夕方の四時に起床、兄弟はいつの間にかいなくなっており、カップラーメンを食べたらしき跡が残るのみ。シャワーを浴びて、眠気覚ましに再び『キル・ビル』を観に映画館へ。一度目に観た時は、へんてこな面白さばかりが印象に残っておりましたが、二度目はアクション映画として楽しむことができました。やっぱりとても面白い、この映画。
その後、古本屋さんへ。村上陽一郎著『宇宙像の変遷』を購入。先日、朝永振一郎氏の『物理学とは何だろうか』を読んで、自分がいかに物理学の歴史というものをじぇーんじぇん知らないかを実感、人がどのような技術的変遷を経て現在の(総合的な意味においての)科学にたどり着いたのか、もう少し深く勉強しましょう。
目覚めれば午後四時。二日連続でお寝坊さん。眠りすぎで頭が茫漠としておりますが、トートバックに本を詰め込んでカフェへ行ってスパゲティをいただきながら読書。あれを知りたいからこれを読む、するとあれとあれも知りたくなる、だからこれとこれを読むと今度はあれとあれとあれに興味が湧くのでこれとこれとこれを読むと、あれとあれとあれとあれを読まないとこれは分かりにくいらしいので、これとこれとこれとこれとこれを読む、延々と続く読書の連鎖、もどかしいけれどもこれが楽しいの。
夜、中島君がおもしろいと言っていたので、深作欣二監督『仁義なき戦い』を借りて観ました。やばっ、本当に面白い。広島弁がとても素敵。語尾が「〜の」ってなるのがとてもかっこいい。松方弘樹が金子信雄にドスきかせるこのセリフとか。
おやっさあっ、ゆうたったRらのう、あんたあ、はじめかRらわしらがかついどRるみこしじゃないの。組がここまでなんのに誰が血いながしとRるの。みこしが勝手に歩けるゆうんなら歩いてみいや。おうっ。(「R」は全部巻き舌で)
この種の男らしい日本映画を借りることは、ぼくにとってスカトロホモ映画を借りるぐらい恥ずかしいことなのです。なので、とりあえず内倉憲二の名前で領収書をもらいました。
午前九時起床、早起き!部屋を掃除し、洗濯して、バックに本を詰めこんで家を出て古本屋さんへ、W.O.クワインの『現代論理入門』と冨田恭彦著『クワインと現代アメリカ哲学』を購入。お茶を飲むことができる場所で読書、長々と、悠々と。
夕方、お友だちのマラソン君が面白かったと言っていたので『マッチスティックメン』を観に行ってきました。映画館にはぼくともうひとり、ふたりしか観客がいません。足をだらーんとさせて、ポップコーンを食べながら、優雅に映画鑑賞。とても良いお話で、感動しちゃいました。展開が全く読めなかった映画は久しぶりです。『レオン』みたいのを想像して、全然期待していなかっただけに、儲けた気分。デートするならこういう映画を観に行きたいものです。
夜、『仁義なき戦い・広島死闘編』を観ながら昇降運動、若い人たちはともかく、金子信雄以外のじいさんたちの顔の区別がつきません。そういうときはDVDの抗争関係図を参考にしましょう。
ところで、日本と中国以外のアジアで、このようなやくざ(マフィア、ギャング)映画ってあるのでしょうか。タイとか。ぜひとも観てみたいのですけれど。
以前に友人からその評判を聞いて気になっていたスティーブン・ピンカーの『心の仕組み』を購入しようと本屋さんを数件まわってみたのですが、どの本屋さんも中巻と下巻はあるのに、上巻だけが品切れになっていました。皆さん、上巻だけ買ってまだ読み終えていないのかしら。大学の生協でようやく発見、購入。ちなみに、この本は翻訳に問題があるということでこのようなプロジェクトが立ち上がっています。
夜、『マトリックス・レボリューションズ』を観てきました。いつもは閑散とした家の近所の映画館も、さすがに本日は賑わいをみせております。さて、どのようなラストが待ち受けているのでしょう、わくわくと。
よく行く古本屋さんにて、内田の百けんさんの文庫がまとめて放出されているのを発見。絶版になっている福武や旺文社のものなどは結構な値段がついていて、これらの本をこの店に売った方、ぼくに直接売ってくれれば、この店の買取値の五倍で買ったのにい。仕方がないので『ノラや』だけ買いました。絶版になっていないためか、三百円。
秋の夜長に読みましょうと、ぱらぱらとページをめくってみたところ、いやだなあ、読んだら絶対に泣いてしまいます、これ。本当にいやだ。
ノラは三月二十九日に出て行つたのだから、三月三十日の朝だつたかも知れない、目がさめて、昨夜ノラが帰つて来なかつたと思つた途端、全然予期しなかつた嗚咽がこみ上げ、忽ち自分の意識しない号泣となり、涙は滂沱として枕を濡らした
今となつて思ふに、その時ノラは死んだのだらう。遠隔交感の現象を信ずるも信じないもない。ノラが私の枕辺にお別れに来たに間違ひない
夜中に『ノラや』を読んで、やはり泣いて、いつの間にか寝て、起きて家を出て電車の中で読んだら泣いてしまいそうなので読むのを止めていたのだけれど、思い出してやはり涙が出てくる。ノラを思う内田のじいさんのことを思うと悲しいのは当たり前だけど、家を出たノラがもしや迷子になって家に帰ることが出来ずに、内田さんや内田の奥さんのことを思って鳴いているのではないかと思うと、本当に悲しい。見たことも抱いたことも一緒に暮らしたこともないノラのことを思うだけで、これほどまでに悲しい気持ちになるのだから、ましてや共に生活をしていた内田のじいさんと奥さんはの悲しみはいかほどなのだろう。
猫は煙を気にする様である。消えて行く煙の行方をノラは一心に見つめてゐる。彼がもつと子供の時は、家内に抱かれてゐて私の吹かす煙草の煙にちよつかいを出し、両手を伸ばして煙をつかまえようとした。しかし今はもう一匹前の若猫だからそんな幼穉な真似はしない。ぢつと見つめて、消えるまで見届ける。
「こら、ノラ、猫の癖して何を思索するか」
「ニヤア」と返事をしてこつちを向いた。
夜、看護婦さんたちとお酒を飲みに下北沢へ。阿呆ほど酔っぱらって気持ち良く、二件目へ、梅酒をがぶ飲み、とても楽しい会でございました。また遊びましょうね。
夜中深くまで飲んでいたので、ひっじょーに眠い。眠い目をこすってお仕事へ、存分に勉強できる環境がとてもありがたい。するしないは別として。
お給料が入ったので、岩波から出ている西田幾多郎哲学論集を購入しておこうと思ったのですが、第二巻だけどこに行っても手に入りません。Amazonで注文しようとしたら品切れの様子。岩波のサイトで調べても、やはり品切れ。えー、まさか絶版ですか。古本屋さんを何軒かまわったところ、哲学論集は発見できなかったものの、『自覺に於ける直觀と反省』を発見、即購入。
夜、『仁義なき戦い・代理戦争』と『頂上作戦』と『完結編』を連続で観ました。松方弘樹が何度も違う役で出てきて、何度も殺されるのでびっくり。映画としてとても面白かったのですが、話の展開がよく分からなくなってしまったので、『実録「仁義なき戦い」外伝—血の抗争の鎮魂歌』を読んで復讐ではなくて復習しましょう。
遅い起床の日曜日。お給料をもらって初めての休日なので、どこかへ遊びに行こうかしらとも思ったけれど、天気が悪かったので一日を読書して過ごします。カフェイン飲んで、集中して。
ここのところ、ギャング映画ばかり観ていてなんだか男気を刺激されてしまったので、垣芝折多著『偽書百撰』を読んで心をおちつけましょう。『偽書百撰』は「明治・大正・昭和の奇書・珍書・偽書百冊を総覧する奇想天外の書」でありまして、もしかしたらぼくにとって世界で一番面白い本かもしれません。
例えば第六十九書『ホラや』。昭和十五年に慎重社より刊行、著者は家葉一軒。家葉氏の家に住み着いた犬でも猫でもないホラ噺をする「ホラ」。百けんさんの『ノラや』と同様に、楽しげな著者と妻とホラとの暮らしが綴られています。始まりも内容も『ノラや』にそっくりで、普通に考えればこの書は『ノラや』のパロディかと思いますが、選者である垣芝折多氏は次のように書いています。
だが、あらためて考えれば奇妙なことに気づく。百けんの『ノラや』は昭和三十二年の作品。本書はそれよりもずっと古い、昭和十五年の話だ。だとすると、これは『ノラや』のパロディではあり得ない。むしろ『ノラや』が本書のパロディということになる。
百けんさんの『ノラや』と同様に、ホラも突然に姿を消してしまいます。もちろん著者は熱心にホラ探しをします。ホラが見つかったという情報を得て著者が出かけて行くと、「贅沢は敵だ」「八紘一宇」「臣道実践」「南進日本」「一億一心」「報国産業」などといった立派なシンジツ(この書は昭和十五年のもの)ばかり、中にはウソやデマもおりましたが、ホラは「どこにでもゐるありふれた駄ホラ」であり、夢の様に小さいもの。
『ノラや』と大きく異なるのはその結末です。最終的にホラは帰ってきますが、以前のようにすばやく動くことはありません。
ホラは以前の様に独り言も吐かない。只黙つてゐるばかりだ。
ホラやホラやと呼んでも返事もしない。このまま生きのびるだらうと考へると、切なくて仕方ない『ホラや』より
タネを明かせば、垣芝折多氏の正体はぼくの大好きな方の偽名でありまして、さらにタネを明かせば、ここで紹介されている百冊はすべてその氏による創作であります。こんな素敵な偽書百撰を創作してくれた氏に、心より敬意を。偽のない世の中なんて、ちーっとも面白くありません。
人と合う予定があったので高田馬場へ、美味しいランチをいただきながら、近況などを報告。その後、古本屋を巡って両手いっぱいに古書を購入、ふらふらになりながら適当なお茶場へ、読読書書。
買い込んだ本の中でも特に読むのが楽しみなのが、『ケンブリッジ・クインテット』という本。数年前に、NHKでやたらと生命科学やら複雑系やら人工知能やらの特番が放送されていた時期があったのですが、その時にこの『ケンブリッジ・クインテット』を題材に人工知能を特集した番組が放送されました。番組(タイトル失念)には、著者であるジョン・L. キャスティも登場し、哲学者である黒崎政男と、人工知能について軽く討論をしていたような記憶が。あービデオに撮っておけばよかった、すごく観たい。
『ケンブリッジ・クインテット』の内容は、1949 年のイギリスのケンブリッジで五人の知の巨人が食卓を囲み、人工知能について議論を闘わせるというもので、登場人物は物理学者C・P・スノウ、哲学者ウィトゲンシュタイン、遺伝学者ホールデイン、ノーベル物理学賞のシュレーディンガー、数学者チューリングの五人。すべて歴史的に実在の人物ですが、内容は完全にフィクションであり、五人が一堂に会したことは現実には(多分)ありません。ずーっと読みたかった本なのですが、もう少し勉強してからと思いつつはや幾年、古本屋さんで発見したのを機会として、読んでみようと思います。
夜、『グッドフェローズ』を観ました。かなり久しぶりに観たのですが、内容をほとんど忘れていて、こんなにおもしろい映画だったのか。ああ、また男気が刺激されて。
怖れていたものが、とうとう発売されやがった。っていうか発売されやがる、12月5日に。『ムーミン パペット・アニメーション DVDスペシャルBOX』。78話全部収録(夏に渋谷で公開されたのは、半分の36話)してやがるし!定価19000円、Amazonで16150円。しかも初回限定3000セット。ぼくのお給料日に発売というのがまた憎い。これは買うしかないでしょう、即効でAmazonクリック!うきゃー
来月はテントを購入しようと思っていたのですが、やむを得ません、延期しましょう。発売日まで、先日古本で購入した『ムーミン谷へようこそ』と『ムーミンパパの「手帳」』などを読みながら心待ち。
人と会うために板橋へ、思いのほか懇談が早く終わったので、未知の町をぶらぶらと散策、映画館があったので、『昭和歌謡大全集』を観ました。うぎゃー、最高に面白かったー
前にもちょいと書きましたが、この作品は村上龍の原作を映画化したもので、ストーリは単純明快、少年グループとおばさんグループの殺し合いです。とは言っても、悲壮感のようなものはほとんどなく、全編を通して懐かしの昭和歌謡が、登場人物が歌うなどして効果的使われていて(例えば、安藤政信演ずるスギオカが殺されるシーンでは、チャンチキおけさが流れる、など)、ユーモラスで不思議な世界が描かれています。
松田龍平の下手くそな『恋の季節』のオープニングはわくわくさせてくれたし、最初から最後までぶれまくりの画面は意図的なのだろうけれど、全体に漂うたるい感じもとても良かったし、キャストの演技もとても良かった。鈴木砂羽がおばさん役で出ているのにもびっくりしたし、去年『阿弥陀堂だより』で素敵な女医さんを演じていた樋口可南子が嬉々として殺人ゲームを楽しんでいる様子もとても素敵でした。樋口さん、最後のあれは、オナニー?していたのでしょうか。
その中でも一番好きなのは、少年たちがトカレフを買いに埼玉と群馬の県境までバスで行くシーン。とても長閑で、とても楽しそうで。
映画が終わってから知ったのですが、監督は『草の上の仕事』の篠原哲雄さんだそうです。
雑誌「太陽」の昔の号で、信濃路の双体道祖神のことを読む。とくに安曇野は道祖神の宝庫らしい。安曇野といえば、先日読んだ山の本で紹介されていた有明山のある土地。山頂に鳥居がある有明山は、それほど有名な山ではないが、静寂でひとり登山を楽しむことができそうな山だった。日帰りで行くことができるので、来年の夏ぐらいに、一日目は有明山に登り、山路を歩きながら兎角に人の世は住みにくいなどと考え、夜は安曇野の温泉で一泊、次の日は道祖神を求めてぶらりぶらりと散策するのも良いなあと思う。「太陽」に掲載されている写真の風景は今から二十五年前のものなので、この雰囲気で旅情を期待するわけにはいかないが、とにかく、安曇野という土地を覚えておこう。
古本屋さんで西田幾多郎『現代に於ける理想主義の哲學』を購入。奥付を見ると大正十三年七月とあり、八十年の時を経て紙質がかなりいい感じ。当然、字体は旧字体で、西田さんの書は新仮名遣いでも難しいのに、これを読んでぼくは一体どこまで理解できることやら。しかも本の雰囲気がなにげに厳かなので、線を引くこともメモを書き込むこともはばかれて、どうにも読書がはかどる様子ではない。本にいろいろと書き込まないと理解が進まない身としては、このような威厳のある書の風体は困ります。でも読みますよ、この書に書かれていることは、その後の西田さんの哲学を理解するのに重要なことばかりですから、心を鬼にして書き込みます、線を引きます、折り曲げます、ほうり投げます。そうしないと読めないのですから、読まないよりは書も喜ぶでしょう。
夜、沖縄料理を食べに。泡盛を飲みながら、沖縄料理に舌鼓。死ぬほど美味しいコロッケをいただきました。ここのところ、美味しいものを全然食べていなかったので、久しぶりに食事を堪能。
夕方に、お仕事を終えて帰宅しようとしたときのこと。日が短くなってすっかり暗くなった秋の夕方の帰り道、ふと見ると路傍に猫がうずくまっている。にゃあ、と話しかけると、猫はこちらを凝視、どうやら野良らしく、近づくとすごい勢いで逃げ出してしまった。野良は兎に角に用心が深い、逃げ出すのも詮無いことと思い、駅に向かって歩き出す、しばらく歩くと後ろから、にゃあという声。振り向くと、先程の猫が道の真ん中に座ってこちらを見ている。にゃあ、と応えると、向こうもにゃあ、と返事をする。それではと思い、ゆっくりゆっくり、驚かさないように近づく。にゃあ、と言うと向こうもにゃあ、と答える。あと三歩というところ、突然に猫はダッシュで逃げ出す。なんだよう、と思い、電車にも遅れてしまうのでもう行かなくてはと、猫に未練はあるものの再び歩き出す。次の電車に乗り遅れると、一度で済む乗り換えを二度しなくてはならないのです。少し急ぎ足で、しかししばらく歩くと後ろから再び、にゃあという声。振り向くと、先程の猫が道の真ん中に座ってこちらを見ている。にゃあ、と応えると、向こうは如何にも親しげな感じで目を細めて、にゃあ、と返事をする。念のためにもう一度にゃあ、と言うと、向こうは道路に体を投げ出すようにどさっと横になり、目を細めて、にゃあ、と応える。それではと、驚かさないようにそろりそろりと近づきます。あと二歩というところ、突然に猫はダッシュで逃げ出す。そのようなことをその後に三度ほど繰り返し、結局この猫がぼくに心を許すことはなく、電車にも乗り遅れました。けれども、このようなことがあると一日がとても良い日であったように思えるので、許してあげる。
来世というものがあるかどうか、僕未だこれを知らない。仮にもそれがあるならば、そこにもこの地球のように猫がいてくれなくては困ると思うのである。(大佛次郎)
本屋さんで雑誌『山と渓谷』を購入。特集は、「冬山デビューしよう」と「ヒザの痛みを克服する」。まさしく今のぼくたちのためにあるような特集ではないですか。初心者向けから中級者向けまで、初めての雪山登山に適した山を紹介、さらに装備や心得なども載っているので、憲の字と昭の字には自腹で購入して読んでおいてもらいましょう。「第三回登山者検定」もあるし、しかもフォトカレンダー付きなのでとてもお得だよ。さて雪山、ぼくとしては最初はあまり無理をせずに西穂高などが良いのではないかと思うのですが、いかが。
夜、映画『抱擁』を観ました。十九世紀のイギリスを代表する桂冠詩人ランドルフ・ヘンリー・アッシュと女流詩人であるクリスタルベル・ラモット、この二人の恋文を偶然に発見した大学の研究員ローランド・ミッチェルが、ラモットの研究者であるモード・ベイリーと共に二人の偉大な詩人の恋の行方を調べる、というお話。以前に予告編を観たときに、非常に危険な香りを放っていたので映画館には観に行かなかったのですが、いざDVDで観てみたらとても面白かった!過去に存在する二人の詩人の間で交わされた手紙や日記などをもとに、彼らの愛の過程を同時的に辿るローランドとベイリー、「語られる」ことのなかった過去が、「読まれる」ことによって現代に蘇り、過去の二人の愛にシンクロするようにお互いに魅かれ合っていく現代の二人。文芸的な映画はうんこみたいなものも多いですが、この映画はとても良かった。特にラストの・・・
ちなみに、ランドルフ・ヘンリー・アッシュとクリスタルベル・ラモットというふたりの詩人は実在の人物ではありません。アッシュはロバート・ブラウニング、ラモットはクリスティーナ・ロセッティがモデルとなっているそうです。
語られもせず、記されもしない事実もある映画『抱擁』より
どこかに遊びに行こうと思っていたのですが、外に出たらとても寒かったので、お茶が飲めるところで夜まで読書をして過ごしました。日々は安寧、心がたゆたっております。
先月観た『戦場のフォトグラファー』のジェームズ・ナクトウェイ氏の戦争写真に関する発言がずーっと引っ掛かっていて、別の戦争カメラマンの本を読んだり映画を観てみたいのですが、何を観たら良いのか、何を読んだら良いのかさっぱり分からず、とりあえず以前に一度観たことのある一ノ瀬泰三をモデルにした『地雷を踏んだらサヨウナラ』を観てみました。しかし、役者はともかく映画としてはひどすぎてなんの参考にもならず、一ノ瀬泰三本人のよる手記を読んでみようと思って調べたところ、今月末から一ノ瀬泰のドキュメンタリー映画『TAIZO』が上映されるという情報を発見。『地雷を踏んだらサヨウナラ』のチームオクヤマが製作というのが多少気にはなりますが、要チェック。
そういえば、スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』、まだ読んでないや。読まなくちゃ。
『ガルガンチュワ物語』などの翻訳や研究で知られるフランス文学者渡辺一夫氏の『狂気について』という評論集を読書、「買書地獄」というエッセイに強く共感いたしました。
学生時代、本を買い漁っていた渡辺さんは、ご両親から「万巻の書を積んでも読まざれば持たざるに等しい」という福沢諭吉の言葉を元に警告をされます。それに対して渡辺さんは「本はあれば読むし、なければ読まぬものである。また、座右にあればいつか必ず読む機会があるはずだし、書物は辞典のようにして用うべきもである」などと弁解したそうです。学校を卒業して職につくと、量より質とばかりに買書も少し落ち着きますが、それでも外国の古本屋さんに注文した本が届いたときなどは相当に嬉しかったのでしょう、新婚の奥さんに、新著の本を愛撫するときが一番楽しそうだと言われたとか。
現在でも金があまりそうになると、いや、あまったことにして、本屋をうろつき廻り、財布が空になるまで買い込むことが時々ある。欲しい本を見附けると喉がぐうぐう鳴る。生理的に発展してきたのである。金がなくてどうしても買えぬ時には、世のなかが暗くなってくる。そして、一所懸命に、その本を買わなくてもよい理由を考え出そうと努めるのが常である。「去年の雪は今いずこ」である。子供のパンツと靴下の代が、図らずも黄表紙赤表紙に化けることがある。えいっ!と思うのである。妻—いや女房は黙然としている。向こうでもえいっ!と思うのであろう。僕も再びえいっ!と思う。別に喧嘩もしない。
「欲しい本を見附けると喉がぐうぐう鳴る」という感じ、すごくよくわかるなあ。
面倒臭いので、後半は丸ごと引用します。本当は全文を引用したいぐらいなのですが。
こうした買書態度は、金と暇(生命)とが十分にある限りは許されるかもしれないが、いかなる人間もあらゆる意味で有限であるから、この態度は極めて非現実的であり、僕の正義は所詮空論となり、僕は寂然とする。
現実性のない正義の空論は、現実の犯す罪過に対する反省の糧になり、人類の進歩には欠くべからざるものでもある。僕の正論もそうなので、できたら我々は、本屋に通って本をたくさん買い込むべきものなのである。だが実際は、「若い時にはよく本を買ったものじゃ」という老人の数のほうが、死ぬまで本を買い続ける人の数よりもはるかに多く、後者は大概の場合、狂人扱い神経衰弱扱いにされるものである。だが前者は、その「若い頃」にノスタルジヤを感じているはずであろうし、本が買えずに読めなくなったのが口惜しくてたまらぬのである。だから、僕の正義の空論は以前として正しいのである。
ならべられた本は黙々としている。しかし、一冊一冊に収められた作者の小宇宙は、その深浅濃淡はあろうが、驚くほど雑多である。心の耳を澄ますと、轟々たる歓喜憤怒怨恨悲哀・・・の声が聞こえてくる。脅威される。なぜ人々はあんなに本を書くのだろうか?二つの物体は、空間中の一つの位置を絶対に共有できぬこと、人間は同時に二つの物を鮮明に凝視できぬこと、人間は鏡の映像を藉りねば自分の背中の黒子を見得ぬこと、こうした人間の不自由さからくるあがきが、本を書かしめるのかもしれないし、このあがきが人間をして本を求めしめるのかもしれない。
本とは一体何だ?—そして、また本が買いたくなってきた。
学生の頃、フランス文学の先生に『ガルガンチュワ物語』や『パンタグリュエル物語』のあらすじを聞いて、そんな面白い話がフランスの古典にあったのか!と驚きました。それ以来、読もう読もうと思いつつ、いまだ頁を開かず。いい機会だからちょっくら買いに行ってきます。
保坂和志氏の最新作『書きあぐねている人のための小説入門』を買おうか買うまいか迷っていたのですが、本屋さんでぱらぱらとめくって立ち読みをしたところ、「小説の書き方」のような技術的な小説作法ではなくて、「小説を書くということはそもそもどういうことなのか」という内容のようなので、購入。
保坂氏のデビュー作『プレーンソング』に言及して、内田百けんさんのことが書いてあったので、ちょっと引用します。なるほどと納得。
内田百けんは小説も随筆のような感じだが、随筆もまた小説のような趣き(面白み)がある。随筆の名手と言われているある人から直接聞いた話しによると(個人的な会話だったので、名前は伏せておきます)、随筆やコラムをたくさん書かなければならなかった時期に、お手本として漱石、鴎外、荷風などいろいろな作家を真似てみたことがあったけれど、どれも型が決まっていて、すぐにマンネリに陥ってしまい、自分でも書いていて退屈してしまった。しかし、百けんだけは型らしいものがなく、自由で、いくら真似てもマンネリ化することがなかったと言っているくらいで、内田百けんの文章は何とも説明しがたい魅力に富んでいる。『阿房列車』の面白さは、電車に乗って窓から外を眺めているような、そのまま電車に乗っているような面白さだった。ついでに言えば、外の景色を眺める面白さに、同行者とくだらない話をしたり、駅弁を買って食べる楽しみも織り込まれている。
私のデビュー作『プレーンソング』の直接のヒントは、『阿房列車』のこの雰囲気だった。
夜、鍋島さんと戌井さんと戌井さんのいとこさんと御鮨を食べに。とても久しぶりの御鮨、がつがつ食べてしまいました。とても楽しかったです。いつもいつも、ごちそうさまです。
朝、死ぬほど眠い。毎朝毎朝、死ぬほど眠い。もともと睡眠時間が少ないので、常に眠い人間だけど、ここ数週間の眠さは尋常でない。歩いていても眠い。電車に乗っていても眠い。仕事をしていても眠い。本を読んでいてもうつらうつら、勉強をしていてもうつらうつら、人と話をしていてもうつらうつら、食事をしていてもうつらうつら、どんな場所でもどんな時でも三十秒で眠れる程に眠い。体が冬眠しようとしているのかしら。眠いから、いつもカフェインを飲んでいるので、気分が悪い。でもカフェインを飲まないと、立っていられないくらい眠い。ところで、寒山と言えば昔の中国の素敵な詩人さんですが、これは有名な寒山図。
以前から思っていたのですが、鉄割の中に寒山さんがいませんか。笑顔の素敵な、とてもかわいい寒山さんが。
とにかく眠い。寝ても覚めても眠い。寒山も眠いし、拾得も眠いし、豊干も眠いし、虎も眠い。
夜更かししないでさっさと寝れば良いだけの話なのですけれど。
ネットの古本屋さんなどでよく買物をするので、郵便受けに冊子小包みの郵便物が届いていることは珍しくないのですが、ここ一週間ばかりは毎月好例の金欠の時期、本を注文した記憶はないのに、郵便受けに冊子小包み。差出人の名前をみても、はて、このような名前の友人は存じ上げません、しかしながら斎藤茂吉の切手がとてもかわいらしい。
どこぞの古本屋さんに注文したのを忘れていたかな?と思いながら包みを開けてみると、以前にぼくが向さんにお貸しした本と木村敏著『異常の構造』が出てきました。ということは、包みに記されているこの見知らぬ名前は、もしかしたら向さんの本名なのかしら。今まで二つ三つの名前をお聞きしましたが、これはまた新しい名前。
同梱されていた『異常の構造』は、やばいくらいに面白そう。表紙の「著者は、道元や西田幾多郎の人間観を行きづまった西洋流の精神医学に導入し、異常の世界を真に理解する道を探ってきた」という紹介を読んで驚いたのは、実は今週を通してぼくが読んでいたのが里見とん著『道元禅師の話』、秋月龍みん著『道元入門』、岩田慶治著『道元との対話』、鎌田茂雄著『正法眼蔵随聞記講話』などの道元禅師に関するものばかりだったからで、もちろん仏教の素養もないのにその偉大を理解など出来るはずもありませんが、しかし分からないなりにも得るところはあり、いろいろと思うところを探っていたときにこの『異常の構造』が届いたのは、どうにも偶然というよりも完璧な偶然のように思えて仕方がない。人はとかく因果に理を見つけようとするもの、道を外さないように、気をつけて、気をつけて。
そういえば、以前に向さんに教えてもらった『猿の本—われらが隣人サルをめぐる物語』という本も面白過ぎて驚きました。もしもぼくが自由に本を編纂できて、かつそのような仕事への能力があったならば、このような本を造ってみたいと思いました。古今東西の文人才人の猿に関する文章が収録されており、頁の各下にはこれまた古今東西の素敵な猿の絵が判を押したようにぺたりとあります。収められている文章も、子母澤寛からフローベールまで、おもしろいものばかり。
それから女は酒を出して自分も飲み、猿にも飲ませました。すると猿めは立てつづけに十回ほども逸物をぬきさししましたので、女は悶絶してしまいました。猿はそのまま女の体に小蒲団をひっかけて自分の席にもどりました。そのときてまえは部屋のまん中へおどりこんでいきました。猿めはてまえに気がつくと、いまにもてまえの五体をずたずたにひき裂かんばかりの形相をしました。が、こちらはやにわに包丁をぬいてずぶりとお腹につきさしましたので、たちまち臓物が飛び出してしまいました。『千夜一夜物語』より
週末は、『異常の構造』を熟熟読して過ごしましょう。向さん、たぶん向さんだと思うのですが、ありがとうございました。大切にお借りします。
つっこみ出したらきりがありませんが、真実がどうであれ、このようなニュースがあるから毎日を生きていけるわけです。
このニュースを聞いてリック・バスの『見張り』という短編小説を思い出しました。ここ数年の間に読んだ短編小説の中でも、衝撃的なぐらいに面白かったこの作品は、家出をして森で大勢の女性と共に野生の生活をする父親と、その父親を捕まえようとする息子(話し好き、ただし話はつまらない)と自転車乗り(でぶ)のお話で、本屋を徘徊しているときにぼくが探しているのは、いつでもこの『見張り』にような小説なのです。
夜、鉄割のところへお酒を飲みに。この方々は、時間に並行してきちんと歳をとっているのかしら。
天気がとても良いので公園に散歩に行こうと思って家を出たのですが、途中で寄った古本屋さんでビアスの短編集を買ってぱらぱらとめくったら面白そうなので、そのままお茶場で読書。「ぼくはボファー・ビングスという男だが、少々卑しい稼業をしていた正直な両親の下に生まれた」。陽は読書で沈み。
夜、クリント・イーストウッド監督主演『ブラッド・ワーク』をだらだらだべだべとしながら観ました。派手でなくてとても好きな感じの作品。なんだかアドベンチャーゲームをやりたくなった。アドベンチャーゲームって今でもあるのかしら。
それにしても疲れた一週間でした。疲れ過ぎて足がしびれています。今日は早くに眠りましょう。明日、ちゃんと起きられますよう。
千歳烏山から歩いて周辺を散策しました。この周辺はほとんど歩き尽くしていると思っていたのですが、思いがけずに近場に寺町通りがあったり、おもちゃの墓場のような素敵な公園があったり、まだまだ知らないところはたくさんあるのだなあと実感、とても楽しい時間を過ごしました。残念なのは諸事情によってぼくと連れの格好がとても珍妙であったことで、それさえなければとても静かなお寺巡りができたのですけれど、珍妙であるからこそ見えるお寺もあるわけです。
自信やネタなんてものは 詰まったウンコがどばっと出てくるような状態でなくてはならないのに、うんこすらカラッカラになってしまい、糞畑にからっ風、といった状態の彼を見るのは非常に忍びないので、寺にでも泊まって背骨を粉々に砕いてもらうか、いっそのこと全てを捨てて(PS2を後輩に譲って)乞食にでもなってみたらいかがなどと心の中に思いつつ、そのような思いが自分に向いていることは明白、精進のことを思うと暗澹、以前の彼の言葉ではありますが、頭ではなく心で考えろと。
こんどは普通の格好で寺町通りへ行ってみよう。ひとりで、静かに。風に吹かれたりして。
数年前に古本屋さんで100円で購入して、そのまま本棚の奥に埋もれていたジョナサン・キャロルのファンタジーホラー『死者の書』を偶然に発見、読んでみたらすごく面白かった。ラストの二行がすべての伏線の到達点となっている小説なんて、初めて読んだかも。ゴシックホラーってこんなに面白いものだったのね。保坂和志が『書きあぐねている人のための小説入門』で、小説とストーリーの違いについて「ストーリー・テラーは、結末をまず決めて、それに向かって話を作っていく」というふうに説明していたけれど、まさしく結末に向けての伏線が至る所に張り巡らされていて、読み終えて感嘆。いやあ面白かった。
ところで、主人公であるトーマス・アビイが高校のアメリカ文学の先生であることもあって、物語の至るところに文学的な引用や参照が登場するのですが、そのなかのひとつ、ジェームズ・サーバーの一角獣の話がとても気になって調べてみたところ、全文をWebで読むことができました。短いし、とても面白い(少なくともぼくはこのような話が大好き)ので、ぜひご一読。
『死者の書』はジョナサン・キャロルの処女作で、現在までに彼女の作品は翻訳されているだけでも十冊が出版されているようです。他の作品も読んでみようっと。
本を読むってことは、少なくともぼくにとっては、誰か別の人間の世界に旅をすることなんです。いい本なら居心地はいいし、それでいてその世界で自分に何が起きるのか、角を曲がったところに何が待っているのか、知りたくてたまらなくなる。ひどい本ならニュー・ジャージーのセコーカスを通り抜けてるようなものです—臭いし、どこかよそに行きたいと思うんだけど、旅を始めてしまった以上は、窓を閉めて口で息して通り抜けるしかない『死者の書』より
昨日から歯が痛んでいたので嫌な予感はしていたのですが、発熱してしまいました。月に一度は病に臥しております、やはり日頃の不摂生。
思えば本日は鉄割の本番の日、ああやつらは今ごろ舞台で意気軒昂としていることでしょう、今回の公演に参加しなかったことは正しかったと思いながらも、天井を見つめているとなぜか寂しく。
夜に冷たい蒲団に身を包み、漫然とテレビを眺めていたら、壇一男の最後の数ヶ月のドキュメンタリーが放送していて、体が弱ると精神も弱るのでしょうか、なぜか涙がとまりません。
そうだ、今からこのホテルを折り畳んで、パリマで直行すれば、今年の暮から正月の「ポナネ」の熱狂と寂寞に紛れこめるではないか、そのままそのパリの雑踏の中から、素早くインスブルックあたりまで、逃げ出して行ってしまいたいものだ。
私は、ゴキブリの
這い廻る部屋の中で
もう一息ウイスキーを乾して
酔い痴れて、酔い痴れの妄想を広げている「火宅の人」
病気の時だけ人が恋しいというのは、都合が良過ぎます。いずれ人知れぬ山奥に隠居する身であれば、こういうときこそ孤独に慣れるに絶好の機会、兼好法師曰く、まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。