03年08月01日(金)

 夕方、気分を落ち着けるために公園をお散歩。梅雨もようやく終わり、これからは夕方に散歩を楽しむことが出来そう。ぼくの前を女性が歩いていて、とてもよいおしりをしている。歩くたびにぷりんぷりんと左右に揺れて、その揺れ方がとんでもなく素敵で、色気とかそんなのではなくて、ほとんど妖怪みたいでかわいらしい。ぼくもぷりけつには自信があるけれど、このおしりのぷりぷり感にはとてもじゃないけれどかなわない。是非とも写真に撮ってこのぷりぷりを他の人にも伝えたいと思ったけれど、ここで写真を撮ったらこれは盗撮になるのかしら、逮捕されたら恥ずかしいな、ぷりぷりとか言っても警察の人は分かってくれないだろうな、などと思い躊躇。素敵なものを友人につたえることさえできないなんて、なんと世知辛い世の中だろう。

 途中、古本屋さんで雑誌太陽を三冊購入。一冊100円。特集はそれぞれ『石仏の里』『円空ー放浪の仏師』『西行ー漂泊の生涯』。すべて70年代に出たものなので、広告なんかもいい感じ。三冊の中では『石仏の里』が特におもしろい。「人が老いてゆくように、歳月は神々の顔も消していく」。言葉も通じないような田舎の町を歩きながら、道の端々に道祖神を見つけて嬉しいような、そんな気持ちを最近はすっかり忘れております。やっぱりiPod買うのやめて旅行に行こうかしら。

03年08月02日(土)

 昼過ぎ起床。うう、休日に昼過ぎまで寝てしまうと、とても強い罪悪感を感じる。両頬をぶったたいて気合いを入れて、お散歩へ。

 本屋さんを徘徊。スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』を探すが、売っていない。911以後、もっとも多く発言している文学者のひとり、スーザン・ソンタグの新作。みすず書房ののレビューによると「本書は、戦争の現実を歪曲するメディアや紛争を表面的にしか判断しない専門家への鋭い批判であると同時に、現代における写真=映像の有効性を真摯に追究した最新の〈写真論〉でもある」。読んでもさっぱり意味わかんねーの可能性が大ではあるが、とりあえず一読しておきたい。他の書店を回ってみよう。ねこぢるyインドぢる』を立ち読み。五年前に他界したねこぢる、その元夫である山野一氏と元弟のインド旅行エッセイ。生前のねこぢるとの旅の記憶を交差させながら、山野氏独特の文章でインドの情景が綴られている。元祖ねこぢるよりも、ねこぢるyの方が好きなぼくとしては、即購入。保坂和志の新作『カンバセイション・ピース』を発見。そういえばこれ、新潮の連載で途中まで読んでいたなあ。あちらこちらで傑作との噂を聞くし、改めて通して読もう。購入。

 夕方、カフェで心を浄化する。読書をするも気が入らず、うつらうつらとうたた寝する。夢で白狐に襲われる。気付いたらもう夜よ。

 なんだかメールサーバの不調とか、メールクライアントのフィルタがおかしなことになっているとか、いろいろな原因が重なって、いくつかのメールが来ていることに気付きませんでした。すんません、重要なのは順にお返事を致しますので、もうしばらくお待ちを。

03年08月03日(日)

 根津は宮永会館で鉄割どもの公演が行われたようで、まあ少なからぬ義理もございますので、公演の終了した後にちょいと顔を出しに行ったのですが、バラシだかなんだかしらないけど皆様たいそう忙しい様子。この孤独感、これが嫌なのです。みんなが阿呆みたいに一生懸命にやっているのを部外者として眺めなくてはいけないこの感覚、これだから本番の日にこいつらのところに来るのは嫌なのよ。揚げ句、お前が出ないから俺達が恥をかいたなどと罵倒される始末、そうは言われましても毎回もれなく恥をかかされる身にもなればかなどと思いつつも、なにせ部外者の身、言いたいことも言えずに宮永会館の隅で小さくなっておりました。

 それにしてもこの鉄割という輩ども、歳を重ねるごとに余裕がなくなってきている様がとてもいじましく、少しは中島君を見習って欲しいものです。彼は人生で三日以上先のことを考えたことはないのですから。

 まあ、とにかく新潟もがんばってね。

03年08月04日(月)

 とうとう八月になっちまいました。今月も、気合いを入れて精進しましょう。

 Amazonに注文しておいた『American Cultural Studies』が届いた。この本の翻訳『アメリカン・カルチュラル・スタディーズ』は持っているのだけど、これは抄訳なので後半のいくつかの章が抜けている。その抜けている章も読んでみたいので、ちょっと高いけれど購入することにした。ちなみに抜けているのは以下の三章。

6. The American city: 'the old knot of contrariety'
7.Gendar and Sexuality: 'to break the old circuits'(増補版には収録)
8. Representing youth: 'outside the sunken nursery'
10. Technology and media cultures: 'the uncertain trajectory'

 多分、読むのに丸二三日かかるんだろうなあ。はああ。

 一緒に頼んでおいた武田百合子『日日雑記』も届いた。各雑記の始まりには、日付ではなくて「ある日」と書かれている。例えばこんな感じ。

ある日。
玉(うちの飼猫)は今朝八時までに、日光浴をし水を飲んで牛乳を飲んで「北海しぐれ(カニアシの名前)」を食べ、毛玉を吐いてゲロも吐いて、うんことおしっこをした。あっという間に、一日のうちにすることを全部してしまった。玉は十八歳、ヒトの年齢でいったら九十歳である。若い。えらい。すごいと思う。

 読み始めの適当な「ある日」を選んだのだけど、もっと良い「ある日」もあるはず。ゆっくり読んで、また報告します。

 夜、刺激が欲しくなり、部屋を真っ暗にして映画『呪怨』を観る。怖くはなかったけれど、とてもおもしろかった!ここ何年かで観た日本のホラー映画の中では、一番好きかも。「怖い」映像というか、人が何を怖がるかをとても良く分かっている監督だと思う。役者さんたちも良かったし、演出もとても良かった。いやはや、『呪怨2』がとても楽しみ。ちなみにこの映画の監督、1972年生まれだそうです。

03年08月05日(火)

 ムーミン・コミックス全十四巻を購入。何年か前、トーベ・ヤンソンさんがお亡くなりになったときに、池袋リブロの特設コーナーで立ち読みをして、コミックスが小説の雰囲気と全然違うことに驚いた記憶がある。改めて読んでみると、やはり雰囲気はちょっと違うけれど、根底に流れているユーモアのセンスはやはりムーミンシリーズ独特のもので、ただ少しだけ小説より大人向けになっている感じだった。

 とにかくもう、最高に面白くて、法と秩序を完全に放棄したムーミン谷の生活が描かれている。例えば、第二巻の『ムーミン谷の気楽な生活』。義務と労働に目覚めたムーミンパパが、その第一歩として早起きをしたところ、物音に驚いたムーミントロールに射殺されそうになる。ムーミンパパは家族に労働と義務の話をし、感化されたムーミントロールはとりあえず仕事を得る為に、『磁石の世にひきつける個性を得る方法』というハウツー本を読むが、うまくいかない。ムーミンパパは、どの会社にも雇ってもらえないので自分で洞窟を改造してボートレンタルの会社を作るが、昔のボヘミアン仲間と再開し、トランプに打ち込む日々を送る。ある日、船乗りは危険な仕事なので生命保険に入れないという理由で、ムーミンパパは森番に転職する。ムーミントロールは警察署長から道をかざる貝殻を拾う仕事をもらう。しかし最後には、京極堂のごとき存在であるスナフキンの言葉によって、ムーミン一家は労働と義務から解放され、「どっさりワインときままな暮らし、やっぱりむりよね正しい生活!」という結論に至る。

 その他にも、黄金のしっぽが生えたムーミントロールが一躍メディアの寵児になったり、アメリカの西部開拓時代にタイムトラベルしたり、スノークのお嬢さんがやりまんみたいになっていたり、どのお話もとてもおもしろい。まだ三巻までしか読み終えていないので、あと十一巻も残っていると思うと嬉しくてわくわくする。

03年08月06日(水)

 夜、鉄割の会合へ。まあ、いつもの感じでお酒を飲んで、奥村君は一日平均二回オナニーをするという話を聞いたり、月末に嬉しいイベントがあることを聞いたり、十月の登山のことを話したり。

 その時に「恐怖やストレスで、一晩で白髪になることは現実にあり得るのか?」ということが話題になりました。ぼくと奥村君は「ありえないらしい」、その他の何人かは「あり得るらしい」と主張し、その場は「らしい」の連発で具体的な真相を知る人はひとりもいませんでした。その話はそのままうやむやになったのですが、なんだか腑に落ちないので帰宅してからちょいと調べてみたところ、いくつかのサイトでこんな情報を発見しました。

■白髪にまつわる俗説/ウソ・ホント?
■髪の常識、うそ?ほんと?
■苦労すると増える?一晩で真っ白?
■教えて!ドクター常識・非常識 Q&A
■過度の恐怖や心労は「一夜にして白髪をつくる」というのは本当?
■大きいショックを受けると一夜にして白髪になる(下の方に書いてあります)

 探せばもっとたくさんあると思いますが、取りあえず「一晩で白髪になることはありえない」というのが一般的な意見のようです。中には「一晩で白髪になることもあるらしい」と書かれているサイトもいくつかありましたが、そのいずれもが伝聞形式(〜らしい、〜だそうだ)で書かれており(中にはマリー・アントワネットの話を事実として書いているサイトまでありました)、医学的・科学的に実例を挙げているサイトはひとつもありませんでした。(これらはあくまでもぼくがネットで調べた結果に過ぎませんので、もっと詳しく真実を知りたい人や納得がいかない人は、個人で調べてみてください)

 ただし、渡部さんも言っていたとおり、科学の常識というものは主張したもの勝ちのようなところがあります。客観的と思われている科学にも、様々な異なる「説」が存在するのがその証拠ですが、例えば携帯電話の電磁波の問題などは、あるグループが「携帯電話の電磁波は人体に悪影響がある」と発表すれば、別のグループが「携帯電話の電磁波は人体に悪影響はない」と反論し、しかもそのいずれもが具体的な実験結果やサンプルを提示したりして、決定的な結論は出ていない状態です。

「ある」ということを証明するのは簡単です。「ある」という研究結果を提示すればよいだけです。ただし「ない」ということを証明するのは非常に困難です。「ない」という結論を導き出した研究が、「ある」という結果を見逃しているだけの可能性は、決してゼロにはなりません。いくら実験結果から「携帯電話の電磁波は人体に悪影響を及ぼさない」と主張しても、それを完全に証明することはできません。例えば、電磁波問題市民研究会というサイトでは、以下のように書かれています。

(問)電磁波の健康被害は無いという報告も沢山あるのですが、どうしたわけでしょうか?
(答)ご質問のように、ハツカネズミを数世代にわたって電磁波を被ばくさせた環境で飼育し、被ばくさせなかったグループと比較して、その違いは無かったとの報告もあります。しかし、この結果から、電磁波被害は無いものと結論づけるのは誤りです。この実験モデルが実際の状況を模擬できているかどうかをさらに検討しなければなりません。言い変えれば、モデル実験によって最初の目的と違った結論が出たならば、モデルの設定が間違っているのでは無いかと、まず疑うのが正しいあり方と思います。

 極端に言えば、科学的な実験がある一部のサンプルを用いて行う以上、すべてのサンプル、つまりすべての対象に対して同じ結果が出なければ、完全に「ない」ということを証明することはできないということになります。

 ですから、科学的な論拠を提示して「一晩で白髪になることはない」ことを説明しても、「それは実例を見逃しているだけかもしれない。やはり一晩で白髪になることはあると思う」と主張されてしまえば、そこで話は終わってしまいます。科学は常に変革し、一時代前の常識は次世代の非常識であることは事実ですから、可能性で物事を語られては反論のしようがありませんし、そのことに関してはぼくも同意見ですから。あくまでも「現在の科学ではこういうことになっている」という形でしか、結論を出すことはできません。

 以前、七歳になる甥が「先生が言っていたんだけど、地球はあと百年ぐらいで滅亡するんだって」などととんでもないことを言い出したので、詳しく聞いてみると、どうやらオゾン層の破壊によって生じる地球温暖化のことを言っているらしく、学校の先生がどのように伝えたのかはわかりませんが、甥は完全に人類は滅亡すると信じていました。確かにオゾン層の破壊は深刻な問題だし、このまま放っておけば地球滅亡の可能性もゼロではありませんが、オゾン層破壊の脅威を教えるのであれば、それに取り組む各国の姿勢も一緒に教えて欲しかったと思います。小学生というのは、どんなことでも素直に吸収し、かつそれを糧として自己のアイデンティティーを形成します。だからこそ、小学生と接する大人には気をつけて情報を扱って欲しいと思います。「一晩で白髪になる」という情報が、嘘でも本当でもぼくにとってはどちらでもよいのですが、現在の世界で「本当とされていること」を知っておくことは、甥に対するぼくの責任です。ぼくにできることは、どの科学的根拠に依存するか自分の立場を決定し、それをぼくの真実として生きていくことだけです。もちろんすべての情報の真偽を確かめることは不可能ですから、できる限りの、という条件付きですが。

03年08月07日(木)

 ねこぢるy(山野一)の『インドぢる』読了。予想していた百倍ぐらい素晴らしい旅行記だった。五年前に死去したねこぢるとの思い出を交えながら、義弟との新たなる旅が淡々とした文体で展開される。最初の方の文章は若干ぎこちなく感じるが、プリーで知り合いになったババたちとチャラスを回し吸いするあたりから、突然そのリズムとテンポが変化し、断片的な旅の記憶が走馬灯のように次から次へと展開されていく。舌、骨、少年、ポロ、桃源郷、雪、八瀬遊園、カラー、睡蓮鉢、竃、蒼穹、夜行列車、歯ぎしり、ツンドラ、夜明け等々。そのひとつひとつの記憶が、どうしようもなく切なく、どうしようもなく悲しく、どうしようもなく楽しい。「舌」というエピソードでは、牛の舌の気持ち良さについて書かれている。路地を歩いている牛に出会うと、山野氏は板チョコを差し出す。

舌の感触がまたいい。乳房に吸い付く赤ん坊のように、なんのてらいもなく、ひたすら手のひらのチョコをなめしゃぶる。ずっしりした舌は人のふくらはぎ程もある。塩をふって、炭火で焼かれたのもいいが、生きているそれはまた格別の味わいだ。この鈍重な生き物は表情というものを持たない。しかしその部分はベロベログネグネせわしなくのたくり、くねり、甘味への渇望を教えてくれる。熱い唾液がみるみるチョコレートを溶かしていく。その感覚が直に手のひらに伝わる。溶けたチョコレートが、裏はヌロヌロ表はザラザラした舌にしみ込んでいく。大きな半閉じの目が細まる。今この生き物の脳が味わっている甘さが、黒い瞳の奥に見える。

 最終章の「ポカラ」では、今回の旅行の記憶よりも前回のねこぢるとの旅行の記述が多くを占める。最後の章にきてようやく、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ感傷的な文章が綴られる。読みながら、まるで自分がインドとネパールを旅したような、自殺した妻との旅の記憶をたどっているような、そんな錯覚にとらわれる。ねこぢるとの何ということない旅の記憶が、淡々とした文体で次々に綴られる。「ポカラ」の章で綴られる一番最後の記憶、この旅行記全体で一番最後になるねこぢるとの記憶の中で、山野氏とねこぢるはある湖でボートに乗っている。あまりにも平和で、あまりにものどかな記憶。

この湖は思いの外広い。ここに流れ込むパルパン・コーラという川を見てやろうと思うのだが、なまった腕ではなかなかこぎきれるものではない。湖の中程であきらめる。なんとも呆れたのどかさだ。パチョ、ドプ、ペチャ、タプ・・・。船縁を洗う波の音が気持ちいい。ねこぢると私は、眠たいカエルのような顔をしていつまでも漂っていた。川が流れ込むあたりは霞がかかっている。その上の渓谷は、あたたかな日を浴びてゆらゆら揺らめいている。

 旅行記全体を通して、ねこぢるに関する感傷らしき記述は、「まえがき」と「あとがき」を抜かせば、「ポカラ」の章を除いてはほとんど見当たらない。淡々と、今回の旅行と交差させるようにねこぢるとの記憶が語られているだけだ。その記憶が、勝手な感情移入を承知で言わせてもらえれば、とても悲しい。山野氏は、ねこぢるの骨の一部をインドの海に流すために日本から持って行った。しかし、結局流すことは出来なかった。その事実を描写する記述に、内面的なことはほとんど書かれていない。けれども、このシーンを読んで悲しさを感じない人はいないだろう。

 壺から骨のかけらを出し、手のひらに包んで海水につけた。日差しは強く首の後ろが焼けるようだが、海水は冷たい。波の力が強く、もろいかけらから小さな断片をさらって行く。波が引くとき手を開いて流してしまおうと思った。次こそと思うのだが、何度もやりすごしてしまう。結局手を引き上げ、もとの壺に納めてしまった。

 山野氏がどうして再びインドへ行ったのか、どうしてこの旅行記を書くことにしたのか、ぼくにはわからない。「あとがき」には、ねこぢるが死去してからの一年間、ねこぢるの骨が入った白い箱に向って自問したことが書かれている。「疑問はどんどん湧いてくるが、答えは何一つ与えられない。すべて憶測のまま放置される。考えは同じ所を堂々巡りして、そこから抜け出せない」。もしかしたら、その答えを見つけるために再びインドに旅立ったのかもしれないし、あるいはその答えを見つけることをあきらめるためだったのかもしれない。とにかく、山野氏はその疑問について、次のように書いている。「確かに自分がそんなにいい夫だったとは思わない。しかし、私が死ぬまで徹底的に無視され続けなければならない程ひどかったとも思えないのだ」。

 今、こんな旅行記を書ける作家は日本には他にいないと思う。しかも、自殺した妻と一緒に旅した場所を再訪するなんて、一歩間違えればとんでもなくおさむいものになってしまうだろう。大抵の場合、旅行記は無駄な距離感に満ちている。あるいは気負いと言い換えてもよいけれど、異国にいる自分をやたらと意識しすぎて、その自意識が文章全体にいやらしさを醸し出す。山野氏の文章には、この気負いがない。距離感が丁度よい。残念なのは、ねこぢるとの思い出の文章が太字になっていることで、これは前回の旅行と今回の旅行の区別を分かりやすくする為の配慮らしいのだが、はっきりいって邪魔だった。文庫化する際には、この余計な配慮を是非とも改善して欲しいと思う。リズムに乗って読み進めているときに、そのノリをがくんと崩すような余計な配慮はいりません。

 ああ、無性にインドに行きたくなった。インドを歩きたくなった。そしてなぜかヘンリー・ミラーが読みたくなった。この興奮を、どうやって静めたらいいのだろう。とりあえず走ってきます。

03年08月08日(金)

 昼、『パイレーツ・オブ・カリビアン』を観る。アメリカの海賊映画というものを観たことがなかったので、どんなものかと行ってみた。タイトルからもわかる通り、ディズニーランドのアトラクション『カリブの海賊』をモチーフとしたこの映画、随所にアトラクションで見かけたシーンが挿入されている。作品自体はよくある感じのハリウッド映画で、普通に面白かった。言われているほどジョニー・デップの演技は良くなかった。あれだったら『ラスベガスをやっつけろ』の方が全然良い。

 アメリカで海賊が横行したのは、だいたい十七世紀後半から十八世紀ぐらいだと思うが、アメリカ史に関する資料などを見ても、それらに関する記述はほとんど見当たらない。まあ、歴史という観点で考えれば、ナット・ターナーが歴史に与えた影響ほどには海賊の存在は重要ではないだろうから、日本史の資料に忍者に関する記述がほとんどないようなものだろう。歴史書ではないが、『アメリカン・スピリット』という「アメリカの土壌に潜むスピリットを探る」という目的で書かれた新書には、「ああ、美しの新世界」と題された一章があり、海賊に関する伝承を紹介している。例えば、エドガー・アラン・ポーの『黄金虫』でもその財宝伝説が扱われているCaptain Kidd。バラタリア湾を中心に密輸王国を気付きながらも、死後に埋めた財宝を求めてさまよいあるく彷徨者として今もニューオリンズで語り継がれる海賊王ジャン・ラフィット(小説『海賊の血』の主人公は、このラフィットの子孫である)。あるいは、二人組の女海賊メアリー・リードとアン・ボニー。「黒ひげ」ことエドワード・ティーチ、スペイン王女を愛したあまり拉致してしまったホセ・ガスパアなど。読めば読むほど興味が湧いてくる。海賊に関する何か良い本はないかしら。

 夜、映画『』を観る。ゴースト・ワールドのソーラ・バーチ主演。行方不明になっていたイギリスのパブリック・スクールの生徒四人のうち、ひとりだけ生きて生還したリズ(ソーラ・バーチ)。彼らは、課外授業を避ける為に森の中にある地下室に閉じこもっていた。警察は、リズの供述を元に事件の全貌を解明しようとするが、実は・・・というお話。以前にも書いたけれど、このような場所が限定されたミステリーが大好きなので、とても面白かった。原作はガイ・パートの同名小説。昼間観た『パイレーツ・オブ・カリビアン』のヒロイン、キーラ・ナイトレイが出ていてびっくりした。おっぱい出していた。

 友達に送ってもらった生後二ヶ月のわんちゃんの写真がかわいくてかわいくて悶絶寸前。あまりのかわいらしさに、ため息が出るばかり。ふええ。

03年08月09日(土)

 本日より夏休み。

 風と雨の音で起床、朝食にシリアルとバナナ、グレープフルーツ。風が窓を打つ音を聞きながら、読書。ジョン・バースの『金曜日の本』を読む。優れた作家は優れた批評家であり優れたエッセイストであり優れた学者であることがよくわかる。雨風が窓を打つ。ゆっくりと、ゆっくりと文章を読む。

 夕方、横になってムーミン・コミックスを読んでいたら、いつの間にか寝てしまった。気がつくと夜八時。雨は多少ぱらついているものの、風は完全にやんでいる。散歩がてら、夕食をとりに駅前へ。

 帰宅後、『金曜日の本』の続きを読む。途中、友達から電話。一時間ほど話す。再び『金曜日の本』へ。

 深夜、『カッコーの巣の上で』を観る。中島君はこの映画が大好きで、かれこれ五回以上観ているらしい。最高におもしろかった。ジャック・ニコルソンは当たり前として、その他の役者の演技も素晴らしいし、たまらないシーンが山ほどあった。原作はケン・キージーの一九六二年の同名小説。小説では、唖のインディアンであるチーフの視点で物語が進行する。患者の自我を抑圧し、徹底的に管理しようとする精神病院は、当時のアメリカ社会の権力体制の縮図として描かれている。精神病院の権力を軽視し、秩序を乱す存在である主人公は、最後にはロボトミー手術を施され、物言わぬ存在にされてしまう。六十年代当時、権力は目に見える形で体制として存在していた。市民は目に見える自由を求めて、目に見えない不自由の中で権力に対抗し、体制を変えようとした。あれから三十年以上を経た現在、権力は目に見えない形で口当たりよく市民を抑圧し続けてる。けれどもその口あたりの良さに、人々は抑圧されていることにすら気付かない。肉体的な手術を施さなくても、人をロボトミーにすることは可能なのだ。映画『マトリックス』が描く人類は、巨大コンピュータにすべてを管理され、仮想現実に生きていることにすら気付かない。『マトリックス』で描かれている世界が、空想の物語だと思ったら大間違いだ。少し離れた場所から見れば、この世界がいかに不自由な場所か、少しは分かるかもしれない。でもね、ぼくはその不自由がとても気楽で良いのです。

 寝る前に、『金曜日の本』の続きを読む。とてもじゃないけれど一日じゃ読み終わらないや。おやすみなさい。

03年08月10日(日)

 あまりの暑さと日差しで起床。朝食に、今年になって初めての白桃。ふとんを干して、部屋のお掃除。

 午後、本屋さんを徘徊。京極夏彦の『陰摩羅鬼の瑕』を購入。こりゃまた分厚いなあ。今月号のスタジオボイスも一緒に購入。お茶を飲めるところへ行って、読書。『陰摩羅鬼の瑕』は読み始めたら止まらなくなりそうなので、最初のほうだけ読んでやめる。高橋源一郎が京極堂の小説をドラクエに喩えていたけれど、言い得て妙。

 今月号のスタジオボイスの特集は「アジアの現在 - 『サイアム的』パワーの時代へ」。サイアムとは、バンコクにある歓楽街の名前。東南アジアを中心に、現代のアジアのカルチャーを紹介している。映画はともかく、文学にしても音楽にしても芸術にしても、アジアの作品に関する知識は皆無に等しかったので、とても面白くて勉強になった。バンコクに行っても、いつもカオサンあたりをぶらぶらしているだけなので、このような新しい文化に接することはほとんどなかった。次に行くときはタイのサブカルチャーにふれることが出来るような場所にも行ってみよう。

 夜、『アート・オブ・エロス監督たちの晩餐』を観る。世界の巨匠たちが、えろをテーマに撮った短編映画集。今回観たのは『カーシュ夫人の欲望』『悪魔のレッスン』『ウェット』の三本。『カーシュ夫人の欲望』の監督は、ケン・ラッセル。ホテルに宿泊中の小説家が、えろっぽい女性を見かけ付いて行ったところ、彼女の部屋の中からバイブレーターの音がする。わお、おなってんじゃん!と勘違いした小説家は、さらに彼女のストーキングを続け、最後には・・・みたいなお話。感動的に面白かった。各シーンの色使いや配置などもとても好み。女性がミステリーサークルの上で踊るシーンとか、まじで最高。『悪魔のレッスン』の監督はヤヌス・マジョウスキー。まるでフェルメールの絵画のように美しい光の中で、牛のようなおっぱいの女の子が牛のおっぱいを絞るシーンから始まる。この作品は普通にえろくて、純朴な田舎の女の子が謎めいた男性に性を喜びを教わるという話。全体を通して幻想的で、ポーランドの美しい風景が印象的。とにかくえろい。『ウェット』の監督はボブ・ラフェルソン。これがまた最高に面白くて、営業終了まぎわのバスタブ屋さんに黒人の女性がやってきて、至急バスタブが必要だから、展示品にお湯をはって入り心地をためしたい、と言い出す。店長と女性の会話がとても面白い。なんとなく小説で読んでみたいような話だった。

 この『アート・オブ・エロス』というシリーズは、他にも何作かあるらしい。八月下旬にすべてを収録した『アート・オブ・エロス 監督たちの晩餐 DVD-BOX 』が発売されるらしいので、買っちゃおうかしら。

 夜中に眠れず、少し走る。久しぶりに走る。静寂がとても気持ち良い。

03年08月11日(月)

 起床。朝食にチーズをのせたトーストとバナナ。最近、フルーツをたくさん食べているせいか、お通じとてもよろしい。

 バースが『尽きの文学』で言及しているボルヘスの『ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール』が読みたくなったので、本棚をあさって『伝奇集』を探したけれど見つからない。仕方がないので図書館に行ったところ、なんとお休みではありませんか。しかも今週いっぱいはお休みらしい。悲しい。

 六十年代のアメリカ文学のことを調べていて、マルカム・ブラッドベリの『現代アメリカ小説—1945年から現代まで』などを読んでいるのだけど、六十年代と今の社会状況って、あまり変わらないというかむしろ似ているように思う。六十年代に崩壊したはずのパクス・アメリカーナは九十年代を通して見事に復活しているし、世界中の多文化主義に反するかのようにアメリカだけがグローバリズムを提唱し続けている。六十年代のポストモダン小説の発生の背後に、六十年代のケネディの暗殺というスイッチがあったとすれば、現代にもそれに匹敵するほどのアメリカ国民の価値観を揺さぶる事件が起こっている。六十年代と現在の文学的状況で決定的に異なるのは、作家のほとんどが実験的な文学作品の退屈さに気付いているという点で、価値観の変革時に反動として誕生する実験的な作品は、ある一部の傑作を除いて、ほとんどの作品が自己満足的なうんこになってしまうということを彼らは経験的に知っている。もちろん彼らも、それらの実験的な作品が次の世代の新しい文学が誕生する布石になっていることは否定しないだろうけれど。

 夜、『アート・オブ・エロス』シリーズの『ホテルパラダイス』を観る。とても面白かった。『ホテル・パラダイス』はニコラス・ローグ監督の作品。明日に結婚式を控えた花嫁さんが、朝起きたらホテルの一室に男と寝ていてやっべーという話。男のロマンチックな話術に、花嫁がどんどんおちていく。『ブルーン・ブルーン・ブルーン』はメルヴィン・ヴァン・ピーブルズが監督の黒人映画。ブードゥーの呪術師を助けたもてない君、そのお礼に女性に変身するバイクをもらう。あまりにもださすぎて面白かった。『エレファント・ネバー・フォゲット』の監督はデトレフ・バック。ドイツ映画。事故った夫人を助けた小人病の象使いが、そのお礼に夫人にセックスを要求する。この三本の中では、これが一番良かった。一番えろかったし。

03年08月12日(火)

 引きこもり継続中。夏休みに入ってからのほぼ毎日、十二時間以上眠っている。良くないなあ。

 映画『クラム』を観る。もう、びっくりするぐらい面白かった。めちゃ感動。すばらしいドキュメンタリーだった。監督は、『ゴースト・ワールド』のテリー・ツワイゴフ。アンダーグラウンド・コミックの巨匠、ロバート・クラムとその家族と友人へのインタビューを中心としたドキュメンタリー。出てくる人のほとんどがどこか病的で、とくにクラムの家族はすさまじい。詳しい映画評はこちらで読むことができる。印象的だったのは、クラムがストリートを歩く人々をスケッチするシーン。雑誌や映画には普通の町並みは登場しない、とクラムは言う。彼は自分(あるいは友人)で撮った写真を元に、町並みをデッサンする。画面を通してぼくの目に映る通行人や町並みは、概して普通ではない。監督のツワイゴフは、カフェでクラムにインタビューをしながら、その後ろの席でネズミにエサを上げている若い男を映す。最初から最後まで、まったく目を離すことができない素晴らしい映画だった。

 なんだか興奮したので、続けて『ケミカル51』を観る。「コカインの51倍強力・LSDの51倍の幻覚作用・エクスタシーの51倍の絶頂感」を持つという究極のドラッグを調合した男のお話。人の感覚作用に対して、51という具体的な数字をどのような根拠からはじき出しのかが気にはなるものの、結構好きです、こういう映画。でも『クラム』の余韻で未だ幸せなぼく。

03年08月13日(水)

 夏休みになって初めての外出。下北沢へ。

 ヴィレッジ・バンガードへ。高浜寛の初めての短編集『イエローバックス』と、以前に誰かが面白いと言っていたのを思い出して坂辺周一の『ティッシュ』全二巻を購入。早速お茶を飲めるところへ行って読む。『ティッシュ』は、この種のサスペンスにマヒしているのか、それほど怖くはなかった。『イエローバックス』は評判以上に面白かった。一番最初に収録されている「最後の女たち」でいきなりやられた。次回作がとても楽しみな人を見つけた時の嬉しい感じ。

 夜、お友達とお酒を飲みに。とはいえ、お友達はお酒を飲まないので、ひとりであほほど飲みまくり。お酒は弱いので、すぐに酔っぱらってしまうのです。ここ最近、お酒を飲む機会があまりなかったのと楽しかったのとで、なんだかべんらべらとしゃべりまくったような。いやはや、お酒はほどほどに。

 帰ろうとしたら雨が本降り。とめておいたバイクのヘルメットは雨でびしょびしょに。全身ずぶねれで朝五時過ぎに帰宅。眠ろうかと思ったけれど、なんだか目が冴えていたので、そのまま『クライム・アンド・パニッシュメント』を観る。一応「現代版『罪と罰』」ということになっているのだけれど、それがなければ普通に観れる映画なのになあ。残念だけれど、サバービア映画のおもしろさは全く味わえなかった。

03年08月14日(木)

 祖母の初盆なので、お線香をあげに帰省。

 実家から本家へ向う道中、母方のふたりの叔母と母は姉妹談義に華を咲かせている。ほとんどが彼女たちの知人のうわさ話なのだけれど、そのひとつひとつが新鮮に面白くて、かつての村の語り部はかたちを変えて郊外に存在することを知る。すべてのお話を記憶しておいて、遠野物語ならぬ宇都宮物語を書きたいぐらいに、彼女たちのストーリーテリングは面白い。

 本家では、のら猫がまるで我が家であるかのように泰然と佇んでいる。軒先で雨の音を聞きながら、静かに彼は何を想う。

ねこ

 祖母にお線香をあげて、本日は慌ただしいことに日帰り。帰りの電車では、姉とぼくより年下の姉の恋人と一緒に。

 駅から自宅への帰り道、雨に気をとられて寂しいことさえ忘れて歩く。ゴウーンと雨に籠って、修禪寺の暮六つの鐘が、かしらを打つと、それ、ふツと皆消えた。ような気がした。今日は久しぶりに銭湯に行こう。たまには一人でお酒でも飲もうかしら、などと思ったり。

03年08月15日(金)

 朝(といっても昼前ぐらい)に起床して、三時間から四時間ほどインディアン関係の本を読みまくり、二時間ぐらい昼寝して、夕食に外へ出かけ、帰りにビデオレンタルでビデオを借りてきて、それを観て寝る。睡眠時間一日十四時間。刺激のない、穏やかな生活。このまま時間に溶け込んでしまいたい。

03年08月16日(土)

 昼に再放送でやっていた『TRICK』の続きが気になったので、ビデオレンタルでDVD全五巻のすべてを借りてきて一日かけてそれを観たり。テレビドラマを観るのって、十年ぶりぐらい。とてもおもしろかった。

03年08月17日(日)

 とても幸せな夢をみた。ここ数年の間にみた夢の中で、もっとも幸せな夢だった。目を覚まして、あうーなどと感涙の声をあげたのも久しぶり。ああ、覚めてうつつに悲しむならば、一時の幸福なんていらないのにい。

 昼、ナット・ヘントフの『アメリカ、自由の名のもとに』を読んでいたら、新生児の安楽死の問題に関するコラムがあった。タイトルは「新生児の安楽死——ベイビー・ドゥー事件、何も言えず静かに死ぬことが権利か?」。安楽死といっても、このコラムではそれを一貫して嬰児殺し(あるいは殺人)と呼び、障害を持って生まれた子供が、簡単な延命処置すら両親に拒否されて死亡していく事件についてレポートしている。ついこの間、『BJによろしく』でも同じようなテーマが取り上げられていたけれど、このコラムが書かれたのは1985年であり、このような事件がそれほど昔から問題視されていたことを初めて知った。このような事件は、当事者の告発が無い限り表立つことはない。ヘントフがこのエッセイで言及するいくつかの事件も、事件に携わった看護婦や医者による告発によって発覚したものがほとんどである。

 もちろん、新生児の両親がなんの苦悩もなく自分たちの子供を見殺しにしているとは思わない。背景には様々な事情があり、想像を絶する苦しみと悲しみを乗り越えて、自分たちの子供の延命処置を拒否する決断をするのだろう。ヘントフが問題にしているのも、新生児の両親ではなく、彼らがそのような選択をせざるを得ない社会と、新生児に対してそのような判断を簡単に下してしまう病院の在り方について。健常者とほぼ同様の生活ができる可能性があるにも関わらず、障害をもっていたりダウン症というだけで「生命の質」が低いと判断され、生きる権利が無効になってしまうような社会。そのような社会では、「生命の質」はQL=NEx(H+S)という公式で表現される。

 1962年にノーベル生理医学賞を受賞したフランシス・クリックは、次のように述べている。「新生児は遺伝病にかんする検査に合格しなくてはならず、その検査に合格して初めて、人間としての権利を得るのである。検査に不合格ならば、その新生児に生きる権利はない」。なんの意志を持つこともできない新生児が、この世界に生きる権利を得るには、ある一定の条件をクリアしなくてはいけない。そのようにクリックは言う。

 ソンドラ・ダイアモンドというある女性は、先天性の脳障害をもっており、ひとりでは服を着ることも、トイレに行くことも、ものを書くこともできなかった。二十代前半に事故に巻き込まれ、全身の60パーセントを火傷したとき、医者は彼女に治療を施す価値がないと両親に告げた。両親の根気強い交渉の結果、彼女はどうにか治療を受けることができ、以前と同様の生活を送ることができるようになった。彼女は次のように書いている。

 「障害をもった人間に医者が自分のもつ知識や能力を行使し、エネルギーと時間を使うことは、医療のプロにとってみれば徒労であるように思えるのです。(中略)たとえそうだとしても、わたしにはあと一杯のコーヒーを楽しむ時間、あともう一本もタバコを楽しむ時間、さらにわたしが愛する人々と交流を楽しむ時間、こんなほんのわずかな時間を、ただ黙って諦めるわけにはいかないのです」

 正直なところ、なにが正しいのかぼくにはわからない。どの程度の障害なら問題がないと考えるかは、人それぞれに異なるだろう。生が絶対的な正義だとは思わないし、死が絶対的な悪だとも思わない。けれども、自分の意志を持たない、生まれたばかりの新生児に対して、こちら側の判断で彼らの「生命の質」を推し量り「生きる権利」を奪うことが、正義であるとはどうしても思えない。そもそも「生命の質」なんて、そんなもの自体が存在しないのだから。

 夜、全然観る気はなかったのだけれど、始皇帝の描き方が波紋を呼んでいるとの噂を聞いて、『Hero 英雄』を観に大泉へ。「十歩必殺」というネーミングで嫌な予感はしていたけれど、ほとんどギャグとしか思えないシーン満載で、なかなか面白かった。色彩は極端だし。音はうるさいし。始皇帝がばりばり剣を持って戦っているのにびっくりした。

 この過剰なワイヤーアクションによるギャグ紙一重はどこまで続くのか。

03年08月18日(月)

 本日よりお仕事始め。もちろん身に入りません。ああ、休みぼけ。。

 夜、『竜馬の妻とその夫と愛人』を観ました。

 いやー、泣きました。典型的な日本人男子の意見で申し訳ありませんが、わたくし、坂本龍馬を心の底から尊敬しておりまして、そのような人間の常ではありますが、大抵の映画や小説や漫画で描かれる坂本龍馬像がどうにも赦せません。それは、自分の中で思い描く坂本龍馬というものが余りにも具体的すぎるのと思い入れが強いせいなのでしょうけれど、そのような理由から龍馬さんに関連するものは出来るだけ観ないようにしています。

 『竜馬の妻とその夫と愛人』がとても良かったのは、龍馬さんが一度も登場しないところでして、映画の中で龍馬さんは、人々の思い出の中にだけ登場します。龍馬さん以外の人物がどのように描かれていようとそんなの知ったこっちゃないのでどうでも良いのですが、彼らのひとりひとりが、彼らの中の龍馬さんの思い出を語るのを聞いていると、共通の好きの人の話を友達としているような、そんな幸せな気持ちになってしまうのです。会ったことないのですけど、ぼくの中ではとても大事な人ですから。

 物語は、はっきり言ってしまえばただの恋愛コメディ映画なのですけれど、坂本龍馬というとんでもない男の女房だった女に惚れた西村松兵衛がとてもおかしくて、とても悲しくて、死んだ夫を絶対に忘れることのない女性を愛するなんて、考えただけでも辛いじゃないですか。でも松兵衛さんは、夫をないがしろにして、勝手気ままに生きるおりょうさんに対して、「あいつは布団の中でいい匂いがするんだよねえ。だから好き」みたいなことを言うのです。これってすごくわかります。人を好きになるって、こういうことなんですよねえ。

03年08月19日(火)

 ひまひまだったので中島君に電話をしたところ、ちょうど都内にいるというので、久しぶりにお会いしてファミレスでだべだべりまして。

 弟君がこの間の新潟旅行が楽しかったあまり、その後の生活が寂しくて、自宅でひとり「おもしろうてやがて悲しき鵜飼かな」などと句を詠んでいるという話(実話)を聞いていたら、ふと気がつくと午前二時。いつものようにバイクで適当な裏道を通って帰ったのですが、あちらこちらと適当に走っていたので道に迷ってしまい、嬉しくてそのまま進んで行ったら坂があって、登ると行き止まりでした。仕方がないのでUターンしようとしたのですが、ふと右手をみると、家の車庫に車が停っていて、その車の助手席に中学生ぐらいの女の子がひとりで座っているではありませんか。夜中の二時過ぎに。

 うっわこっえーと思ったのですが、女の子も突然現れたぼくを見て狼狽している様子、どうやら幽霊ではなさそうです。目が合ってそらす幽霊なんて聞いたことありませんから。

 こんな夜中に彼女が車の中で何をしているのか、興味津々だったのですが、真夜中にこんなところを徘徊しているぼくも相当に怪しいでしょうから、下手に声とかかけて逮捕されたら困るので、そのまま坂を下りたのですが、あれは一体なんだったのでしょう。

 小学生の頃に、お母さんのお財布から三百円かすめたのがばれて、ぼっこぼこにぶっとばされて家から追い出され、仕方がないので一晩を車の中で過ごしたことがあります。今にしても思うと、小学生を一晩中外に放っておくって、我が親ながらひどいなと思いますけれど、まさかあの女の子も三百円盗んでお仕置きをされていたところだったのかしら。

03年08月20日(水)

 『TRICK2』DVD全五巻をレンタルして、一日一本ぐらいずつ観る予定が、面白すぎて一気に全部を観てしまい、静かに一日が終了。

 十月から『TRICK 3』が始まるそうです。嬉しい。

03年08月21日(木)

 ちくま書房から出ている内田のひゃっけんさんの集成の続刊が決定したそうで。おめでとうございます。ということは、結構売れていたのかしら。このシリーズ、読みたい読みたいと思いながらも、結局『阿房列車』と『立腹帖(途中まで)』しか読んでおりません。時間ができ次第、真っ先に読破したいとおもいつつ、今はどちらかといえば泉の鏡花さんの方に興味の先が向いておりまして、まあ長い人生、隠居後には死ぬほど時間が出来るでしょうから、読みたい本のリストは多ければ多いほどよいということで。

 夜に『アメリカン・サイコ』を観ました。以前にも一度観ているはずなのですが、この映画、こんなに面白かったっけ?と思うぐらい面白くて、八十年代のだっさーと九十年代のだっさーは紙一重、などと思いながらも、阿呆なヤッピーって本当にどうしようもないなあと笑い飛ばせない自分も何処かにいるわけで、とりあえずブレット・イーストン・エリスの原作を読んでみたくなりました。この映画、サイコな殺人鬼を期待して観た人はがっかりするのではないかしら。

03年08月22日(金)

 あっぢー日々が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。こんな日には外に出ずに、アルカリイオン水でも飲みながら家で読書をするに限ります。ぼくは本日、「チェーホフの明晰なリアリズムを、フランツ・カフカの謎めいた表現主義に融合させている(By春樹)」といわれる、レイモンド・カーヴァーさんなどを読んで日を過ごしております。

 改めてこの方の作品を読む返すと、とにかく感心感動感銘一入、つくづく偉い方だなあと感心し、ひとつひとつの作品に新たな感動を発見し、書かれている風景に心の底より感銘し、読みに耽るまさしく至福の時間、中でも特に感涙したのが『Fires』というエッセイです。

 このエッセイは、カーヴァーさんが「影響」について書いたもので、村上春樹氏の翻訳で『ファイアズ(炎)』という全集の四巻に収録されておりますが、ぼくが読んだのは越川芳明氏の訳で、ユリイカの一九八七年十月号に掲載されていたものです。とにかく感動してしまい、すべてを読まないとこの良さは伝わらないと思いつつも、以下にそのほんの一部を引用します。

 一九六十年代の半ばに、わたしはアイオワ・シティの混み合ったコイン・ランドリーにいた。五つも六つもある衣類の山—ほとんどが子供たちのだが、わたしたち夫婦の衣類もいくらかあった—を洗濯しようとしていた。妻は、その土曜日の午後、大学のアスレチック・クラブでウェイトレスの仕事をしていた。わたしは家事をしたり、子供の世話をしていた。子供たちは、その日の午後、たぶん誕生日パーティーか何かで、どこか友達のところにいっていたのだろう。ちょうどそのとき、わたしは洗濯をしていた。わたしはすでに意地の悪そうな老婆と、わたしが使わねばならない洗濯機の数をめぐって、くち汚く口論したばかりだった。わたしはいま彼女と、あるいは彼女に似たほかの人とともに、次の番をまっている。いらいらしながら、満員のコイン・ランドリーで、稼働している乾燥機から目を離さずに。乾燥機の一つが止まったら、湿った衣類の入った買い物籠を持ったまま、そこまでダッシュしよう。わたしはこのランドリーで、籠いっぱいの衣類を持って、チャンスを待ちながら三十分かそこら、ただぶらぶらしていたというわけなのだ。すでに乾燥機二つを見逃してしまっていた—ほかの誰かにとられてしまったのである。わたしはやっきになっていた。承知のように、子どもたちがどこにいるのか、わたしにははっきり分からない。どこかに迎えに行かなければならないかもしれない。もう遅くなりかけている。こうしたことが、わたしの精神状態にいいはずがない。わたしには分かっていたが、喩え衣類を乾燥機のなかにいれることができたにしても、乾くまでに—それを籠に詰め込んで、学生夫婦用のアパートに帰るまでに—もう一時間以上はかかるだろう。ついに乾燥機の一つが止まった。止まったとき、わたしはその真ん中にいた。なかの衣類は回るのを止め、動かない。三十秒かそこらで、もし誰も取りに現れなければ、その洗濯物を取り出し、自分のを代わりに入れるつもりでいた。それが、コイン・ランドリーのしきたりなのだ。しかし、そのときひとりの女がやってきて、乾燥機の扉を開けた。わたしは立ったまま、待っていた。この女は片手を乾燥機のなかに突っ込み、いくつかの洗濯物に触ってみる。まだ十分に乾いていない、そう女は判断したらしい。扉を閉め、十セント硬貨をもう二枚投入したのだった。呆然としたまま、わたしは買物車とともにその場を離れ、ふたたび待つはめになった。しかし、いまでも覚えているが、そのように涙も出んばかりの、どうしようもない欲求不満を感じている最中に、わたしは思ったのである。自分に二人の子がいるという事実に比べれば、この世でわたしの身に降りかかることなど、何一つ—ほんとうに何一つ—深刻でも、重要でも、大切でもない、と。つねに子どもたちから逃れられないし、つねに免れるころのない責任と果てしない苦労につきまとわれるのだ、と。

 ふうう、とため息をひとつ。

 現在、ぼくが所有するカーヴァー氏の書籍は昔に中央公論社から出版された短編集が二冊、それと傑作選が一冊だけで、全集が出てはいるのですが、どうにも高価で手が届きません。図書館で借りても良いのですが、ぼくは図書館でフィクションを借りるのがとても嫌いなので、出来れば自分で購入をしたいのですが、さっさと安価な文庫判が出ないかしら。

03年08月23日(土)

 ここしばらくの切迫した事情により、ほとんど友人に会うことなく過ごしているのですが、そのような生活が寂しいと思わないので、このままだと本当にすべての友人を失ってしまうのではないか、などと多少危惧はするものの、朝起きて、仕事に行って、帰宅して、事情のための本を読んだり映画を観たりという今の生活はある意味で理想でありまして、あと一週間でこのような生活も終わり、その後は自由の身になるわけですが、果たしてぼくはこの辛いながらも楽しい日々に区切りをつけることができるのか、っていうかつけるに決まっているのですが、嬉しいような寂しいような、微妙な心持ちでございます。

 『クリスティーナの好きなコト』という映画を観たのですが、くだらな過ぎて面白かったですけれど、この種のギャグ映画って、えろネタ入れれば何でもそれなりに面白くなってしまうものです。脚本家の方には、是非とも安野モヨコさんの作品を読んで、面白い女の子の物語というものを勉強をしていただきたい。

03年08月24日(日)

 所用のため、バイクで新橋まで行ったのですが、余りの暑さと排気ガスのせいで完全に気持ちを打ちのめされてしまいました。帰りは時間に余裕があったので、出来るだけ裏道を通って走ったのですが、本日はお祭り日和らしく、あちらこちらでお祭りの準備の光景や、浴衣で歩く人々を見かけたりして、なにやら良い心持ちに。

 裏道を移動する楽しさを感じるには、バイクで移動するのが一番です。次から次へと風景が変わり、人が変わり、匂いが変わります。路地を一本それただけで、それまでの生活が別の生活に変わり、決して終わることのない情景が延々と続きます。徒歩で裏道に入るのもゆったりとして良いかもしれませんが、この走馬灯のような風景の変化を味わうことはできないでしょう。車で裏道に入るのも良いかもしれませんが、生活の匂いと裏道の空気を肌に感じることはできないでしょう。やはり裏道を走るには、バイク、特に原ちゃのような小型のものが適しております。

 夕方に、そのような裏道を通って川に沿って移動すると、遠くにお祭りの音が聞こえ、浴衣を着た人と人がまばらに歩き、遊んでいる子供たちの声、走り逃げる猫、恋人と思しき二人の男女は、道の端に取り付けられている地図で現在の場所を確認し、犬の散歩をしている女の子は息急き切って走り、時の折には夕食の香りがどこからか漂ってきます。夕の空に染まって風景の色は一変し、木々はオレンジ色に照映し、川面は夕焼けに映え輝き、なんとも言えず気持ちが良いのは、子供の頃の情景がそのままここには残っているからでして、世間では夏の終わりと秋の始まりを謳っておりますが、わたくしの夏はいつ間に失われてしまったのか、そのような物思いに耽り、途中に少しだけお祭りにの喧騒に参加するためにバイクを降りたところ、思い掛けない狐の嫁入りもまた心地よく。

 焼きそばを食べながら、俳句詠み。

 お祭りの
 見せ物小屋に
 奥村氏
 ちんでか男と
 看板にあり

03年08月25日(月)

 深夜番組で、板チョコを発明したのはマリー・アントワネットであるという蘊蓄が放送された途端、検索エンジンで「マリー・アントワネット 板チョコ」を検索して鉄割のサイトへやって来た方が大勢いました。毎度のことですが、この種の情報を期待して訪れた方はさぞがっかりするだろうなと思うと、心苦しい限りです。

 これも深夜番組で観たのですが、徳川十八代当主の徳川恒孝という方が登場しておりました。もう良い齡こいたおっさん何ですけれど、いかにもお坊ちゃんという感じで、同級生だったら絶対にうんことか投げつけてやったのですが、明治維新の時の徳川慶喜が十五代ですから、あれからまだ三代しか経っていないのですねえ。まあ、時代的に寿命も伸びたし、お家騒動などもありませんから、一代が長くなったということもあると思いますけれど、ぼくにとってはほぼフィクションの人物と化している徳川慶喜さんが三代前というのは、なんとも不思議な心持ちです。

 劇場版より全然怖いと評判の『ビデオ版呪怨』を夜中過ぎに、部屋を真っ暗にして観ました。怖くはなかったけれど、映画版よりもチープな感じで良かった。『ビデオ版呪怨2』を観たいのですが、いつもレンタル中。

03年08月26日(火)

 来月の日本強化月間に備えて、ちくま文庫から出ている『泉鏡花集成』全十四巻を古本屋さんで探しているのですが、どこに行っても売っておりません。岩波から出ている『鏡花全集』はあちらこちらで見かけるのですが、やっぱり文庫で欲しいし、全三十巻はとてもではありませんが読むことができないので(十四巻でも無理だけど)、是非ともちくま文庫版を見つけたいのです。どなたか発見したら、御一方いただけると幸いです。

03年08月27日(水)

 雑誌『エンタクシー』で亀和田武さんがポルノ王ラリー・フリントと自分の関係について書いたエッセイが面白かったので、さっそくフリントさんの若き姿を描いた映画『ラリー・フリント』を観ました。監督は『カッコーの巣の上で』のミロシュ・フォアマン。いやー、とても面白かった。

 亀和田さんのエッセイは、フリントさんのドキュメンタリーをテレビで観るところから始まります。カジノのホテルで三千万円をあっというまに使い果たすフリントさん。車イスをフルスピードで走らせて、次のホテルへ。そこでもまた負けて、またまた次のホテルへ。そこでもまた負けて、またまた次のホテルへ。あっという間に七千万円の損失。さらに次のホテルへ。そこでいきなりツキの波に乗り、たちまち七千万円の負けを取り返し、さらに一千万円の勝ち。さすがはフリントさん、老いてはますます壮なるべし。ついこの間も、カリフォルニア州知事選に出馬を表明しておりましたし。元気なお方です。

 映画で描かれているのでは、えろえろモード全開のフリント氏と、フリントってちょっとえろすぎない?と訴えるアメリカの良心たちの戦いでして、ぼくたちの世代(70年代以降生まれ)は、アメリカを性的に奔放な国と考えがちですが、そこはそれピューリタンによって建国された国だけに、性に対しては伝統的に厳しい国なのです。もともとヨーロッパでは、エロティシズムという美的感覚は古くから認められていて、さすがにまんこびろーんはまずかったと思いますが、それでも多くの絵画に裸婦が描かれ、多くの彫刻に裸体が刻まれたのは、ヨーロッパの芸術家がエロティシズムこそが芸術であると考えていた所以でありまして、女性を最高至上の存在と考えていた現れでもあります。反してアメリカでは、性はそのまま背徳として考えられており、例えば『緋文字』で有名なホーソンなどは、ローマの街頭をかざる裸体の彫刻像に激怒して、「こんなえろえろい町は消えてなくなれ!」と叫んだとか。極端な抑圧には極端な反発が起こるものでして、そのようなアメリカ的な性への抑圧にむかついたマーク・トウェーンなどは、『一六〇一年』という作品の中で、アメリカに渡来してきた白人のことを、「三十五歳までは男女関係をもたず、しかも、その後も七年に一回しか交わりをもたない」と表現しています。アメリカという国の性に対する抑圧と、それに対する反発は、ある意味においてアメリカの伝統とでも申しましょうか。二十世紀以降のアメリカ人の性的なものに対する奔放的な態度は、フリントさんも含めて、このような伝統的な性への無理解への反動が、大爆発した結果ともいえるのであります。

 まあ、そんなことを考えなくても、とても面白い映画だと思うのですが、どうでしょう。欲を言わせてもらえば、フリントさんをもっともっとえろえろでパンクで諧謔的に描いても良かったのではないかな、などと思ったりもしますが。

03年08月28日(木)

 『ラリー・フリント』に続き、同じミロシュ・フォアマン監督の『マン・オン・ザ・ムーン』を観ました。こちらは伝説のコメディアン、アンディ・カウフマン(字幕はカフマン)を描いた伝記映画。このアンディ・カウフマンという人のことは全く知らなかったのですが、なかなか面白かったです。『カッコーの巣の上で』や『ラリー・フリント』にはかなわないけれど。

 でもぼく、認められない天才の映画というものは基本的に苦手なので(『バスキア』とか大嫌いだし)、そういう意味では、ミロシュ・フォアマンが監督じゃなかったらちょっと嫌だったかも(ラリー・フリントは「認められない天才」ではありません)。この、カウフマンという実在のコメディアンには非常に興味を魅かれましたが。

03年08月29日(金)

 みなさん、特にウィンドウズをご使用のみなさん、ウイルス対策はきちんと行っていますか。この二週間というもの、そのせいであちらへこちらへと振り回されて、犯人見つけたら絶対にかかと落としきめてやるぞ!と思っていたのですが、とうとうブラスターの亜種の作者のひとりが逮捕されたらしいです。そんでその犯人の写真を見たのですが

すてき

 素敵だ。許してあげよう。なんか、鉄割に近いものを感じるし。

 他にも逮捕者が出ると思いますが、みんな素敵だといいな。

03年08月30日(土)

 夕方近くに起床。寝過ぎで体が疲れている。シャワーを浴びて、夕食に駅前へ。

 途中、本屋さんに立ち寄って書評雑誌『レコレコ』と登山雑誌『ヤマケイJOY』の秋号を購入。『ヤマケイJOY』は秋山特集で、八ケ岳を取り上げている。

 『レコレコ』で掲載している茂木健一郎氏の「脳から世界を考える」を読んでいたら、「ネイティブの壁」という言葉がでてきた。最近、養老猛司氏のベストセラー『バカの壁』にちなんで「〜の壁」という言葉が使われているのをよく聞くけれど、ここで茂木氏が「ネイティブの壁」と呼ぶのは、たとえば氏が英語で論文を書いたり、ネイティブの人と話したりする時に、相手から言い回しや言葉を訂正されることがあり、そのような場合、茂木氏は自分の言い回しの方が良いと思っても、相手がネイティブだとそれだけで相手に有利な状態にあり、茂木氏の意見は聞いてもらえないというもの。

 文中で茂木氏も軽く触れていますが、ぼくが人と話していて一番困ってしまうのが「経験の壁」というやつで、代表的なのが「心霊体験」(心霊現象ではありません)なのですが、基本的にぼくは「心霊体験」というものをほぼ100%信じていません。信じていないというのは、嫌いということではなくて、怖い話は大好きです。でも、人間がいかに思い込みと勘違い、誇張とサービス精神によって話を作り上げるかは身をもって知っているので、そのようなことを言うと、霊感の弱い人にはわからないだの、信じない人には言っても無駄だだの、揚げ句の果てには「自分は実際に経験しているから間違いない」などと言い出す始末。それを言われてしまってはこちらとしては言い返す術を持ちませんが、この世界でもっとも当てにならないのが「個人の経験」なわけですから、こちら側にしてみれば、そんなものは根拠になるはずもありません。

 幽霊の存在を信じていないわけではなくて、むしろどちらかといえば肯定的なのですが、「心霊体験」を語る人の話というのは、実に人を怖がらせるように(楽しませるように)うまくできていて、非常に嘘臭い。たいした検証もせずに、短絡的に錯覚を心霊現象と結びつけて、無意識に誇張し、人に聞かせる。だから信じることができない。「自分が信じられることしか信じられないなんて、なんて不幸な人!」などと言われたこともありますが、そう簡単に根拠も無く信じてしまう方がもっと問題だと思うし、少なくともぼくは他人の経験をそのまま鵜呑みにするほど素直ではありません。自慢じゃありませんが、ぼくなんか嘘つきまくりですから、人生。自分が嘘つきだと、他人も信用できなくなるものです。かわいそうな人間でしょう。

 科学は万能ではないことは今さら説明するまでもありませんが、そのことがそのまま心霊体験を肯定するということにはなりません。心霊現象を無条件で肯定する彼らが、彼らの経験を正当化するときに使う「科学は万能ではない」という言説が無力なのは、彼らにとって「科学が万能ではない」のは、科学の万能性を検証した上での結論ではなくて、単に彼らの主張と科学の主張が相容れないという理由によるものであり、逆に科学によって心霊現象が肯定されることがあれば、おそらく彼らは「心霊体験」の根拠として、科学的な論拠を提示することになることが容易に想像できるからです。自分たちに都合のよい科学は甘んじて享受し、自分たちに都合の悪い科学は非難する。そして、何らかの根拠によって心霊体験を肯定するのではなく、「経験」という根拠をでっちあげることによって心霊体験を事実として立証しようとする。彼らにとって、心霊体験は事実でなくてはいけないものですから、根拠としての「経験」は絶対的なものであり、自分たちが経験を捏造しているなどとは、露ほどにも考えない。偏見に満ち溢れたこの主張は、現在におけるぼくの意見です。

 なんだか経験や体験を全否定しているような内容になってしまったので少しだけフォローをしておくと、ぼくは人の経験や体験談を聞くのは大好きだし、人が「経験」を語る際の誇張や変更の必要性については認識しているつもりです。心霊体験にしても、それを経験として語られているのを聞くのは大好きだし、小説にしてもエッセイにしても、経験を抜きにしてはあり得ないでしょう。実際のところ、神霊体験が事実であろうとなかろうとぼくにしてみればどうでも良いことだし、それを事実として語ることによって何ら弊害がでるわけでもないのですが、「信じないのなら信じなくてもいい。けれども事実は事実だ」とかほざく彼らの傲慢な態度にいいかげん辟易します。経験を事実として主張するときに、その根拠して「経験」自体を提示するのはいかがなものか。これは「心霊体験」に限ったことではないのです。

 畢竟するに、ぼくにとって一番信用できないのは、自分の記憶であり、自分の経験であり、自分の思考なのであります。

03年08月31日(日)

 昼過ぎに起床。何時間寝たのだろう。勉蔵君の家へ行ってお水を頂き、勉蔵君による今後の鉄割の在り方の講釈を三時間ほど聞いて帰宅。

 なんだか気が抜けて、いつの間にか寝てしまいました。八月も終わり、秋はもう、すぐそこまでやって来てるのですね。なんだか気が抜けて。。。

 おやすみなさい。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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