を生き返らせることができるのよ!などと信じきって死体を何日も放置したり、わけのわからない治療を施して逆に殺してしまったりと、日々を一生懸命に生きているようです。麻原にしてもチャールズ・マンソンにしても、教祖としての自分だけが真実なのですから、いくらぼくたちが違う世界から語りかけても、話が通じるわけがありません。

 大正から昭和にかけて、出口王仁三郎という方がいらっしゃいました。このかた、大本教という宗教団体の偉い方で、今も大勢の方の信仰の対象ですから下手なことを書くわけにはいかないのですが、この方、自分のことを弥勒菩薩であると信じきっていて、このような写真を撮っております。

みろく

 森村泰昌氏に見せてやりたい。

 もしこの方がぼくの同級生だったら、絶対に言ってやります。お前は100%弥勒ではないと。それが彼のためにもなると思います。

 まあしかし、ぼくの大好きな空海さんにしても、「五十六億七千年後に弥勒と一緒にお前ら助けにくっから」とマジで言って即身仏になってしまったわけだし、宗教史を紐解けば、今のぼくたちの価値観からするとおかしな人はたくさんおります。キリストのちんちんの皮を食ったと言い張る女の子とかもいたし。そういう方々の記録を、心ゆくまで堪能したい。

 そんで池袋のジュンク堂の宗教のコーナーに行ったら、王仁三郎っちの本が死ぬほどあってびっくりしました。

03年01月07日(火)

 safariいいねー。余計な機能がついていないのが良いです。
 slashdot.jpとかでもすげー言われてたけど、あれでタブ機能が付いていたらさらに良いのですけどね。

 ところであなた、出家してもう東京にはいないという噂を聞いたのですが、生きているのですか。あけましておめでとう。

 また要確認のブラウザが増えてしまいました。めんどくせ。

03年01月08日(水)

 以前にもこの雑記でちょっとだけ書きましたが、西岸良平さんの漫画が大好きでして。

 現在連載中の『三丁目の夕日』もとても良い作品だと思いますが、ぼくが好きなのはやはり『鎌倉物語』で、こちらも(おそらく)連載中ではあるものの、めちゃくちゃ不定期でして、単行本も数年に一回しか出ません。ついこの間十九巻が出たばかりなので、二十巻が出るまで、また何年か待たないといけません。

 先日、鉄割のお手伝いさんであるさとみさんから、こんなサイトを教えていただきました。

■「鎌倉ものがたり」を歩く

 このサイト、素晴らしいです。今度鎌倉に行くときは、是非ともガイド代わりにしましょう。

 さとみさんは、ぼくが『鎌倉物語』のファンだということは知らずに、ただ単にぼくがここに興味をもつのでは、ということで教えてくれたのですが、ぼくが田谷山定泉寺瑜伽洞に興味を持つのではと考えてくれたことと、それが鎌倉物語に関するサイトであったという偶然の一致が妙に嬉しくて、今度あったらびんたの一発でもくれてやろうかと思っております。センキュウ。

 で、『鎌倉物語』です。魔界と人間界の境界にあり、魔物と人間が共存している鎌倉という土地で起こる数々の殺人事件を、小説家であり名探偵である一色正和が、妻の一色亜紀子と共に解決していくという、こうやって書くと何が面白いのかさっぱり分からないと思いますが、とても素敵な漫画です。漫画喫茶に行ったときには、是非御一読。

 お友達とかが、「あなた、これ好きなのではないですか」などと言っていろいろと勧めてくれるのはとても嬉しいものです。

03年01月09日(木)

 明治三十四年十一月六日、俳人正岡子規は夏目漱石に生涯で最後の手紙を送りました。その手紙の書き出しは、以下のようなものでした。

 僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ。

 衰弱しきった正岡子規が書いたこの言葉を、最近なにかにつけ思いだします。と、申しますのも、ぼく、すっかりプレステ2にはまってしまっているわけでして。

 ゲームをすることがいけないのではないのです。ゲームをやめられない自分が不甲斐ないのです。一時間なら良いのです。十時間以上もぶっ通しでやってしまうのは、精神がたるんでいるが故のことではないかと思うのです。

 映画を観れば思うところ有り、小説を読めば思うところ有り、音楽を聞けば思うところ有り、散歩をすれば思うところ有る。けれども、ゲームをやっても、思うところがあまりないのです。これは、単にぼくとゲームという表現形態とぼくの相性の問題なのだと思うのですが、ゲームを終えたあとに残るのは、罪悪感だけなのです。アア、マタヤッテシマッタ。

 今年という年こそは、日々を精進し、どんな些細なものであってもよいから、必ずなんらかの仕事を成し遂げようと決心しばかりであるにもかかわらず、朝起きて、ゲームをし、昼食を食べてゲームをし、昼寝をして、夕方再びゲームをし、夕食をしながらゲームをし、明け方までゲームをしております。そうして、そのように家にこもっている自分に対し、ぼくはこう思います。僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナクゲームシテ居ルヤウナ次第ダ。

 それでは、ラチェット朝まで行かせていただきます。

03年01月10日(金)

 レイトショーのみの上映なので、観に行くのをやめようかと思っていたのですが、あるお友達がとても面白かったといっていたので、どうしても観たくなってしまい、トッド・ソロンズ監督の『ストーリーテリング』を観てきました。

■StoryTelling

 まわりの意見などを聞くと、『ハピネス』のほうが好きという方が多いのですが、ぼくは圧倒的に『ストーリーテリング』のほうが面白かったです。観る前に友達とお酒を飲んでいて、気持ちの良い感じで映画館に行ったのですが、オープニングでうつらうつらとしてしまい、それがとても気持ち良く、本編に入ったときにはちゃんと目を覚ましましたが、その後も気持ちの良さだけが続いておりました。そんな状態の時に「フィクション」とタイトルが出て、アメリカの創作学部のお話が始まったので、それだけでもうおかしくておかしくて。さらにピューリッツァ賞を受賞した講師とか、「個人的な意見だけど」を口癖とする辛口の生徒とか、その設定と描き方がこれまたおかしくて、主人公の女の子が来ているTシャツがこれまたおかしくて、なんでしょう、ぼくは以前に小説作法の授業を受けていた経験があるのですが、あの授業の馬鹿馬鹿しさがとても滑稽に描かれていて、もうずっと笑いっぱなしでした。だって、「東海岸で身体障害者のフォークナー」ですよ、小説を書いて友達に見せたら「糖尿病でマラソンしている村上龍」って言われるようなものですよ。「ノンフィクション」の方も、大変面白くて、もうずっと興奮しっぱなしで、実はこの映画を観たのは去年なんですけれど、去年観た映画の中で一番面白かったかもしれません。

 トッド・ソロンズという方は、ご存知の通り『ハピネス』の監督さんで、『ストーリーテリング』は第四作目の作品にあたります。処女作が『恐れと不安と憂鬱』、第二作目が『ウェルカム・トゥ・ドールハウス』、そして三作目が『ハピネス』になるのですが、前二作品は聞いたことありませんでした。処女作『恐れと不安と憂鬱』で自ら主演して、ウッディ・アレン気取りだとか、自意識丸出しとか、散々叩かれたソロンずさんは、泣きべそをかいて地元へ引きあげてしまい、以後五年間、映画を撮ることが出来なかったのですが、心機一転、1995年に『ウェルカム・トゥ・ドールハウス』を撮ったところ、サンダンス映画祭でグランプリを受賞、次いで『ハピネス』で一躍注目を浴びて、今ではすっかり売れっ子監督さんのようです。

 それから、あまり取り上げられてはいませんが、このソロンズさん、結構な演劇青年らしく、『恐れと不安と憂鬱』はベケット、『ウェルカム・トゥ・ドールハウス』はイプセンの『人形の家』、『ハピネス』はチェーホフの『三人姉妹』に影響を受けて書いたとか。やっぱチェーホフか、今の時代。

 それにしても、普通の家庭のお父さんとしてのジョン・グッドマンは強烈でした。でかい。

03年01月11日(土)

 年始というものは、今年は良い年でありますようになどとお祈りをする希望に満ちた時期だと思うのですが、なぜかわたくしは頭をぱっくりと割ってしまいまして、さらに目の回りは内出血でパンダのように真赤に縁取られており、そのような状態で日々はゲームをして過ごし、家を出ることもなく、一日に少々の米を食らい、人と話すこともないような生活を送っていると、今年に対して早くも絶望を感じながらもほんの些細なことに希望を見つけようとし、下手な希望は後に余計に辛くなると頭では解りつつも、それでもまだ世俗に対して幾許かの執着を捨て切れず、町に出れば良いことがあるのやもしれぬなどと思って町を出たら汚い外人とぶさいくな日本人女性がディープキスをしておりました。それでこれは今年は駄目だとあきらめがつくかと言えばそんなこともなく、やはりまだもしかしたら何かしらの幸福に巡り合えるかも知れないなどと阿呆な希望を持ち続けている次第でございます。

 で、ゴーギャンのこの絵ですが

われわれはどこ?

 絵自体は大好きなのですが、タイトルが良くない。タイトル、「我々はどこから来たのか?我々は何者なのか?我々はどこへ行くのか?(Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?)」というのですけど。

 それで、古本屋に行ったらアイスキュロスの『縛られたプロメーテウス』が売っていて、眠れない夜に良いかしらと思って買ってちょいと読んでみたところ面白すぎて読みが止まらず、読了してみればこれは全能の神ゼウスに刃向かってけちょんけちょんにされてしまう男の話でありまして、今この時期にこんな本に巡り合うとうことは、そうか、ぼくは神様に刃向かわなくてはいけないのかと、軽はずみな決心をいたしました。

 そんなわけで、ことしのぼくの目標は、神様に勝つことです。どんなバチを与えられても決してくじけません。かかってこい、神。ぶっとばしてやる。

03年01月12日(日)

 鉄割の雑記はあまりにも主観的なものばかりなので、ひとりぐらい客観的に内情を書いてくれる人はいないだろうかと思い、藤井君に稽古場日誌をお願いしたのですが、稽古がない時はとても溌剌と素敵な文章を書き連ねているにもかかわらず、稽古が始まると急に文字数が減り、文章の覇気もなくなるのが個人的にはとても面白くて気に入っております。やはり彼も鉄割であったか、などと再確認と満足しつつ、今後もその調子でよろしくお願いします。

 今月号の『東京人』は「大江戸八百八町を歩く」という特集でして、これは買わねばなるまいと迷わず購入いたしました。今年は日本的な文化とは距離をおこうなどと生意気なことを考えていたのですが、やっぱ江戸って最高ね。すべての記事がおもしろすぎて、やっぱりぼくは日本が大好きと再確認しちゃいました。えへ。日本大好き。とくに感動したのが、町田康氏の「すっとこどっこい道中記」で、テレビの時代劇の雰囲気を求めて東京を歩くという、8pほどの短い記事の6pが写真と絵で、文章は2pほどしかないのですが、本当にすばらしかった。書き出しがね、

パソコンやケータイを持ち歩くのではなく、矢立や煙管を持って歩きたい。靴はいて歩くのではなく雪駄ちゃらちゃらいわして色街を流して歩きたい。スターバックスではなくて水茶屋で休息したい。キャバクラではなく廓で遊びたい。

 ってかんじなのですけど、面白すぎて何度も読み返しました。ぼく、多分、町田康氏の文章をまともに読むのって生まれて初めてかも。こんなに素敵な方でしたのね。だれか本貸して。

 あと、落語の舞台となった場所を紹介してくれる記事とかもあって、文章は死ぬほどつまらなかったのですが、落語のお話がとても良くて、丁度前日に『チェーホフ 短篇と手紙』を読んでやたらと感動してしまったということもあるのですけど、落語って面白いかも。今までさほど興味が無かったのですが、ある意味ミニマリズムでしょ、落語って。チェーホフの短編と、落語と、続けて読んでみたい気がしております。だれか本貸して。

 それからねえ、個人的にとても良かったのが北原亞以子さんと森まゆみさんの「貧乏も、洒落で乗り切る江戸っ子気質」という対談で、全然期待しないで読んだらこれまたとても面白かった。「宵越しの銭は持たない」は貧乏人の負け惜しみとか、牛肉が結構食われていたこととか。多摩で降った雨水が濾過されて谷中の井戸に出てくるのに、二百年かかるんですって!ですから、いま谷中の井戸で汲む水は、江戸時代の水なんですよ。あとね、江戸っこは粋だから商売は現金掛け値なしだったのですが、維新のあとに薩摩藩のおいどんたちが江戸にやってきて、すげー値切ったんだって。それでしょうがないから掛け値をするようになると、その店には江戸っ子が来なくなってつぶれてしまったり、どんどん江戸っ子の粋が失われて行ったんですって。それから、めちゃくちゃ気になったのが、森まゆみさんが「最近、江戸の女性の旅行記が続いて出ましたよね」という発言で、なにそれ、読みたい!なんという本か書いていなかったのですけど、有名な本なのかしら。ちょっと調べてみよう。

 そんな風に江戸の空気を勝手に感じていたら、いてもたってもいられなくなってしまい、杉浦日向子さんの『江戸アルキ帖』を買ってきました。これ、ちゃこさんが読んだと言っていたのを聞いて、以前から読みたい読みたいとも思っていたのですが、期待を裏切らず素晴らしい本でした。家で夜中に読んでいたら、なんとなく切ない気分になってきて、せっかく東京に住んでいるのにぼくはほとんどの町を歩いていないということが急に悲しくなってしまいました。江戸の空気は東京のどこにいっても味わおうと思えば味わえるのですから、家でゲームなんかやっている場合ではありません。プレステ2叩き壊して、日々お散歩を心がけるように、いえ、心がけるなんて意気込みはいりません。ただ、気の向くままに歩きたい。

 江戸の地図を買って、小石川あたりから出発して浅草ぐらいまで、蕎麦でも食いつつ歩いてみましょう。粋な江戸っ子になることを夢見ながら。

03年01月13日(月)

 一般に、絵画を描いたり、音楽を作曲あるいは演奏したり、小説を書いたり、パフォーマンスをしたり、そのように制作物やコンセプト、行為など、何らかの媒介を通して自己を表現する人のことを、「芸術家」「アーティスト」、あるいは「作家」と呼びます。それは即ち「芸術を行う人」という意味に帰結すると言ってよいと思うのですが、そのときに問題になるのは、「芸術」とは何か、という、古来より数多の議論を引き起こしながらも、未だに明確な答えの存在しない普遍的な問いです。私たちが誰かを指して「芸術家」と呼ぶとき、少なくともその人は、私たちが漠然と「芸術」と呼ぶ分野に直接、あるいは間接的に影響を受け、且つ意識的に「芸術」を行っている場合がほとんどだと思います。つまり、「芸術」の定義は曖昧であっても、それを行う人にとって、「芸術」を行っているという意識は自覚的ということになります。

 現在ワタリウム美術館で開催されている『ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で』展に行って考えたのは、そのような従来の「芸術」という概念に関する疑問ではなくて、そもそも表現をするということの意味とは何かということで、これもまた古来より繰り返し議論されてきた、答えのない題目です。人はなぜ表現するのか。繰り返しになりますが、現代においても「芸術」という定義は曖昧であり、そのような状態でヘンリー・ダーガーが「アウトサイダー・アーティスト」と呼ばれるのは、彼が正規の芸術教育を受けていないということが大きいのかも知れませんが、芸術教育を受けていないアーティストは数多く存在するし、逆に教育を受けなくては芸術活動が出来ないということになれば、ある意味で十九世紀以前のサロン芸術に見られるような閉鎖的な空間を作り上げてしまう危険性を伴うわけで、少なくともそれは二十世紀における芸術の活動とは相反する行為だと思われます。そうなれば彼が「アウトサイダー」と呼ばれるのは、彼が創作に自覚的でなかった、つまり彼が全十五巻、百点を越える挿し絵、一万五千ページに及ぶ大著『非現実の王国、あるいはいわゆる非現実の王国におけるヴィヴィアン・ガールズの物語、あるいはグランデリニアン大戦争、あるいは子供奴隷の反乱に起因するグラムディコ.アビエニアン戦争』を書き上げたのは、意識された芸術活動ではなく、あくまでも彼自身の欲求によるものである、という点が大きいと思われます。

 いままでもこの雑記の中で何度か取り上げていますが、ヘンリー・ダーガーは、1892年にアメリカ、イリノイ州シカゴに生まれました。幼いうちに養子に出され、8才でカトリックの洗礼を受け、その後知的(感情)障害者と認定され、施設に入ります。しかし17才の時に施設から逃亡、その後病気で入院する71才まで掃除婦、皿洗いなどをして生計をたて、81才(1973年)で亡くなるまでその生活は続きます。死後、四十年に渡ってダーガーがひとりで住んでいた彼の部屋から発見されたのが、彼の唯一の作品『非現実の王国(・・・)』です。その内容は、奴隷少女たち<ヴィヴィアン・ガールズ>の軍隊が、架空の王国の支配権を強奪した凶悪な奴隷主であるグランデリニアン人と戦うというストーリーが骨子になっている非現実的な王国物語であり、幻獣ブレンギグロメニアン・クリーチャーたちが空を飛びかうその王国で、男性器をつけた幼い少女たちが、戦いのなかで拷問、虐殺されていきます。この物語を、ダーガーは19才から71才までの間、ひとり部屋にひきこもり書き続けていたのです。

 ジョン・M・マクレガーによる『ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で』は、精神医学者であるマクレガー氏が、そんなガーダーの唯一の著書を精査・分析した論文と、『非現実の王国で(・・・)』の抄訳、カラー図版三十九点を加えた、おそらく現在読むことのできる唯一のダーガーに関する書籍です。この本によれば、最初に小説の部分を書き上げたガーダーは、その後に挿し絵の制作にかかったということで、絵を描いたことのなかった彼は、新聞や雑誌などから少女の絵を探しだし、トレースし、コラージュして挿し絵を完成させていったそうです。文字通り人生をかけて作品を作り上げた彼は、その作品の存在を誰に告げることもなく、この世から去っていったのです。

 これらの創作物と創作行為に関して、彼に芸術活動であるという自覚があったのかどうかを、第三者であるぼくたちが判断することはできません。あるいは、『非現実の王国で』と共に残されていた五千ページに及ぶ自伝を読めば、ある程度は明らかになるのかもしれませんが、それが一般に公表されていない以上、そこから推測することもできません(公表されていたとしても、それを読み通すことができるかどうか・・)。しかし、彼がこれらの創作物と創作行為を誰にも伝えずにこの世を去ったという事実を考えれば、かれがこの行為を「芸術」であると意識していたというよりは、自らの欲望を書くことによって、あるいは描くことによって解消していたと見るほうが自然のように思います。自らの欲求を満たす行為であれば、第三者にそのことを伝える必要はありません。だれがマスターベーションの逐一を、他人に伝えるでしょうか。だれがマスターベーションをするときに、他の人のマスターベーションを学ぶでしょうか。

 ここ数年で一気にその名を世界に知らしめたヘンリー・ダーガーのことを語るとき、多くの人が口にするのは「そもそも芸術とは何なのか?」「表現するとはどういうことなのか?」「そもそも人はどうして表現するのか?」という、普遍的な問いです。それらの公開されることを前提としなかった作品群を目の前にするとき、それらの絵画のうちに秘める不思議な魅力に魅かれながらも、ぼくたちがより強く感じるのは、おそらく感動よりも驚異に近い感情でしょう。そしてその驚異は、絵画そのものに対するよりは、ダーガーの内面に対するところが大きいと思います(もちろん、「作品そのもの」に魅かれる人がいるという事実は否定しません)。「アウトサイダー」と名付けられた「外部の」芸術家によって、芸術そのものの存在は激しく揺さぶられ、ぼくたちは根本的な問いに立ち向かわされます。どうして人は表現をするのか、という問いに。

03年01月14日(火)

 心を落ち着けるために、好きな絵を見ながら考え事などをしたり。

contemplation

 タイトルは"Contemplation" 。リーダースで調べたところ、以下のように出ていました。

1 黙想, 観想, 熟考 (meditation).
・be lost in 〜 黙想にふけっている.
2 熟視, 凝視, 静観.
3 予期, 予想; 企図.

 一番近いと思われる訳語は「観想」でしょうか。何の結論を出すわけでもなく、ただ考えるためだけに考える。

contemplation

 クレメンテの作品は、本当に素晴らしいと思うのですが、皆さま、いかがでしょうか。

 こうやって彼の絵を感じることができる時代に生まれたことが、ぼくの幸せです。

03年01月15日(水)

 ようやくラチェットをクリアして、これで生活が日常に戻ると安心していたのですが、あのね、つい魔が差して『真・三國無双』とかいうゲームを買ってきたら、これが死ぬほど面白くてね、やめられないの。

 っていうかさー、こういう歴史物のゲームってやばいのよね、三国志が好きだったりするともうたまらないじゃないですか、だってぼく、関羽になってるのよ。そりゃはまるって。まさか人生で関羽になれるとは夢にも思っていなかったもの。先程、黄巾の乱の首謀者、張角をぶっ殺して将軍になっちゃった。うふふ。

 やばいのは、ぼくが買ったのは『真・三國無双』なのですが、『真・三國無双2』というものも出ていて、さらに『真・三國無双3』ももうすぐ出るらしく。これ、全部買って全部クリアするまで抜けられません。

 これが幕末ものだったりすると、さらにはまりそうです。そのようなゲームが存在しないことと、今後も発売されないことを切に願います。

03年01月16日(木)

 ゲームを一休みして、『メン・イン・ブラック2』を観ました。

 前作がかーなーりーつまらなかったので、続編ができても絶対に観ないと思っていたのですが、なんと大好きなララ・フリン・ボイルが出演しているということで、つい観てしまいました。作品は相変わらずで、宇宙人がもはや宇宙人でないところは面白かったです。小学二年生のぼくの甥は、この映画を大変気に入っていて、彼の話を聞いていたら、もしかしたら小学生の頃にこの映画を観たら面白かったのかも、などと思い、そう考えていたら、小学生の頃に熱中した『グーニーズ』とか、『ゴーストバスターズ』なんかも、もしかしたら二十代で観ていたらあれほどにおもしろいとは思わなかったのかしら、などと思いました。年を重ねるごとに面白かったものがつまらなくなるような、そんな年の取り方はしたくないものだと思っておりましたが、年をとるごとに面白いと感じるものもどんどん増えている以上、仕方がないことなのかしら。

あふたーぐろう それはまあ良いとして、ぼく、ララ・フリン・ボイルさんが大好きなのです。ツインピークスで有名な方ですが、ぼくが知ったのはニック・ノルティ主演の『アフターグロウ』という映画で、この映画、ロバート・アルトマンが制作を行っておりまして、最初は監督をしているのと勘違いして観たのですが、これが相当に面白くて、とくに金持ち若夫婦の奥さん役で出ていたララ・フリン・ボイルが素晴らしく、一目ぼれした次第でございます。映画もねえ、ぼくこういう映画大好きなの。ちょっとしたお話の映画。すげー感動とかした映画よりも、このようなちょっとしたお話の映画の方が心に残るのです、ぼく。

 ララ・フリン・ボイルさんは『ハピネス』にも出演しておりまして、三人姉妹の次女で、売れっ子の小説家の役の彼女です。とこうやって書いていたらとても強く『ハピネス』が観たくなったので、今ビデオレンタルで借りてきて観たのですが、ストーリーとか全然覚えていなくて、初めて観たような気がしてすごくおもしろかった!以前、『ストーリーテリング』の方が好き、と書きましたけど、前言撤回、両方とも同じくらい面白い。微妙なおかしさがね、とても好きなのです、ソロンズさんの映画の。役者が着てるTシャツとか。お話もとても上手だし。

 微妙なおかしさって、ちょっとでも出過ぎると面白さの強要になるし、ひっこめると何が面白いのか伝わらないし、それをうまく描くのってとても難しいと思うのですけど、ソロンズさんはその微妙さを上手に描けていると思うのです。チェーホフなんかを読んでいると、っていうか最近読んだばかりなのですけど、やっぱりその微妙な感じがとても上手に描けていて、ぼくはユーモアと同時にもっと別の読み方もしてしまったのですが、人生の機微というか、生活の妙趣というか、おそらくは誰もが知っているけど気付いていない、そのような微妙な感情や側面をとても上手に描いているように思うのです。ですから、チェーホフを読んでいると、ぼくは感動と同時にいろいろなことを考える。本を読んで多くを考えるということは、ぼくにとって最高の読書なのです。

 『メン・イン・ブラック2』のララ・フリン・ボイルさんは、残念ながら魅力的とは言いがたい役柄でしたけど、まあ、定期的に映画の中で拝見できるだけでもファンとしては嬉しいものなので、じぇんじぇんオッケーです。でも欲を言えば、また『アフターグロウ』みたいな映画の中で観たいな。

03年01月17日(金)

 今月号の雑誌『ダ・ヴィンチ』の特集は、「ブラック・ジャック大解剖!」です。ダ・ヴィンチ買ったのって、何年ぶりだろう。

 特集の中で、読者が選ぶ『ブラック・ジャック』エピソードベスト20とか、著名人が選ぶMyBestブラック・ジャックなどというオーソドックスなことをしているのですが、読者が選ぶベスト1のお話は、ピノコが誕生した『畸形嚢腫』でした。読者・著名人ともに人気があったのが「それが聞きたかった」というセリフで有名な『おばあちゃん』などなど。ぼくが一番を選ぶとしたら、多分『シャチの詩』かなあ。でも、『しめくくり』とかも結構好きだし。タイトル忘れたけど、人工知能を治療する話とかもなかなか。決められないよ。

 それで久しぶりにダ・ヴィンチを読んでいてびっくりしたのが、舞城王太郎氏の『熊の場所』が大々的に取り上げられていたことで、先月号の「SWITCH」でも結構な特集をしていたし、すげーなーと感心してしまいました。新刊もそろそろ出るみたいなので、楽しみにしております。

03年01月18日(土)

 渡部さんも書いておりましたが、世の喫煙者の居場所はどんどんと狭くなっているようでして、甲子園球場なども禁煙となったそうで、たばこを吸わない人にとって、喫煙者はもはやうんこに等しい存在になりつつあるのでは、などと個人的に非常に危惧しております。

 そんな折、こんな記事が。

■禁煙派圧力!ビートルズの写真変造

 この記事が真実だとして、これってすごくないですか。阿呆としか言いようがないというか、エロビデオのちんちんをモザイクで隠すのと同じくらい愚かな行為のように思えて仕方がありません。たばこを吸わない人の迷惑にならないように心がけては欲しいとは思いますが、アルバムのジャケットの写真を改変することによって、一体なにがどうなるというのか。ぼくの大好きな映画『SMOKE』なんか、そのうち存在すらしなくなってしまうのではないかしら。

 極端はいけないよなあ、などと思っていたら今度はこんな記事が。

■「当選祝いのダルマ目入れをやめて」視覚障害者が各党に

 ううむ。なんじゃこりゃ。こちらにしても、ひとりでも傷つく人がいるのであれば、そのような行為は自粛するべきではあると思いますが、傷つき過ぎの様な気がしないでもありません。「ダルマの目入れのイベントは、目がなければ不完全だという差別意識につながる」などとおっしゃっておりますが、そのように考えた人が、天地開闢以来にひとりでもいたのかどうか疑わしいものです。完全に被害妄想じゃん。というのはやはり、視覚障害者ではないぼくの意見になってしまうのですけど。

 ぼくはたばこは吸わないし、喫煙者を擁護するつもりはありませんが、吸う人を見るのはとても好きです。『ブラック・フォーク・ダウン』の中で、たばこを吸うアフリカ人が、たばこを吸わないアメリカ人に言っておりました。「退屈な人生を長生きしろ」と。

03年01月19日(日)

 Macintoshの新しいブラウザSafariがとても良い感じです。パソコン関係には一家言ある勉蔵君でさえ認めたほどですから。

■【レビュー】Mac OS X用超高速ブラウザ「Safari」の実力[MyComWeb]
■Safari特集[ZDNET]
■AppleのWWWブラウザ『Safari』[Slashdot.jp]
■Surfin' Safari[WebMonkey]
■Safariの使い方情報
■サファリ レビュー[AllAboutJapan]

 ぼく、実はブラウザ大好き人間でして、新しいブラウザがリリースされたり、既存のブラウザがバージョンがアップしたりすると、必ずインストールして感触を確かめるのですが、魅かれるのはブラウザの機能面よりもむしろHTMLのレンダリングの方で、つまり「HTMLレンダリングエンジン」に興味があります。

 HTMLレンダリングエンジンとは、HTMLで記述されたハイパーテキストを解釈して画面に表示する機能を持ったライブラリのことで、ブラウザと呼ばれるものには必ず搭載されています。大きく分けると、独自仕様のものと、一般に公開されているオープンソースのものと二種類あり、オープンソースで開発が勧められているブラウザはオープンソースのエンジンを、商品として販売しているブラウザ、あるいはあくまでも独自仕様にこだわるブラウザは独自仕様のエンジンを使用する傾向にあります。

 たとえば、商品として販売しているOperaiCabは独自のレンダリングエンジンを搭載し、MozillaNetscapeChimeraGnome用のブラウザGaleonなどはMoziilaプロジェクトが開発したレンダリングエンジンGeckoを、KDE用のブラウザKonquerorは同プロジェクトによって開発が進められているKhtmlを搭載しています。InternetExplorerが使用しているのは、言うまでもなく独自のレンダリングエンジンです。

 個人的に一番好きなレンダリングエンジンはGeckoで、ぼくは自宅のMacではMozilla、職場のMacOSXではChimera、LinuxではMozillaを使用しています。全部Gecko。Chimeraはまだバグが多いけど、気に入っています。Appleが独自のWebブラウザを開発しているという噂が流れた時には、ChimeraをベースにしてGeckoが使用されるという説が有力だったし、ぼくもそう思っていたのですが、Safariが選択したのはHTMLレンダリングエンジンにはKHTML、JavaScriptコアには同じくKDEのKJSでした。そのまま使っているわけではなくて、手を加えているようですが。

 当たり前ですが、レンダリングエンジンが異なればHTMLの解釈も異なるし、そうなればユーザーが目にする実際の表示も異なります。正しいHTMLやCSSを書けば正確に表示されるかといえばそうではなく、すべてのレンダリングエンジンで同じように表示させるためには、ある程度「技」を使って正しくないHTMLやCSSを書かなくてはいけないのが現状です。対応するブラウザの種類を増やせば増やすほど、HTMLは本来の組み方を逸脱した形で書かないといけないのですよ。それっておかしくない?CSSなんて使った日にはもう大変。ブラウザを識別し、そのブラウザによって最適化したHTMLに分岐するという方法もありますが、作業は煩雑になりメンテナンスも困難になるので、そのような方法はできるだけ避けたいものです。Webに関わる仕事をしている人は、各レンダリングエンジンへの対応に頭を痛めているのではないでしょうか。

 ぼくはレンダリングエンジンがどのような形でブラウザに実装されているのか知らないので、ここから先はあくまでも素人の戯れ言と思って欲しいのですが、レンダリングエンジンを、ブラウザのライブラリのような形にすることは出来ないのですかねえ。今のように不可分な形で実装されていると、たとえばレンダリングエンジンが新しいHTMLの仕様に対応しても、ブラウザのバージョン自体を上げないと対応ができません。現在、HTMLやCSSの対応がレンダリングエンジンごとではなくてブラウザごとに区分されているのは、そのためです。

 FlashやAcrobatReaderのようにプラグインの形にするのは難しいかもしれませんが、レンダリングエンジンのインタフェースを統一して、レイアウトの実装を各エンジンに任せるように設計してライブラリの形で使用するようにすれば、ブラウザに複数のエンジンを登録しておいて、その中から任意にひとつ選ぶ事ができるだろうし、ブラウザのバージョンは古いままでエンジンのバージョンだけを上げることもできます。さらにHTMLタグでエンジンを指定できるようにすれば、HTMLがそのエンジンを選択して表示することも可能だと思います。ブラウザは、あくまでも機能の集合になり、HTMLの解釈と表示は、完全にレンダリングエンジンにゆだねる。Windows系OSではIEコンポーネントを使用したタブブラウザが多く開発されていますが、あれはブラウザとレンダリングエンジンの分離というよりは、IEの機能自体も継承しているので、どちらかといえばIEの拡張、あるいは変更に近いと思います。ぼくが言っているのは、ブラウザとレンダリングエンジンの完全なる分離であり、レンダリングエンジンの完全モジュール化ということです。

 ブラウザの機能はレイアウトに依存している部分も多いので、機能とレイアウトを完全に分離することは難しいとは思うのですが、WebデザイナーやWebアプリケーションの開発者が、意味のない無為な作業に費やしている時間を考えれると、レンダリングエンジンのモジュール化は有効な手段だと思います。ぼくは別に、HTMLやCSSの統一した解釈を!などと主張しているのではありません。それは数多く存在するべきだし、これからも増え続けて欲しいと思っています。ぼくが考えているのは、あくまでもHTMLの本来の機能とブラウザに本来の役割のことで、現状では、デザイナーも開発者も、情報やサービスを美しいデザインと優れたユーザビリティでユーザに送るという目的以外のことに時間を費やしすぎている。ある程度は仕方がないにしても、今後増え続けていくブラウザとインターネットの技術のことを考えると、そのたびごとに自分のサイトのデザインを確認しつづけなくてはいけないなんて、阿呆らしくないですか。

 長島さんのサイトを作ったときには、HTMLはバージョン4.0に準拠し、ほぼ完全にスタイルシートを使用してデザインをしました。そうなるとやはりIEは5.0以上、Netscapeは6.0以上、Mozillaはまあほとんどすべて大丈夫ですが、とりあえずある程度こちらの意図通りに見てもらおうとすると、それぐらいのブラウザが必要になります。鉄割のアクセスログを見ると、九割方はそのレベルのブラウザを使用していますね。そういうわけで、鉄割のサイトも近々対応ブラウザのバージョンを上げようかと画策しております。

 ちなみに、Safariで鉄割のサイトを見るとデザインが崩れるのですが、それはブラウザのせいではなくて、ワタクシの至らぬせいでございます。

 このような方にはどうあがいてもかなうわけありませんが、いつの日か、自分の手で思い通りのブラウザを作ってみたいものです。

03年01月20日(月)

 前回雑記でリンクした「Sufin' Sufari」というリンク先で発見したのですけど、ウィリアム・ギブソンさんもBLOGを始めたようです。

 ちょいとワントピックだけ意訳、というか拙訳してみました。誤訳は御愛嬌。

Saturday, January 18, 2003
HORSES, BANANAS, AND THE SUPERIOR STRANGENESS OF THE REAL
 ぼくちんの書いた『ニューロマンサー』の中で、フィンとケイスがぼろぼろになったはく製の馬を見つけるシーンあるんだけど、それって馬が特有の汎病禍で絶滅ちゃったっていう設定なのね。
『ニューロマンサー』にバナナが出てるかどうか覚えてないけどさあ、なんだか馬より先にバナナの方が絶滅しそうなのよねえ、しかも十年以内に。バナナって繁殖しないのよ、種がない変種だから。ひとつのオリジナルから切り枝で増えていくクローン栽培種なの。そんなんだから進化しねーじゃん、そうすっと、すげーいきおいで繁殖しまくる黒菌病っつーのがあんだけど、それって人間の殺虫剤に合わせて世代ごとに変異してくっつーすげーやつで、まるでゴキブリなんだけど、そんな病気の絶好のカモになっちまってんのよ。

 小説家さん(に限らないけど)のBLOG、あるいはWeb日記って、ファンや読者にしてみればすげー嬉しくないですか。日記文学大好きなぼくとしては、できれば小説家全員にWebで日記かBLOGを公開して欲しいと思っております。リアルタイムなぶん、より楽しめそうじゃん。

 っていうかギブソンさんのサイト、かっこいい。

03年01月21日(火)

■6.7GBのデータを約1万1,000キロの彼方に1分で送信〜Internet2で新スピード記録達成

 もう、すごくないですか、技術。6.7GBを一分ですよ。転送速度も早いけど、技術の進歩も早すぎます。ついていけなあい。

 などと驚いてはおりますが、あと十年もすれば、6.7GBを一分で転送なんて状況にもすっかり慣れてしまい、なにも感じなくなっているのでしょうねえ。個人的な意見ではありますが、技術はそろそろおしまいにして、もっと愛を謳歌するというのはどうでしょうか。あるいは、一度うんこになってみるとか。うんこになれば、少しは生活にゆとりもでるのでは。その恩恵に浴する身としては、技術批判をするつもりは毛頭ありませんが、6.7GBを一分で転送できることが当然だと思うような世界は困ります、ぼく。

 あ、でも、転送速度が早くなって、パソコンの技術がもっと上がれば、三國無双でネット対戦できそう。しかも兵士は全部オンラインユーザなの。うわ、すげー楽しそう。それはやりたい。やべー。

03年01月22日(水)

 ご存知のお方もいらっしゃると思いますが、安原顯さん、通称ヤスケンがお亡くなりになりました。

 安原顯さんは編集者、書評家として名を馳せた方でして、ここ数年はオンラインブックショップBK1の編集長として「ヤスケンの編集長日記」などの連載で活躍されておりました。十月二十九日の「編集長日記」で余命一ヶ月という癌宣言を行ったことを、ぼくは「本のメルマガ」というメールマガジンで知ったのですが、それ以降も、病苦に耐えながら本を読み書評を書き評論を書き続け、1月20日に肺癌のため永眠されました。

 ぼくがこの方の名前を知ったのは、坪内祐三氏の『文学を探せ』に収録されている「インターネット書評誌の私物化を『ぶっ叩く』」という、安原さんを批判したコラムを通じてなので、いまいち印象が良くなかったのですが、死をかけてまで仕事に従事したその姿勢に敬意を表すると共に、御冥福をお祈りします。黙祷。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
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